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横山は宴の場で、桜に一頭の馬を繋ぎ留め、『これは人を噛み殺すほどの暴れ馬で、鬼鹿毛(おにかげ)と呼ばれている。近寄ってはならぬ』と伝えたところ、満重はこれを巧みに操ってみせた。たちまち満重の力量を察した横山は、到底敵わないとみて酒に毒を盛る作戦を案じた。横山の企てを密かに照手に告げられていた満重は気分が悪いと酒を拒んだが、無理やり横山に押し付けられて臭気を吸い卒倒する。家臣も泥のような血を吐きながら息絶えた。横山は満重一行の所持品一切合財を剥ぎ取り、手下に命じ11人の屍を'''上野ヶ原'''<ref>俣野村の街道寄り(現・横浜市戸塚区原宿付近)と伝わる。付近にはかつて鬼鹿毛山と呼ばれた小山があり、今も馬頭観音が祀られている。</ref>に捨てさせた。
同じ頃、[[清浄光寺|遊行寺]](清浄光寺)の遊行十四代同じ頃、遊行寺(清浄光寺)の遊行十四代'''太空上人'''は、[[閻魔|閻魔大王]]の使者と名乗る者が差し出す書状を読む夢を見た。広げてみると、『常陸国の小栗満重と家臣達が上野ヶ原に倒れている。満重の命だけは救うので急いで向かい、熊野で[[湯治]]させるように』と書かれていた。目覚めた上人がお告げに従って弟子と共に向かってみると、野犬や鳥に喰い荒らされる亡骸の中で僅かに手足が動く者を見つけた。満重とみた上人は車に乗せ連れ帰り、『この者は熊野の湯に向かう病人である。わずかでも車を引いて助けた者には千の僧への供養にも勝る功徳が与えられよう』と記した札を車に据え付けた。街道沿いの人々に助けられ熊野に辿り着いた満重は、温泉の効用と[[熊野権現]]の霊験により快方に向かった。は、閻魔大王の使者と名乗る者が差し出す書状を読む夢を見た。広げてみると、『常陸国の小栗満重と家臣達が上野ヶ原に倒れている。満重の命だけは救うので急いで向かい、熊野で湯治させるように』と書かれていた。目覚めた上人がお告げに従って弟子と共に向かってみると、野犬や鳥に喰い荒らされる亡骸の中で僅かに手足が動く者を見つけた。満重とみた上人は車に乗せ連れ帰り、『この者は熊野の湯に向かう病人である。わずかでも車を引いて助けた者には千の僧への供養にも勝る功徳が与えられよう』と記した札を車に据え付けた。街道沿いの人々に助けられ熊野に辿り着いた満重は、温泉の効用と熊野権現の霊験により快方に向かった。
一方、横山の狼藉を目撃した照手姫は屋敷を脱走して東方に向かうが、やがて追手に捕まり'''[[侍従川]]'''に沈められる。危ういところを金沢六浦の[[漁師]]によって偶然助けられるも、[[漁師]]の女房に美しさを妬まれてさまざまな[[虐待]]を受け、最後には六浦浜で人買いの手に売り飛ばされてしまう。照手は売られては移り、移っては売られて各地を転々とする日々を送り、[[美濃国|美濃]]の[[青墓宿|青墓]]まで流れ着いた{{efn|説教節と異なり、病身の満重とこの時点で邂逅する描写はない。満重は西方の熊野に向かう一方、照手はいったん東に向かって捕られ自由を失ったことで、満重の後を追う形になったことが示唆される。}}。
[[File:湯の峰温泉湯筒 上流側より見るImg987.jpg|thumb|250px|right|小栗伝説にふさわしい佇まいを残す[[湯の峰温泉]](上流より湯筒が見えるあたり。)]]
すっかり回復した満重は三河に向かい、同族の支援を得て、京都で沙汰を受けることとなった。事の顛末を打ち明け、身の潔白を訴えた満重は鎌倉方の許しを得ることに成功し、再び[[常陸国|常陸]]の[[領地]]を与えられ[[判官]]となった。さらに、仇敵の横山を討ちとり、遊行上人に深く礼を述べるとともに家来を弔った。後に満重は下女として働いていた照手を見つけ出し、[[夫婦]]となった。[[応永]]33年([[1426年]])3月に満重は亡くなり、弟の助重が領地を継いで遊行寺に満重と家来の墓を建てた。照手姫は[[仏門]]にはいり、長照比丘尼の諱を授かり[[永享]]元年([[1429年]])に遊行寺内に[[草庵]]を結んだという。永享12年([[1440年]])10月14日永眠<ref group="注釈" name="765192/48">[{{NDLDC|765192/48}} 『東海道鉄道遊賞旅行案内』(明治27年発行)](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
==== 鎌倉大草紙 ====
[[File:Monument-of-Kumano-Gongen-do.Ishikawa.Fujisawa-city.Kanagawa-pref.jpg|thumb|小栗判官伝説をつたえる熊野権現堂の碑(神奈川県藤沢市石川)]]
 
[[鎌倉大草紙]]には異なる話が書かれている。満重が[[三河]]の国に脱出した頃、判官の子である小次郎'''助重'''とその家来は相模国権現堂{{efn|『[[新編相模国風土記稿]]』では高座郡大庭庄石川村(現・[[藤沢市]][[石川 (藤沢市)|石川]])の[[小字#小字と小名|小名]]権現村であるとする<ref>{{Cite book |和書 |editor=間宮士信 等|editor-link=間宮士信 |year=1888 |title=新編相模国風土記稿 |publisher=鳥跡蟹行社 |series=第3輯 大住・愛甲・高座郡|id={{NDLJP|763969/423}} |ref=harv }}</ref>。2015年現在、権現庭の地名と熊野権現堂が残る。<ref>[http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/zengyo-c/kyoiku/bunka/kyodoshi/documents/000383894.pdf 『善行の古道を歩いて名跡を訪ねる』]
ぜんぎょうを知ろう!ふるさと再発見編集委員会 善行地区郷土づくり推進会議 善行市民センター、平成26年、43頁。</ref>}}に泊まった。屋敷に出入りする盗賊に毒を盛られたが、気が合った屋敷の遊女のひとり、'''照姫'''に進言された助重は酒を口にしなかった。

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