差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
189 バイト除去 、 2022年9月10日 (土) 19:06
編集の要約なし
===藤沢市===
==== 遊行寺長生院の伝承 ====
[[長生院_(藤沢市)|長生院]]に伝わる小栗略縁起神奈川県藤沢市にある長生院に伝わる小栗略縁起<ref>{{Cite book |和書 |author=相州藤沢山内 長照院 |year=, 1879 |title=, 小栗略縁起 |publisher=, 長照院|series=, 2版|id={, {NDLJP |:820114}}|ref=harv }}</ref>は以下のようなものである。
<!-- 過去の版において、説教節など混同され、出典と明らかに異なる記述が多数ありました。
出典は国会図書館デジタルライブラリーで確認できますので、編集の際はできるだけ忠実な記述を心がけてください。-->
これは[[後小松天皇|後小松院]]の御世{{efn|小栗略縁起は「人皇百一代後小松院」に始まり、結びに満重の没年が[[応永]]33年とあるため、[[院政]]を開始した[[1412年]]これは後小松院の御世<ref>小栗略縁起は「人皇百一代後小松院」に始まり、結びに満重の没年が応永33年とあるため、院政を開始した1412年(応永)19年から[[1426年]]の期間に絞られる。}} 19年から1426年の期間に絞られる。</ref> の出来事である。
[[常陸国]][[小栗城]]城主、[[小栗満重]]{{efn|史実上は小栗判官(小栗助重)の父の名であるが、この伝承においては判官自身を指す。史実での満重は実際に謀反を起こすが失敗し、[[応永]]30年([[1423年]])、小栗城にて自刃したとされる。[[小栗満重の乱]]も参照。}}常陸国小栗城城主、小栗満重<ref>史実上は小栗判官(小栗助重)の父の名であるが、この伝承においては判官自身を指す。史実での満重は実際に謀反を起こすが失敗し、応永30年(1423年)、小栗城にて自刃したとされる。小栗満重の乱も参照。</ref>は、讒言により謀反の疑いをかけられ、鎌倉方{{efn|史実通りであれば[[足利持氏]]の配下。}}<ref>史実通りであれば足利持氏の配下。</ref>に攻め落とされた。子の小次郎'''助重'''ともども[[三河国|三河]]{{efn|史実上の[[常陸小栗氏|小栗家]]も脱出して[[三河小栗氏|三河小栗家]]を興したとされる。}}へ脱出を図った親子は離ればなれとなり、助重は[[甲斐国|甲斐]]方面から脱出した。ともども三河<ref>史実上の小栗家も脱出して三河小栗家を興したとされる。</ref>へ脱出を図った親子は離ればなれとなり、助重は甲斐方面から脱出した。
10人の[[家来]]とともに[[東海道]]を下る'''満重'''が[[相模国|相模]]の藤沢に差し掛かったところで日が暮れてしまった。そこに'''横山太郎'''と名乗る者{{efn|相模横山家、横山'''大膳'''という人物の記録が[[横浜市]][[戸塚区]]俣野に残るが、長生院の伝承において両名の相関は認められない。}}が一行を呼び止め、宿を提供しようと申し出た。横山は、旅人を殺し金品を奪う[[盗賊]]であった。

案内メニュー