== 概要 ==
朱蒙という名前は史書に実在するが、その生涯に関する確実な史料はほとんどなく、紀元前37年に高句麗を建国したということ以外、実際にどんな人物であったかは全くわからない<ref name="宮脇淳子6-7"/>。414年に建立された『好太王碑』に「始祖の鄒牟王を顧みれば、聖なる始祖王は北夫余より天帝の子、母を河伯の女郎として '''卵から生まれた'''」という一文が刻まれているほか、1145年に成立した朝鮮で現存する最も古い史書『三国史記』にも、朱蒙についての記録がある<ref name="宮脇淳子6-7"/>。しかし、『三国史記』編纂より700年以上昔の話であるため、そこに記されているのは極めて神話的な話であって、朱蒙が卵から生まれたということひとつをとっても、およそ史実といえるようなものではない<ref name="宮脇淳子6-7">宮脇淳子, 2013-08-08, 韓流時代劇と朝鮮史の真実, 扶桑社, ISBN:459406874X, page6-7</ref>。
== 建国神話 ==
「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、夫余・高句麗・[[百済]]に共通して見られるが、『三国史記』編纂の12世紀に『三国志』所引の東明王の夫余建国神話や日本の神武天皇の東征伝説を模倣して創作されたものと考えられている。特徴としては王の政治的権威の源泉を天に帰属させ、同時に農業生産を左右する河神の権威を主張することである。ここでは高句麗の建国神話を『三国史記』に基づいて記述する。
百済の温祚王朝は、夫余を姓とし、その王都も夫余と称している。かつて中国の東北地区にいた夫余が南下して、朝鮮半島の南西部に王朝を開いたことはおおよそ想像できるが、依拠する文献によって異同があり、いちがいには説明できない<ref name="豊田有恒100-101"/>。『三国史記』によると、百済の始祖の温祚王の父は、鄒牟あるいは朱蒙という<ref name="豊田有恒100-101"/>。朱蒙は、北夫余から逃れてきて、その土地の夫余王に非凡な才能を見込まれ、その王女を嫁わされ即位し、沸流、温祚という二王子が生まれるが、かつて朱蒙が、北夫余にいたころ先妻の生ませた太子が現れたため、二人の王子は身の危険を察して、国を脱出して十人の臣下を連れて、南へ向かった。やがて、漢山に至り、負児嶽に登り、都すべき土地を探そうとし、兄の沸流は海辺に留まるが、十人の臣下は諌めて、都を定めるべきだと進言したが、沸流は承知せずに、弥鄒忽という場所へ行った。そこで、弟の温祚が慰礼城に即位して、百済を建国した<ref name="豊田有恒100-101">豊田有恒, 2001-03-30, 魏志「東夷伝」における原初の北東アジア諸民族に関する論攷, 島根県立大学, 北東アジア研究 1, http://id.nii.ac.jp/1377/00001456/, page-100-101</ref>。負児嶽、弥鄒忽などの地名を現在の地名に比定するのは難しいが、朝鮮半島を縦断する夫余の南下を示す記録ではある。慰礼城が、大韓民国ソウル漢江の南の地域を指していることは、ほぼ異論のないところであり、ソウルオリンピック主競技場などがある江南に、初期百済の土城遺跡が保存されている<ref name="豊田有恒100-101"/>。これに関して、稲葉岩吉は「太康六年(285年)鮮卑の慕容氏に襲撃された扶餘の残黨は、長白山の東沃沮に逃げこんだというから、それが轉出して帯方に入ったものが、即ち百済であろう」と指摘している<ref>稲葉岩吉, 稲葉岩吉, 矢野仁一, 矢野仁一, 朝鮮史・満洲史, 平凡社, date1941</ref>。
『三国史記』百済本紀の分注に、朱蒙が卒本扶余に至った際に越郡の娘を得て二子をもうけたとする記事がある<ref name="伊藤英人12">伊藤英人, 2021-07, 濊倭同系論, 古代文字資料館, KOTONOHA, page12</ref>。
<blockquote>或云:「朱蒙到卒本,娶越郡女,生二子。」(三国史記、巻二十三)</blockquote>
「二子」とは、温祚と沸流のことであり、井上秀雄]は「越郡」について、中国浙江省紹興地方か」と注記している<ref name="伊藤英人12"/>。すなわち、浙江省紹興の娘が、遼寧省丹東市桓仁県に来て、朱蒙とのあいだに、百済の始祖となる温祚と沸流を生む。拝根興(陝西師範大学)および葛継勇(郑州大学)は西安出土の在唐百済人墓誌の釈文のなかで、亡命百済貴族に「楚国琅邪」を籍贯とする人物がいることを指摘している<ref name="伊藤英人12"/>。山東半島から江南に及ぶ中国沿海部と百済の関係から考えて、中国沿海から東渡した集団、山東から遼東を経て朝鮮半島に到達したと考えられる集団と同じ行跡を辿った集団との関連性が指摘されている<ref name="伊藤英人12"/>。
=== 天光受胎 ===
朱蒙の母である[[中国]]の[[河伯]]([[黄河]]の水神)の娘である[[柳花夫人]](ユファ)は朱蒙の母である中国の河伯(黄河の水神)の娘である柳花夫人(ユファ)は<ref name="斗山世界大百科事典1"/><ref name="斗山世界大百科事典2"/><ref name="韓国民族文化大百科事典"/>、[[白頭山|太白山]]の南を流れる優渤水にいたところ、夫余の[[金蛙王]](きんあおう)と出会ったが、柳花の「遊びに出た先で、天帝の子を自称する、太白山の南を流れる優渤水にいたところ、夫余の金蛙王(きんあおう)と出会ったが、柳花の「遊びに出た先で、天帝の子を自称する[[解慕漱]](かいぼそう、ヘモス)に誘われ付いて行くと中々帰して貰えず、両親一族の怒りを買ってしまい仕方なく此処に住んでいます」という話を疑った金蛙によって部屋へ閉じ込められていたところ、日光が柳花を照らし身を引いて避けても日光は追ってきて柳花を身篭らせ、やがて柳花は大きな卵を産んだ(かいぼそう、ヘモス)に誘われ付いて行くと中々帰して貰えず、両親一族の怒りを買ってしまい仕方なく此処に住んでいます」という話を疑った金蛙によって'''部屋へ閉じ込められていた'''<ref group="私注">これも一種の「岩戸隠れ」と言えるように管理人は思う。</ref>ところ、日光が柳花を照らし身を引いて避けても日光は追ってきて柳花を身篭らせ、やがて柳花は大きな卵を産んだ<ref>高句麗など鳥を崇拝していた民族では、卵が神聖なものとされた。</ref>。
金蛙王は卵を犬や豚の傍に捨てさせるが、共にこれを食べなかった。路上へ捨てると牛馬がこれを避け、野原へ捨てると鳥が卵を抱いて守った。自ら割ろうとしても割れず、遂に母へ返した。柳花が暖め続けると卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。
[[好太王碑]](広開土王碑)では[[好太王]]は鄒牟王の17世とする。これを17世孫の意味にとると、『三国史記』高句麗本紀に広開土王は東明聖王の12世孫とあるのと比べて5世代も多い。そこで『三国史記』は[[新羅]]王室に連なる[[慶州金氏]]の[[金富軾]]が編纂したものであり、新羅を持ち上げるために高句麗の建国年を新羅の自称建国年(実際には4世紀末から5世紀初頭)よりも後にしたとみる説もあったが、現在では碑文の17世は「17代目」の意味とするのが普通である<ref>そうすると『三国史記』は広開土王が第19代であるとしているので今度は逆に2代も少ない。これについて、『三国史記』の系譜伝承は何段階にもわかれて形成されたと推定されているが広開土王の時代にはまだ後世の『三国史記』の系譜伝承が完成しておらず、次大王と新大王が追加されていなかったと考えられている。</ref>。
== 建国神話 ==
「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、夫余・高句麗・[[百済]]に共通して見られるが、『三国史記』編纂の12世紀に『三国志』所引の東明王の夫余建国神話や日本の神武天皇の東征伝説を模倣して創作されたものと考えられている。特徴としては王の政治的権威の源泉を天に帰属させ、同時に農業生産を左右する河神の権威を主張することである。ここでは高句麗の建国神話を『三国史記』に基づいて記述する。
百済の温祚王朝は、夫余を姓とし、その王都も夫余と称している。かつて中国の東北地区にいた夫余が南下して、朝鮮半島の南西部に王朝を開いたことはおおよそ想像できるが、依拠する文献によって異同があり、いちがいには説明できない<ref name="豊田有恒100-101"/>。『三国史記』によると、百済の始祖の温祚王の父は、鄒牟あるいは朱蒙という<ref name="豊田有恒100-101"/>。朱蒙は、北夫余から逃れてきて、その土地の夫余王に非凡な才能を見込まれ、その王女を嫁わされ即位し、沸流、温祚という二王子が生まれるが、かつて朱蒙が、北夫余にいたころ先妻の生ませた太子が現れたため、二人の王子は身の危険を察して、国を脱出して十人の臣下を連れて、南へ向かった。やがて、漢山に至り、負児嶽に登り、都すべき土地を探そうとし、兄の沸流は海辺に留まるが、十人の臣下は諌めて、都を定めるべきだと進言したが、沸流は承知せずに、弥鄒忽という場所へ行った。そこで、弟の温祚が慰礼城に即位して、百済を建国した<ref name="豊田有恒100-101">豊田有恒, 2001-03-30, 魏志「東夷伝」における原初の北東アジア諸民族に関する論攷, 島根県立大学, 北東アジア研究 1, http://id.nii.ac.jp/1377/00001456/, page-100-101</ref>。負児嶽、弥鄒忽などの地名を現在の地名に比定するのは難しいが、朝鮮半島を縦断する夫余の南下を示す記録ではある。慰礼城が、大韓民国ソウル漢江の南の地域を指していることは、ほぼ異論のないところであり、ソウルオリンピック主競技場などがある江南に、初期百済の土城遺跡が保存されている<ref name="豊田有恒100-101"/>。これに関して、稲葉岩吉は「太康六年(285年)鮮卑の慕容氏に襲撃された扶餘の残黨は、長白山の東沃沮に逃げこんだというから、それが轉出して帯方に入ったものが、即ち百済であろう」と指摘している<ref>稲葉岩吉, 稲葉岩吉, 矢野仁一, 矢野仁一, 朝鮮史・満洲史, 平凡社, date1941</ref>。
『三国史記』百済本紀の分注に、朱蒙が卒本扶余に至った際に越郡の娘を得て二子をもうけたとする記事がある<ref name="伊藤英人12">伊藤英人, 2021-07, 濊倭同系論, 古代文字資料館, KOTONOHA, page12</ref>。
<blockquote>或云:「朱蒙到卒本,娶越郡女,生二子。」(三国史記、巻二十三)</blockquote>
「二子」とは、温祚と沸流のことであり、井上秀雄]は「越郡」について、中国浙江省紹興地方か」と注記している<ref name="伊藤英人12"/>。すなわち、浙江省紹興の娘が、遼寧省丹東市桓仁県に来て、朱蒙とのあいだに、百済の始祖となる温祚と沸流を生む。拝根興(陝西師範大学)および葛継勇(郑州大学)は西安出土の在唐百済人墓誌の釈文のなかで、亡命百済貴族に「楚国琅邪」を籍贯とする人物がいることを指摘している<ref name="伊藤英人12"/>。山東半島から江南に及ぶ中国沿海部と百済の関係から考えて、中国沿海から東渡した集団、山東から遼東を経て朝鮮半島に到達したと考えられる集団と同じ行跡を辿った集団との関連性が指摘されている<ref name="伊藤英人12"/>。
== 夫余の建国伝説との比較 ==
== 関連項目 ==
* [[檀君神話]]
* [[后稷]]
== 参照 ==
{{DEFAULTSORT:しゅもう}}
[[Category:朝鮮神話]]
[[Category:踏まれない神]]