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百済の温祚王朝は、夫余を姓とし、その王都も夫余と称している。かつて中国の東北地区にいた夫余が南下して、朝鮮半島の南西部に王朝を開いたことはおおよそ想像できるが、依拠する文献によって異同があり、いちがいには説明できない<ref name="豊田有恒100-101"/>。『三国史記』によると、百済の始祖の温祚王の父は、鄒牟あるいは朱蒙という<ref name="豊田有恒100-101"/>。朱蒙は、北夫余から逃れてきて、その土地の夫余王に非凡な才能を見込まれ、その王女を嫁わされ即位し、沸流、温祚という二王子が生まれるが、かつて朱蒙が、北夫余にいたころ先妻の生ませた太子が現れたため、二人の王子は身の危険を察して、国を脱出して十人の臣下を連れて、南へ向かった。やがて、漢山に至り、負児嶽に登り、都すべき土地を探そうとし、兄の沸流は海辺に留まるが、十人の臣下は諌めて、都を定めるべきだと進言したが、沸流は承知せずに、弥鄒忽という場所へ行った。そこで、弟の温祚が慰礼城に即位して、百済を建国した<ref name="豊田有恒100-101">豊田有恒, 2001-03-30, 魏志「東夷伝」における原初の北東アジア諸民族に関する論攷, 島根県立大学, 北東アジア研究 1, http://id.nii.ac.jp/1377/00001456/, page-100-101</ref>。負児嶽、弥鄒忽などの地名を現在の地名に比定するのは難しいが、朝鮮半島を縦断する夫余の南下を示す記録ではある。慰礼城が、大韓民国ソウル漢江の南の地域を指していることは、ほぼ異論のないところであり、ソウルオリンピック主競技場などがある江南に、初期百済の土城遺跡が保存されている<ref name="豊田有恒100-101"/>。これに関して、稲葉岩吉は「太康六年(285年)鮮卑の慕容氏に襲撃された扶餘の残黨は、長白山の東沃沮に逃げこんだというから、それが轉出して帯方に入ったものが、即ち百済であろう」と指摘している<ref>稲葉岩吉, 稲葉岩吉, 矢野仁一, 矢野仁一, 朝鮮史・満洲史, 平凡社, date1941</ref>。
『[[三国史記]]』百済本紀の[[分注]]に、朱蒙が卒本扶余に至った際に[[越郡]]の娘を得て二子をもうけたとする記事がある『三国史記』百済本紀の分注に、朱蒙が卒本扶余に至った際に越郡の娘を得て二子をもうけたとする記事がある<ref name="伊藤英人12">{{Cite news|author=[[伊藤英人]]|date=, 2021-07|title=, 濊倭同系論|publisher=[[, 古代文字資料館]]|newspaper=[[, KOTONOHA]]|page=12}}, page12</ref>。{{quotation|{{lang|zh-Hant|或云:「朱蒙到卒本,娶越郡女,生二子。」}}<br />|三国史記|巻二十三}}{{Wikisourcelang|zh|三國史記/卷23#温祚王}}
「二子」とは、[[温祚王|温祚]]と[[沸流]]のことであり、[[井上秀雄]]は「[[越郡]]」について、「[[中華人民共和国|中国]][[浙江省]][[紹興市|紹興地方]<blockquote>或云:「朱蒙到卒本,娶越郡女,生二子。」(三国史記、巻二十三)</blockquote> 「二子」とは、温祚と沸流のことであり、井上秀雄]か」と注記しているは「越郡」について、中国浙江省紹興地方か」と注記している<ref name="伊藤英人12"/>。すなわち、浙江省紹興の娘が、[[遼寧省]][[丹東市]][[桓仁満族自治県|桓仁県]]に来て、朱蒙とのあいだに、百済の始祖となる[[温祚王|温祚]]と[[沸流]]を生む。[[拝根興]]([[陝西師範大学]])および[[葛継勇]]({{仮リンク|鄭州大学|zh|郑州大学}})は[[西安市|西安]]出土の在唐百済人[[エピタフ|墓誌]]の釈文のなかで、亡命百済貴族に「楚国琅邪」を{{仮リンク|籍貫|zh|籍贯}}とする人物がいることを指摘している。すなわち、浙江省紹興の娘が、遼寧省丹東市桓仁県に来て、朱蒙とのあいだに、百済の始祖となる温祚と沸流を生む。拝根興(陝西師範大学)および葛継勇(郑州大学)は西安出土の在唐百済人墓誌の釈文のなかで、亡命百済貴族に「楚国琅邪」を籍贯とする人物がいることを指摘している<ref name="伊藤英人12"/>。[[山東半島]]から[[江南 (中国)|江南]]に及ぶ中国沿海部と百済の関係から考えて、中国沿海から東渡した集団、[[山東省|山東]]から[[遼東半島|遼東]]を経て[[朝鮮半島]]に到達したと考えられる集団と同じ行跡を辿った集団との関連性が指摘されている。山東半島から江南に及ぶ中国沿海部と百済の関係から考えて、中国沿海から東渡した集団、山東から遼東を経て朝鮮半島に到達したと考えられる集団と同じ行跡を辿った集団との関連性が指摘されている<ref name="伊藤英人12"/>。
=== 天光受胎 ===

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