となる。このような「月の神(おそらく女神)」の地位の低下はハイヌウェレ型神話より、サトイモが日本に到来する以前から生じていたと考えられるが、日本の国において「'''月見に芋を神に捧げる'''」という習慣が優位であるならば、「家津御子」的な概念を持ち込んで、かつ'''特に強く'''拡散を試みたのは後発の弥生系の人々の可能性もあるように思う。
豊後国風土記の記載は、鳥が餅を経て芋に化生した、という神話で、餅が出てくる所から稲作文化の影響がみられる。餅は月見で捧げられるものでもあるため、餅は暗に月と同一視されているのかもしれない。鳥や月が'''死ぬことなく'''イモに化生する、という内容は日本独自のもののように思うので、'''鳥(月の女神の使者)がそのままイモ類に変身した'''、というものが、古来よりの縄文系の人々のイモ類に関する神話であった可能性が高いと考える。岩見地方の[[乙子狭姫]]の伝承でも[[乙子狭姫]]は生きたまま人々に穀類をもたらす。縄文系の文化は母系社会であるので、サトイモとその文化を受け入れる際に、'''家津御子的な父神'''を意図的に廃し、それに伴う生贄の祭祀も廃したのではないだろうか。(そもそも人身御供とは人口に余裕がないとできないことなので、妙齢の女性の数がどうしても足りなくて貴重になる縄文文化の時代に、元のハイヌウェレ型祭祀がそのまま継続されたとは考えにくいことである。女性は出産と産褥でどんどん死ぬ時代であるし、生まれた子供が無事育つ確率も現代よりよほど低い時代だから。)
== 栽培 ==