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74 バイト除去 、 2022年3月29日 (火) 21:19
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:延暦8年2月23日(ユリウス暦789年3月24日/先発グレゴリオ暦789年3月28日)、作戦決行。まず、前々の夜から東の「高かがり山」(大町市)に火をたかせた。田村守宮率いる部隊は、夜半に「八面大王」一派のいる裏山に登り、明朝の決行を待った後、翌24日(3月25日/3月29日)、夜明けとともにほら貝を吹き鬨の声をあげながら一気に山を下った。搦手も太鼓を打ち鳴らし鬨の声をあげた。寝起きを襲われた盗賊団は驚いて四散したが、多くの者は逃げ切れなかった。大将の田村は大声で「鬼どもよく聞け。お前たちは盗賊を働き人々の家の倉庫を打ち壊して財宝を盗んだことは都にも知られている。勅命に従って討伐に来た。その罪は重いが、これまで人命は奪ってはいない。速やかに降参すれば、命だけは助けよう。手向かえば、一人残らず殺すが、返事はいかに」といった。すると盗賊団はしばらく顔を見合わせた後、長老が進み出て、太刀を投げ出し、考えてから両手を付いた。そして「貴君の高名はよく承知しております。私の命はともかくも、手下たちの命はお助け下さい」といった。そして、抵抗を受けずに全員が縄にかけられ、城に連行された。
:合議によって、長老一人を死罪とし、残りは耳をそいでこの地から追放することとなった。すると、村の被害者たちが[[地頭]](この職も平安末期以降であり、当時は無かった)とともに、[[私刑]]にしたいので彼らを引き渡して欲しいと嘆願に来た。これを切っ掛けとし、等々力玄蕃亮は考え直し、もう一度合議して、長老の死罪を許し8人の首領を同罪として両耳そぎ、残りの手下は片耳そぎに減刑することに改めた。合議によって、長老一人を死罪とし、残りは耳をそいでこの地から追放することとなった。すると、村の被害者たちが地頭(この職も平安末期以降であり、当時は無かった)とともに、私刑にしたいので彼らを引き渡して欲しいと嘆願に来た。これを切っ掛けとし、等々力玄蕃亮は考え直し、もう一度合議して、長老の死罪を許し8人の首領を同罪として両耳そぎ、残りの手下は片耳そぎに減刑することに改めた。
:耳そぎの執行の日、田村守宮は罪状と判決を述べた後立ち去った。そのため、役人が耳をそぎだすと、恨みある村人が我も我もと争って、70人あまりの盗賊の耳そぎが執行された。そがれた耳は、血に染まった土砂とともに塚に埋められて、耳塚([[安曇野市]][[穂高]][[有明村 (長野県)|有明]]耳塚)となった。その後、盗賊の手下たちは島立([[松本市]][[島立]])にて縄を解かれ追放された。一方の残る8人の首領は、恨みを持った村人たちによって道をそれて山の方に連れて行かれた。そして口々に、「これまでは公儀の裁きであった。これからは我らの恨みをはらすぞ。天罰であると思い知れ」といって、掘った大穴に突っ込まれた後、石積みにされて殺された。そのために、この場所を「八鬼山」([[松本市]][[梓川]][[上野]][[八景山]](やけやま))というようになった。耳そぎの執行の日、田村守宮は罪状と判決を述べた後立ち去った。そのため、役人が耳をそぎだすと、恨みある村人が我も我もと争って、70人あまりの盗賊の耳そぎが執行された。そがれた耳は、血に染まった土砂とともに塚に埋められて、耳塚(安曇野市穂高有明耳塚)となった。その後、盗賊の手下たちは島立(松本市島立)にて縄を解かれ追放された。一方の残る8人の首領は、恨みを持った村人たちによって道をそれて山の方に連れて行かれた。そして口々に、「これまでは公儀の裁きであった。これからは我らの恨みをはらすぞ。天罰であると思い知れ」といって、掘った大穴に突っ込まれた後、石積みにされて殺された。そのために、この場所を「八鬼山」(松本市梓川上野八景山(やけやま))というようになった。
:その後追放された盗賊団の手下たちは、もともと安曇の地に産まれた者たちであったので、日が経つにつれて徐々に親兄弟、知人を頼って、秘かに故郷に戻りかくまわれていた。そのことを聞き知った仁科和泉守は、延暦24年(805年)、父の仁科[[美濃守]]の100歳の祝いにあわせて彼らを免じ、八鬼山の地と3年分の[[扶持]]を与えて、開墾を奨励した。その後追放された盗賊団の手下たちは、もともと安曇の地に産まれた者たちであったので、日が経つにつれて徐々に親兄弟、知人を頼って、秘かに故郷に戻りかくまわれていた。そのことを聞き知った仁科和泉守は、延暦24年(805年)、父の仁科美濃守の100歳の祝いにあわせて彼らを免じ、八鬼山の地と3年分の扶持を与えて、開墾を奨励した。
== 『信府統記』による八面大王 ==

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