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=== 天照御大神の葬儀 ===
<blockquote>当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神(オオクニヌシノカミ)、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。(境内案内板から引用)<ref>[https://tokushimagoshuin.com/tokushima-amanoiwatowakeyakurahimejinjya-goshuin 徳島県徳島市|天石門別八倉比売神社は神聖な山に鎮座する、奥の院に不思議な祭壇がある神社]、とくしま御朱印なび、kanakana</ref></blockquote>
 
== 天石門別八倉比賣神社略記 ==
当社は鎮座される杉尾山(すぎのおやま)自体を御神体として崇め奉る。
 
江戸時代に神陵の一部を削り、拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは柳田國男(民俗学者)の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
 
奥の院は、海抜116メートルの丘尾切断型(きゅうびせつだんがた)の柄鏡状(えかがみじょう)に前方部が長く伸びた古墳であり、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積(こぐちづみ)で築かれている。その青石の祠には、砂岩の鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴している。
 
また、杉尾山麓の左右には陪塚(ばいしょう)を従がえており、杉尾山より峯続きの山頂海抜212メートルの気延山(きのべやま)一帯にある200余りの古墳群の中でも最大の古墳となっている。
 
当社に伝わる古文書『八倉比賣大神御本記(やくらひめおおかみごほんき)』には、天照大神の葬儀執行の詳細な記録があり、先導は伊魔離神(いまりのかみ)、葬儀委員長は大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神(きまたがみ)、松熊(まつくま)二神、神衣を縫った広浜神(ひろはまのかみ)と記載され、八百萬神(やおよろずのかみ)のカグラは「嘘楽」と表記し、葬儀であることを示している。
 
また、銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮やかに踊り、水の女神との習合を示していた。古代学者の折口信夫は天照大神を三種に分けて論じ、「阿波における天照大神は、水の女神に属する」として、「最も威力ある神霊」を示唆しているとしたが、これは余りにも知られていない。なお、当社より下付する神符には「火付せ八倉比賣神宮」と明記されている。
 
鎮座の年代は定かではないが、安永二年(1773)三月の古文書にある「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五(2105)年を経ぬ」の記録から逆算すれば、起源前332年(孝安天皇61年)に当たる。しかも、その伝承時期が安永二年よりも遡ると仮定すれば、鎮座年代はさらに遡ると推測される※(由緒書およびWikipediaの内容には計算違いがあるため、ここで修正しています)。
 
また、当社は正一位杉尾大明神、天石門別 八倉比売神社(あまのいわとわけ やくらひめじんじゃ)などと史書に見えるが、本殿には出雲宿禰千家某(いづものすくねせんげなにがし)の謹書(きんしょ)になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の扁額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
 
古代阿波の地形を復元する鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。そのため、天照大神のイミナを「撞賢木厳御魂天疎日向津比賣(つきさかきいつのみたまあまざかるひうらつひめ)」と申し上げるのも決して偶然ではない。
 
なお、本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井(あめのまない)がある。元文年間(1736~1741年)まで十二段の神饌田(しんせんでん)の泉であった。現在大泉神として祀っている。
 
当祭神が、日本中の大典であったことは古文書『阿波国徴古雑抄(あわこくちょうこざっしょう)』が証明している。延久二年(1070)六月二八日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭(きねんつきなめさい)は邦国之大典也(ほうこくのたいてんなり)」として奉幣を怠った阿波国司を厳しく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである<ref>[https://cultural-experience.blogspot.com/2015/11/blog-post_82.html 天石門別 八倉比売神社 [徳島県]]、人文研究見聞録(最終閲覧日:25-02-07)</ref>。
 
== 天石門別八倉比賣大神御本記 ==
古の天地の初めの時、高天原に現れた神の名を天之御中主神(アメノミナカヌシ)という。
 
次に国が浮いた脂のように漂っているときに、葦の芽が生えるように生まれた神を國常立尊(クニノトコタチ)という。
 
その後 生まれた神に伊邪那岐神(イザナギ)次に妹の伊邪那美神(イザナミ)がおり、この二柱の神によって国土や海原、および山川や諸々の神が産み出された後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日靈大神(ひるめのおおかみ)といい、またの名を八倉乃日靈大神(やくらのひめおおかみ)という。
 
最初に高天原で戦に備えた後、天石門別(あまのいわとわけ)の神に勅命を発して「今後、汝らは吾(われ)に代わって戦に備えよ。そして、汝らはこの『羽々矢(はばや)』と『御弓』を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持って降り、良い場所に奉蔵せよ」と申された。また、吾(八倉乃日靈大神)も天降り、「『天羽々矢(あめのはばや)』と『天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)』を納めるのに相応しい場所である」と申された。
 
よって、二柱の神が高天原より弓矢を持って降りた。その時、二柱の神は天の中ほどに立ち「この矢の止まった所に奉蔵しよう」と言って矢を放った。その矢が落ちた場所を「矢達の丘」という(今は「矢陀羅尾」という)。
 
そして二柱の神は、この地に矢が落ちた事を覚えておくために「矢乃野(やのの)」と名付けて、その矢を奉蔵した倉を「矢乃御倉(やのみくら)」と呼んだ。また、その弓を奉蔵した地を「弓乃御倉(ゆみのみくら)」という。
 
そして、二柱の神(松熊二神※)はその後も此処に留り、御矢倉を御弓を守り続けた。
 
その後、比賣大神(八倉乃日靈大神)は天の八重雲を押し分け、伊津乃路(いつのち)を別けて天降った。最初は杉の小川の清き流れを見て「この川は深くて流れが早い」と申された。そのため、此処を「早渕の村」という。
 
このとき、大地主神(土宮)と木股神(御井神)が参上し、この河の魚を漁って献上した。すると、太神(八倉乃日靈大神)は「鰭(はた)の狭物と言うべき食物である」と申されたので、その河を「鮎喰川」という。
 
また、このとき(八倉乃日靈大神は)大地主(おおくにぬし)と木股神(きまたがみ)に「吾(われ)が住むのに相応しい場所に、汝らが案内せよ」と勅命を下すと、大地主神が答えて「ここより西方に朝日の真っ直ぐに刺し、夕日の日が照る気延の嶺があります。その地に先導しましょう」と申した。
 
すると、伊魔離神(いまりのかみ)という神が現れて、昼間に野で採れた五百の野薦(敷物?)や八十玉籖(玉串)など様々なものを献上した。それから、西方の杉の小山の麓に辿り着くと、天石門別が出迎えをした。
 
そこで、大神(八倉乃日靈大神)が「汝らは吾の言う通りにして待っていたのか?」と問うと、「はい、ここが神宣の通り御矢を納めた所でございます」と答えた。それを聞いた大神は褒辞を与えて、そこで一晩過ごした(このため「矢倉の郷」または「屋度利の社」という)。
 
なお、山坂を登って杉の小山を通って気延山に到ると、広浜神(ひろはまのかみ)が現れて時節の御衣を献上した。そのため、此処を「御衣足(みぞたり)」という。
 
ただちに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と廣敷を立て、高天原を装って天上のように鎮座した(なお、「天石門(あまのいわと)」を押し開くため「天石門別(あまのいわとわけ)」という。八倉の郷に居る姫御神であるために「八倉比売(やくらひめ)」という)。
 
この夜、八百萬(やおよろず)の神々は集って宴(天エラキ楽?)を行った。その神々の集った所を「喜多志嶺(きたしみね)」という。また、その宴(嘘楽)に使った色々な物を納めた所を「加久志の谷(かくしのたに)」という。
 
そこで大神は「雲の居る 八倉の郷の 喜延山 下津岩根に 宮井そめとも」と歌を詠んだ。
 
その後、大泉神(おおいずみのかみ)が「天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。また、小泉神田口の御田を献上して『御饌の御田(みけのみた)』とする。気延山は大日靈貴神の坐す所であるため『神山』とする」と勅命を発した。
 
これより後、二千百五年(2105)を経た小治田御宇元年龝八月(推古元年秋8月)に、大神(八倉乃日靈大神)は毛原美曽持(けはらみそもち)に託して曰く「吾(われ)の宮のある場所は遥か高く急峻である。このため、神主や祝部、巫(みこ)などが参詣するのに疲れてしまうだろう。杉の小山(杉尾山)は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない、正に良い場所である。そのため、この嶺に遷座することにしよう。吾(われ)は以前、天より持ってきた瑞の赤珠(みずのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あめのあかつち)で覆い納めた。その赭(あかつち)は、諸々の邪鬼、妖怪および諸々の者に『これは病も厭う奇妙なる験(しるし)である』と教え諭してある。」と申された。
 
赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇め奉ったのはこれである。その印璽(みしるし)を埋めた所を「印璽の嶺(しるしのみね)」という(また「御石ノ峯」ともいう)。
 
このとき、神主や祝部らは大神の託した通りに遷座して奉ったという。しかし、神主らが「諸々の人々は、これを信じないだろう」と言うと、大神も「そうであろう」と申された。そして大神(八倉乃日靈大神)は「吾(われ)が御前の谷の水を逆に山の頂きから漑いで御田を作ろう、それを以って宮の食糧とせよ」と勅命を下した。
 
すると、一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至った。そして田の穂はすぐに成熟し、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を「左迦志麿谷(さかしまだに)」といい、その田を「志留志田(しるしだ)」という)。そのため、神主や祝部、および多くの若者は、その神宣が事実であったことに畏怖・畏敬を念を抱いたという。
 
遷座したのは九月十三日である、よって、この日を以って御霊の現れし日として奉るのである。云々<ref>[https://cultural-experience.blogspot.com/2015/11/blog-post_82.html 天石門別 八倉比売神社 [徳島県]]、人文研究見聞録(最終閲覧日:25-02-07)</ref>
== 境内 ==

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