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== 概要 ==
[[明治時代|明治]]初期に書かれた明治初期に書かれた[[守矢氏]]の家系図『神長守矢氏系譜』<ref name="Moriyakeifu">諏訪教育会 編「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185913/24 神長守矢氏系譜]」『諏訪史料叢書 巻28』1938年、31-72頁。</ref>の中では初代の[[洩矢神]]に次いで2代目とされる神で、妹には[[多満留姫]]がいる。これによると父である洩矢神から祭政官としての地位を引き継ぎ、諏訪大神([[建御名方神]])と狩りに行った際に1,000頭の[[鹿]]を得たことから自分の子を000頭の鹿を得たことから自分の子を[[千鹿頭神]]と名付けた。[[長野市]][[七二会]]にある守田神社([[式内社]]・守田神社の論社)の祭神のと名付けた。長野市七二会にある守田神社(式内社・守田神社の論社)の祭神の[[守達神]](建御名方神の御子神)とも同視されている。
『信濃国官社諏訪神社神長官守矢家略系図』(延川和彦著『修補諏訪氏系図』に収録)では[[守屋山]]に鎮座する神とされている『信濃国官社諏訪神社神長官守矢家略系図』(延川和彦著『修補諏訪氏系図』に収録)では守屋山に鎮座する神とされている<ref name="nobukawa"/>。
==考証==
『[[日本三代実録]]』の[[貞観 (日本)|貞観]]元年(859年)2月11日条には[[信濃国]]に祀られている建御名方神(正二位)、『日本三代実録』の貞観元年(859年)2月11日条には信濃国に祀られている建御名方神(正二位)、[[八坂刀売神]](従二位)、[[生島足島神社|生島神・足島神]](正四位下)、そして[[穂高神社|宝宅神]](従五位上)の[[神階]]昇進の記事{{efn|(従二位)、生島神・足島神(正四位下)、そして宝宅神(従五位上)の神階昇進の記事<ref>「十一日丁酉。有赤黄白氣。形如車輪繞日。授信濃國從二位勳八等建御名方富命神正二位。正三位建御名方富命前八坂刀賣命神從二位。神祇官從四位上生嶋神。足嶋神並正四位下。信濃國從五位下寳宅神從五位上。」}}</ref>があるが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-texts.com/chuko/sandai.html |title=『日本三代實録』全巻(朝日新聞本){{リンク切れ|date=2023年2月}}|website=J-TEXTS , 『日本三代實録』全巻(朝日新聞本)(リンク切れ、2023年2月)、J-TEXTS 日本文学電子図書館|accessdate=, 2019-05-18}}</ref>、印本では「宝宅神」が「守宅神」となっている<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991094/17 国史大系 第4巻]』経済雑誌社編、経済雑誌社、1897年、23頁。</ref>。江戸末期には「守宅」を「もりや」と読み守屋山の神として洩矢神に比定する説が現れたが{{efn|<ref>なお中世から江戸時代へかけてはそのような説は見られない。}}</ref>[[細田貴助]]『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』[[ほおずき書籍]]、2003年、20頁。<ref>細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』ほおずき書籍、2003年、20頁。</ref><ref>「守宅神と武居大伴主神と」『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765072/29 信濃史蹟 上]』福山寿久編、信濃新聞社、1910年、18-19頁。</ref>、『守矢氏系譜』では洩矢神は守宅神の父神とし両者を別としている。
これについて山田肇(1929年)は「モレヤもモリヤも同語ではないか、洩矢の子は直ちに[[千鹿頭神|千鹿頭]]であらう。然るに此の間に守矢を置くのは[[洩矢神社]]と守矢大神祠とがあり、これを別神と認めた作為で、其の実は洩矢神即ち守矢大神とあらねばならぬ。されば一書には守矢の亦名千鹿頭となつてゐる」と書いている<ref name="yamadamoriya">{{Cite book|和書|author=山田肇|year=1929|title=諏訪大明神|publisher=信濃郷土文化普及会|page=80|series=信濃郷土叢書 第1編|chapter=健御名方命に降服した諏訪の國つ神 洩矢神及び武居大伴主惠美志命}}</ref>。

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