== 概要 ==
社伝によると、当社は『日本書紀』に記されている'''水内神'''とされ、持統天皇五年(691)勅使が遣わされ、諏訪大社と共に勅祭が行われた。ただし、水内神は水内郡の名神大社で、水内大社とも称される健御名方富命彦神別神社のこととする説もある。 『日本書紀』には「辛酉に、使者を遣して、竜田風神、信濃の須波・水内等の神を祭らしむ。」とある<ref>日本書紀3、小島憲之他校注・訳、日本古典文学全集、小学館、p519</ref>。 また、当社は『三代実録』に記されている[[速飄別命|飄別神]]とも考えられる<ref>[https://genbu.net/data/sinano/kazama_title.htm 風間神社]、玄松子(最終閲覧日:25-01-16)</ref>。 860年(貞観2年)「'''[[速飄別命|飄別神]]'''<!--飄間神は誤記-->に叙位」との記述がある。979年(天元2年)には諏訪氏の庶流・矢島忠直が庄司として派遣され風間姓を名乗り、これが各地の風間氏の発祥となっている。 神社に伝わる「太々神楽獅子舞」は1822年(文政5年)から続く、歌詞がなく太刀を持つ雄獅子であり、1998年(平成10年)に長野市選択無形民俗文化財に選択されている<ref>[http://bunkazai-nagano.jp/modules/dbsearch/page1166.html 風間神社太々神楽獅子舞] - 長野市文化財データベース</ref>。 === 御神形について ===風間神社の御神形は、吉田神社と深い関係がある。吉田神道は、唯一神を信じる神道で、「唯一神道」または「唯一宗源神道」と呼ばれた。聖徳太子が学んだ神道は「宗源道」といい、それは、日本古来の唯一神教の神道だった。それゆえ、聖徳太子像が風間神社の御神形になった。 === 由緒書きの変遷 ===現在の由緒書き <blockquote>裾花川は昔、暴れ川と呼ばれるほど氾濫が多く、人々を悩ませていました。村人たちは、裾花川の流れを治め、豊かな恵みを願い、田畑を開墾し「五穀豊穣」を祈念し、お社を祀られたと言われています。</blockquote> 過去の由緒書き <blockquote>『風間神社』は、日本の正史と言われる「六国史」に、推古天皇五月八日(596年)には『竜田風神信濃須波・水内神を祀らしむ』とみえています。そして清和天皇貞観二年二月(860年)『[[速飄別命|飄別神]]に叙位』の事が書かれています。<br>この『水内神』『[[速飄別命|飄別神]]』はいずれも風間神社で有ると言われています。</blockquote>とあり、祭神は伊勢津彦命、[[志那都比古神|級長津彦命]]、[[志那都比古神|級長戸辺命]]、建御名方命とされていたという。 風間神社の祭神を伊勢津彦命と考証したのは有名な国学者の伴信友であるが、当社で伊勢津彦命が祀られるようになったのは信友のこの説を取り入れた結果だろう。それ以前に当社で伊勢津彦命が祀られたことがあったかどうかは分からない。ちなみに信友は、やはり水内郡の式内社、伊豆毛神社の祭神のことも伊勢津彦命だとしている。彼によるこうした考証にはどういう根拠があったのだろうか。おそらく、伊勢津彦命が信濃に退去したという『伊勢国風土記』逸文の割註をふまえ、風間神社は風神を祀っているからで、伊豆毛神社は出雲系の祭神を祀っているから祭神は伊勢津彦命だ、というふうに考えたのだろう<ref>[https://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/76ddf4588acd8420a446aad5573a21c5 (2)伊勢津彦探しは神社から【風間神社】]、神社の世紀(最終閲覧日:25-01-18)</ref>。二上山の麓に位置することから山の神「大山祗命」祀っていたが、平安時代の末期に天津日高日子番能邇邇芸命、木花之佐久夜毘売のご夫婦二柱を合祀した。
== 歴史 ==