この年の11月、神渟名川耳尊とその兄の神八井耳命はひそかに(『古事記』によれば母の歌により)手研耳命の志を知って、これを防いだ。すなわち、山陵の事が終わるに至って、弓部稚彦(弓削部稚彦)には弓を、倭鍜部天津真浦には真麛鏃を、矢部には箭をつくらせた。弓矢が完成するに及んで、神渟名川耳尊は手研耳命を射殺そうと思った。
二人は手研耳命が[[片丘]]の大窨(おおむろ)の中に有り、ひとり大床に臥せっているのに行き合った。この時神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命に二人は手研耳命が片丘の大窨(おおむろ)の中に有り、ひとり大床に臥せっているのに行き合った。この時神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命に
{{Quotation|<blockquote>今{{ruby|適|たまたま}}其時なり。夫れ{{ruby|言|こと}}密を尊び、言は{{ruby|宜|よろ}}しく慎むべし。{{ruby|故|かれ}}我の陰謀本より預者無し。今日の事は、唯吾{{ruby|爾|いまし}}と{{ruby|自|み}}行いたまはくのみ。吾{{ruby|当|まさ}}に{{ruby|先|ま}}ず{{ruby|窨|むろ}}の戸を{{ruby|開|あ}}けむ。爾其れ射よ。}}</blockquote>
と言い、手研耳命を射殺す役目を兄に与えた。二人は窨(むろ)に進入し、神渟名川耳尊はその戸を突き開けた。しかし神八井耳命は手脚が戦慄し、矢をいることができなかった。この時神渟名川耳尊は兄の所持していた弓矢を掣(ひ)き取り、手研耳命を射た。一発目は胸に中(あ)たり、二発目は背に中たってついに殺した。
神八井耳命ははじて神渟名川耳尊にしたがって皇位を譲り、
{{Quotation|{{<blockquote>ruby|吾|やつがれ}}是{{ruby|乃|いまし}}の{{ruby|兄|このかみ}}なれども、懦弱にして{{ruby|不能致果|いしきなし}}。今{{ruby|汝|いましみこと}}特に神武に挺し、{{ruby|自|み}}{{ruby|元悪|あだ}}を{{ruby|誅|つみな}}う。{{ruby|宜|うべ}}なるかな。汝の天位に{{ruby|光|て}}り{{ruby|臨|のぞ}}み以て皇祖の{{ruby|業|つぎて}}を{{ruby|承|う}}けむこと。吾は{{ruby|当|まさ}}に汝の{{ruby|輔|たすけ}}と為して[[神祇]]を奉典せむ。}}</blockquote>
と言って、皇位を継がず祭祀を行う意志を明らかにしたという。
翌年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]、神渟名川耳尊は綏靖天皇(第2代天皇)として即位し、この年を綏靖天皇元年とした。翌年1月8日、神渟名川耳尊は綏靖天皇(第2代天皇)として即位し、この年を綏靖天皇元年とした。
=== 神八井耳命の子孫 ===
神八井耳命は綏靖天皇4年[[4月 (旧暦)|4月]]に薨じ、[[畝傍山]]の北に葬られた。[[多氏]]([[カバネ|姓]]は[[臣]])はその子孫とされる。神八井耳命は綏靖天皇4年4月に薨じ、畝傍山の北に葬られた。多氏(姓は臣)はその子孫とされる。