:昔、相模国三浦に浦島太夫とよばれる人がおり、彼は仕事のため丹後国に赴任していた。その息子である太郎は、亀が浜辺で子供達にいじめられているところに出会う。(全国版と同じなので中略)竜宮の乙姫から授かった玉手箱と観音像を持って太郎が丹後に帰ると、そこに両親のゆかりの跡はなく、太郎は<!--ある漁師から(道すがりの老人から)-->両親の墓は武蔵国白幡(現・横浜市神奈川区の東部)にあると聞かされる。
:老人となった太郎は、白幡の峰<!--[[子安]]の浜 子安の浜 (確認できない)-->に行き、両親の墓を探したが、なかなか見つけられない。それを見かねた乙姫は、[[マツ|松枝]]{{Refn|group="注"|に行き、両親の墓を探したが、なかなか見つけられない。それを見かねた乙姫は、松枝<ref>乙姫が枝に光を照らしたとされる龍燈の松は、<!--[[大正]]時代に枯死 大正時代に枯死 no ref-->鉄道開通時に伐られたとされる</ref><ref name="kenkyukai1928"/>。}}に明かりを照らして場所を示した。やっとのことで墓を見つけた太郎はその地に[[草庵|庵]]を結び、[[観音菩薩|観音像]]を安置した。太郎の死後、その庵は観福寺(浦島院観福寿寺)となった。に明かりを照らして場所を示した。やっとのことで墓を見つけた太郎はその地に庵を結び、観音像を安置した。太郎の死後、その庵は観福寺(浦島院観福寿寺)となった<ref>{{Cite book|和書|author=萩坂昇 |title=, よこはまの民話|publisher=, むさしの児童文化の会|year=, 1976 |series=, 神奈川の民話|pages=97, p97-103}}</ref><ref>{{Citation|和書|last=小島 |first=瓔礼|author-link=小島瓔礼|title=, 武相昔話集: 神奈川|publisher=, 岩崎美術社|year=, 1981|page=71}}, p71</ref>。
観福寺は、江戸末期の[[神奈川宿]]火災で焼失して[[廃寺]]となるが{{Refn|group="注"|資料により慶応4年(1868年)の火事とも<ref name="inoue_osamu"/>、「明治元年正月廿七日」の火事だともされる<ref name="kenkyukai1928"/>。事実の矛盾ではなく、この年は「慶応4年」正月に起こった事項であっても遡って「明治元年」の元号を適用することが行われた。}}、[[明治5年]](1872年)に[[石井直方 (本陣宿屋)|石井直方]](神奈川本陣)が、[[神奈川区]]の[[慶運寺]]に一宇を増築させて併合させた<ref name="inoue_osamu"/><ref name="hayashi-kampukuji"/>。[[観音菩薩|聖観世音菩薩]]像は残り、こちらに安置されている<ref name="kenkyukai1928"/>。この聖観世音菩薩像と、慶運寺および同区内の蓮法寺が所有する塔・碑は、「[[浦島太郎伝説関係資料]]」として[[横浜市]]登録の[[有形民俗文化財|地域有形民俗文化財]]となっている。