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=== 丹後国風土記逸文 ===
8世紀に成立した『丹後国風土記』(現在は逸文のみが残存)にある「筒川嶼子」「水江浦嶼子」<ref>[http://homepage2.nifty.com/toka3aki///geography/fudoits5.html toka3aki 「国土としての始原史~風土記逸文」~山陰道] - [http://homepage2.nifty.com/toka3aki///index.html 露草色の郷](『丹後国風土記』(たにはのみちのしりのくにのふどき)の逸文テクスト。「浦嶼子」は『釋日本紀』〈卷十二〉からの引用)</ref>は、浦島太郎の物語の原型と解されている{{Refn|group="注"|<ref>厳密に言えば、馬養の物語が原型であるが、丹後国風土記の編者が二つの話に差異はないと述べている(後述)。ただ三浦は、"馬養の物語の原型にもっとも近い作品は、先に少しふれた『続浦島子伝記』ではないか"との感想も述べている</ref><ref>三浦, 1989, p106</ref><ref>三浦, 1989, p101-106, 148</ref>。ほぼ同時代の『日本書紀』『万葉集』にも記述が見られるが、『丹後国風土記』逸文が内容的に一番詳しい<ref>三浦, 1989, p65</ref><!--"についてもっとも詳しい記事を載せているのは"-->。
内容は次の通り:
『丹後国風土記』逸文は、収録された話は、連(むらじ)の伊豫部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた記録と突き合わせても差異がなかったとしている。すなわち馬養が丹波の国宰だった頃の文章は風土記以前に成立しており、馬養が浦島伝説の最初の筆者であるとの説がある。
馬養は7世紀後半の学者官僚で『[[律令]]』選定、史書編纂に係わって[[皇太子学士]]を勤め、『[[懐風藻]]』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。そのことを踏まえても、馬養の著作の源が日本の伝承だったのか、中国の説話なのか疑問が残る。現地に元々あった伝承を採集しそれを中国の神仙譚風に編集、脚色したという見解と馬養は7世紀後半の学者官僚で『律令』選定、史書編纂に係わって皇太子学士を勤め、『懐風藻』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。そのことを踏まえても、馬養の著作の源が日本の伝承だったのか、中国の説話なのか疑問が残る。現地に元々あった伝承を採集しそれを中国の神仙譚風に編集、脚色したという見解と<ref name="toki-no-manyoshu"/>、中国の類話の舞台を丹波/丹後に移して翻案した作品との見解<ref name="kato"/>とで対立している{{Refn|group="注"|丹後国はもともと丹波国の行政下にあり、独立したのは713年である。馬養が丹波の[[国司|国宰]]だったのはそのとき以前なので、二つの国が混同される理由もそこにある<ref>丹後国はもともと丹波国の行政下にあり、独立したのは713年である。馬養が丹波の国宰だったのはそのとき以前なので、二つの国が混同される理由もそこにある</ref><ref name="cranston">{{citation|last=Cranston |first=Edwin A. |title=, The Gem-Glistening Cup |publisher=, Stanford University Press |year=, 1998 |pp=144, p144-145|url=, https://books.google.com/books?id=KqWjwalbmx4C&pg=PA145}}</ref>。}}
==== 三浦の解釈 ====

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