:長谷(はつせ)の朝倉宮の御世、つまり雄略天皇の時代。嶼子(島子)が一人船で海に出るが、3日間魚は釣れず、五色の亀が取れる。船で寝入る間に亀は美女の姿に変わっている。いきなり現れた女性の素性を訪ねると、「天上の仙(ひじり)の家」の者だとの返答。島子と語らいたくなってやって来たという。舟を漕いで女性の住む「蓬山」<ref>挿入歌では「とこよ(等許余)」と見える。</ref>を訪れるが、海上の島であった。門に立つと、7人の童子、ついで8人の童子に「亀比売(かめひめ)の夫がいらした」と出迎えられるが、これらは昴七星と畢星の星団であった。浦島は饗宴を受け、女性と男女の契りを交わす。
:三年がたち、島子に里心がつくと、女性は悲しむが、彼女との再会を望むなら決して開けてはならない玉匣(たまくしげ)(箱)を授けて送りだす。郷里を訪ねると家族の消息は得られず、水江の浦の島子<!--蘆屋の訓じ方「水江の浦の島子」-->という人が300年前に失踪したと伝わる、と教えられる。約束を忘れて箱を開けると、何か美しい姿が雲をともない天上に飛び去って行った。そこで島子は女性と再会できなくなったことを悟るのである<ref name="fudoki-yomikudashi">{{harvp|丹後国風土記逸文の読み下し</ref><ref>蘆屋|, 1936|pp=183, p183-187}}: 丹後国風土記逸文の読み下し</ref>{{sfnp|<ref>Holmes|, 2014|pp=114, p114-118}}</ref>。
しかし、何らかの力で二人は歌を詠みかわすことができ、3首が[[万葉仮名]]で引用されている{{sfnp|しかし、何らかの力で二人は歌を詠みかわすことができ、3首が万葉仮名で引用されている<ref>三浦|, 1989|p=101, p101-106, 148}}</ref>。後世より贈られたという2首も引かれているが、これら贈答歌は、『丹後国風土記』より後の時代に追加されたとの説がある{{sfnp|<ref>水野|, 1975|p=60|ps=, p60<!--『丹後国風土記』の成立した時には、この贈答歌は加えられていなかつたと考え-->}}</ref>。
==== 伊余部馬養の作という説 ====
『丹後国風土記』逸文は、収録された話は、[[連]](むらじ)の[[伊余部馬養|伊豫部馬養]](いよべのうまかい)という人物が書いた記録と突き合わせても差異がなかったとしている。すなわち馬養が丹波の[[国司|国宰]]だった頃の文章は風土記以前に成立しており、馬養が浦島伝説の最初の筆者であるとの説がある。『丹後国風土記』逸文は、収録された話は、連(むらじ)の伊豫部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた記録と突き合わせても差異がなかったとしている。すなわち馬養が丹波の国宰だった頃の文章は風土記以前に成立しており、馬養が浦島伝説の最初の筆者であるとの説がある。
馬養は7世紀後半の学者官僚で『[[律令]]』選定、史書編纂に係わって[[皇太子学士]]を勤め、『[[懐風藻]]』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。そのことを踏まえても、馬養の著作の源が日本の伝承だったのか、中国の説話なのか疑問が残る。現地に元々あった伝承を採集しそれを中国の神仙譚風に編集、脚色したという見解と<ref name="toki-no-manyoshu"/>、中国の類話の舞台を丹波/丹後に移して翻案した作品との見解<ref name="kato"/>とで対立している{{Refn|group="注"|丹後国はもともと丹波国の行政下にあり、独立したのは713年である。馬養が丹波の[[国司|国宰]]だったのはそのとき以前なので、二つの国が混同される理由もそこにある<ref name="cranston">{{citation|last=Cranston |first=Edwin A. |title=The Gem-Glistening Cup |publisher=Stanford University Press |year=1998 |pp=144-145|url=https://books.google.com/books?id=KqWjwalbmx4C&pg=PA145}}</ref>。}}。