菟上王(うなかみのおう)は、「古事記」にみえる開化天皇の孫。
大俣王の子。比売陀(ひめだ)氏の祖。垂仁(すいにん)天皇の皇子で口のきけない[[誉津別命|本牟智和気王]](ほむちわけのおう)([[誉津別命]](ほむつわけのみこと))に随行して,兄の曙立王に随行して、兄の曙立王(あけたつのおう)と出雲(いずも)大神の参拝にいく。帰途,皇子が口をきいたので,よろこんだ天皇の命令で出雲にひきかえし,神殿をつくったという(出典 講談社デジタル版 大神の参拝にいく。帰途、皇子が口をきいたので、よろこんだ天皇の命令で出雲にひきかえし、'''神殿をつくった'''という(出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)。
== 私的考察 ==
[[天甕津日女命]]と[[阿遅鉏高日子根神]]の子神といえば、[[鹽冶彦命]]と[[多伎都比古命]]である。いずれが「菟上王」に相応しいといえようか?
以下に挙げる立石神社・龍岩神社によれば、岩とは「'''死せる干ばつの疫神'''」と言えそうである。疫神だからこそ、祭祀で慰撫するなどの方法で鎮めれば干ばつが止み、雨が降るのだろう。立石神社の祭神は[[多伎都比古命]]なのだから、「'''死せる干ばつの疫神'''」とは[[多伎都比古命]]のことと考える。とすれば、疫神を鎮めた'''菟上王'''とは、[[鹽冶彦命]]のことと考えた方が相応しいのではないだろうか。[[鹽冶彦命]]は鹽冶神社において'''燒太刀天穗日子命'''と共に祀られており、'''[[鹽冶彦命]]'''とは'''(燒太刀)天穗日子命'''のことでもある、として良いと管理人は考える。のことでもある、として良いと管理人は考える。菟上王が[[鹽冶彦命]]でもあり、'''天穗日子命'''でもあれば、彼が出雲大社にて出雲大神を祀り、子孫がそれを受け継ぐ、というのは自然な流れである。
=== 止屋の淵 ===