== 考証 ==
[[殷周革命|殷末周初]]の[[東夷]]を解明した古典的かつ基本的な研究に、[[貝塚茂樹]]の研究がある殷末周初の東夷を解明した古典的かつ基本的な研究に、貝塚茂樹の研究がある<ref name="奥田尚61-62"/>。[[周]][[武王 (周)|武王]]は[[殷]][[帝辛|紂王]]を打倒したが、殷の[[祭|祭祀]]は殷の旧領土に封じた武王の子の[[武庚禄父]]に継承させた。[[武庚禄父]]を一人の人名とする『[[史記]]』の説があるが、『[[論衡]]』などの二人の人名説が妥当である。周武王は殷紂王を打倒したが、殷の祭祀は殷の旧領土に封じた武王の子の武庚禄父に継承させた。武庚禄父を一人の人名とする『史記』の説があるが、『論衡』などの二人の人名説が妥当である<ref name="奥田尚61-62"/>。[[武庚]]は殷の故都([[安陽市|安陽]])に封じられ、[[禄父]]は[[梁山泊|梁山]]出土の[[銅器]]の[[金石文|銘文]]からみて、梁山に封じられた。武庚は周に反乱、禄父も加担したが、[[周公旦]]や[[召公奭]]に平定された。周公旦や召公奭は、[[山東半島|山東]][[渤海 (海域)|渤海]]まで遠征、恩賞として[[周]][[成王 (周)|成王]]は召公奭に徐地域を与えたが、実際に徐地域を支配したのは、召公奭の長男の[[燕侯克|燕侯]]=匽侯旨であり、[[燕侯克|燕侯]]=匽侯の号である「燕(えん)」「匽(えん)」は、旨が拠点とした「[[奄]]」([[魯]]の近隣)の「奄(えん)」による。[[燕国]]出土銅器の銘文は「燕」を「匽」と記している。この匽侯旨が投影、伝説化されたのが徐偃王である。武庚は殷の故都(安陽)に封じられ、禄父は梁山出土の銅器の銘文からみて、梁山に封じられた。武庚は周に反乱、禄父も加担したが、周公旦や召公奭に平定された。周公旦や召公奭は、山東渤海まで遠征、恩賞として周成王は召公奭に徐地域を与えたが、実際に徐地域を支配したのは、召公奭の長男の燕侯=匽侯旨であり、燕侯=匽侯の号である「燕(えん)」「匽(えん)」は、旨が拠点とした「奄」(魯の近隣)の「奄(えん)」による。燕国出土銅器の銘文は「'''燕'''」を「匽」と記している。この匽侯旨が投影、伝説化されたのが徐偃王である<ref name="奥田尚61-62"/>。召公奭は、『[[史記]]』に[[燕国]]に封じられたとあるが、[[易州]]出土の銅器の銘文からみて、これは燕侯旨が易州に封じられた史実を修飾したものである。燕侯旨が易州に移封されたのは、[[周公旦]]の長子の[[伯禽]]が匽つまり奄に封じられたためである。『[[史記]]』は[[周公旦]]が魯(匽つまり奄)に封じられたとするが、これは伯禽の史実を背景とする修飾である。召公奭は、『史記』に燕国に封じられたとあるが、易州出土の銅器の銘文からみて、これは'''燕侯旨が易州に封じられた史実を修飾したもの'''である。燕侯旨が易州に移封されたのは、周公旦の長子の伯禽が匽つまり奄に封じられたためである。『史記』は周公旦が魯(匽つまり奄)に封じられたとするが、これは伯禽の史実を背景とする修飾である<ref name="奥田尚61-62"/>。
周初に[[梁山泊|梁山]]地域に封じられた燕侯=匽侯旨が伝説化されたのが偃王物語の徐偃王である<ref name="奥田尚61-62">{{Cite book|和書|author=[[奥田尚]]|title=徐の偃王物語と夫余の東明王物語|series=アジア文化学科年報 2|publisher=[[追手門学院大学文学部アジア文化学科]]|date=1999-11-01|page=61-62}}</ref>。燕侯旨が[[燕国]]南部の[[易州]]に移封されると、旨の伝説的投影像である徐偃王物語も[[燕国]]に広まる<ref name="奥田尚62"/>。さらに燕国が[[遼西]]から[[遼東半島|遼東]]へと支配を広げるに従い、徐偃王物語の伝達範囲も広がる<ref name="奥田尚62">{{Cite book|和書|author=[[奥田尚]]|title=徐の偃王物語と夫余の東明王物語|series=アジア文化学科年報 2|publisher=[[追手門学院大学文学部アジア文化学科]]|date=1999-11-01|page=62}}</ref>。