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8世紀初頭に成立した『日本書紀』では、推古天皇7年(599年)に、推古天皇に対し百済(朝鮮半島南西部)からの朝貢物として[[ラクダ|駱駝]](らくだ)、[[ロバ|驢馬]](ろば)各1頭、白[[キジ|雉]]1羽、そして羊2頭が献上されたという<ref name="賀来(2015)、p.106"/>。これが日本国内において、羊について書かれた最初の史料である<ref name="jlta.lin.gr.jp01_01">日本のめん羊事情, 公益社団法人 畜産技術協会, 1991-12, http://jlta.lin.gr.jp/publish/sheep/kiji/01_01.html, 2020-11-28</ref>。西域の動物であるラクダやロバとともに献上されていることから、当時の日本列島では家畜としてのヒツジが存在していなかったとも考えられている<ref name="賀来(2015)、p.106"/>。
[[奈良時代]]、[[天武天皇]]の時代に[[関東]]で活躍した人物に「奈良時代、天武天皇の時代に関東で活躍した人物に「[[多胡羊太夫]](たご ひつじだゆう)」という人物がいると伝わり、関連して[[群馬県]][[安中市]]にひつじだゆう)」という人物がいると伝わり、関連して群馬県安中市に[[羊神社 (安中市)|羊神社]]([[愛知県]][[名古屋市]]にも同名の(愛知県名古屋市にも同名の[[羊神社 (名古屋市)|羊神社]]がある)などが残る程度であり、羊自体の存在や飼育記録は確認できない。
[[8世紀]]には、[[奈良県]]の平城宮跡や[[三重県]]の斎宮跡から羊形の硯(すずり)が出土している8世紀には、奈良県の平城宮跡や三重県の斎宮跡から羊形の硯(すずり)が出土している<ref name="賀来(2015)、p.115">賀来(2015)、p.115</ref>。8世紀中頃には、正倉院宝物に含まれる「臈纈屏風(ろうけちのびょうぶ)」にヒツジの図像が見られる<ref name="賀来(2015)、p.115"/>。
『[[日本紀略]]』によれば、[[嵯峨天皇]]の治世の[[弘仁]]11年([[820年]])には、[[新羅]]からの朝貢物として『日本紀略』によれば、嵯峨天皇の治世の弘仁11年(820年)には、新羅からの朝貢物として[[ガチョウ|鵞鳥]]2羽、[[山羊]]1頭、そして黒羊2頭、白羊4頭が献上されたという<ref name="賀来(2015)、p.106"/>。さらに、[[醍醐天皇]]の治世の[[延喜]]3年(903年)には[[唐]]人が“羊、鵞鳥を献ず”とあり、他の記録も含め何度か日本に羊が上陸した記録はあるが、その後飼育土着された記録はない。故に日本の服飾は長く、主に植物繊維を原料とするものばかりであった。。さらに、醍醐天皇の治世の延喜3年(903年)には唐人が“羊、鵞鳥を献ず”とあり、他の記録も含め何度か日本に羊が上陸した記録はあるが、その後飼育土着された記録はない。故に日本の服飾は長く、主に植物繊維を原料とするものばかりであった。
仏教の影響を色濃く受けた故に肉食があまり推奨されてこなかったことから食肉用はともかく、羊毛製品には全く需要がなかったわけではなく、貿易品としての羊の毛織物は人気は高いが高額であり、長らく一部の有力者や富裕層のみに珍重されていた。

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