また、2のパターンは、一つには西欧の民話に出てくる「半分男」の物語と、アルナが女性に変身できる能力がある(去勢=男性の女性化)という物語に分かれていく。「半分男」はアルナのように、生まれながらに魔力を扱えるような存在となる。去勢して女性化した神は、やがて自らも息子を去勢して操るキュベレーへと変化する。「息子を去勢して従順化を求める神」の思想は、キュベレー信仰の神官は去勢すべし、という思想につながっただけでなく、仏教の僧侶、カトリックの神父と言った聖職者に「去勢はしていなくても独身と純潔を求める」という思想にもつながっていると思う。よって、物語の発生時期よりもはるか後世の宗教思想に影響を与えた物語、といえる。
そして、母系の文化が強いアナトリア半島で、「息子を去勢する女神」に変化すると、今度はそれが「'''母女神の当然の権利'''」とされてしまって、母女神は罰を受けるどころではなくなってしまう。古代中国でも、これに似て、
{| class="wikitable"
|1
|女性が身内の男性を支配して当然の母系の文化
|-
|2
|女が男を支配するなんてとんでもない父系の文化
|}
が存在し、かつては「母系の女神」に許されていた一族の男性の生殺与奪を握る権利が、2のように「許されず罰を受けなければならない問題」に変化していく過渡期の物語なのではないか、と思う。母系の当然の思想が物語として語られるが、それに「罰を受けなければならない」というおまけがつくようになるのである。完全に男系の文化に移行すれば、神話そのものが「けしからぬもの」として消されてしまう。中国南部で文化が母系から父系へと変化するのは河姆渡文化から良渚文化にかけてなので、紀元前4000年前後か、それよりも少し古いくらいの物語の発生時期であろうか、と考える。中国本土にあった時から、物語は3つのパターンに分化していたため、いずれのパターンも各地に類話がある、ということになります。1のパターンはヴィナータとアルナ、2のパターンはオシリスとセト、3は饕餮と蚩尤、となると思う。
そして、テーセウスであるところの羿が、自らの行為を正当化するためにアリアドネーである太陽女神を巻き込んで、彼女の賛成があるから、ミーノータウロスという河伯を倒すこと(妻の男性の身内を殺すこと)を正しいこととしたこと、が、父系の台頭と共に、太陽女神の零落と、逆に「身内を裏切った女神こそが罰を受けねばならない」という思想に発展していくのだと思います。・・・いったい、「誰が悪いのか?」と言われても、そもそも
'''太陽女神を非難して、抹殺した'''
のは、
'''自分自身が権力を握りたい。自分こそが太陽神となりたい。'''
と願った'''烏'''がいたからなのではないのか、太陽女神を非難したのは、単なる「口実」に過ぎないのではないのか、と思う。母系とか父系とかそういう問題ではなくて、主人を中傷して権力を得た'''簒奪者'''こそが有罪であると烏の子孫の筆者はそう思うわけです。
=== 穀物の起源 ===