伊福部氏

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伊福部氏(いおきべうじ/いふくべうじ)は伊福部を氏の名とする氏族。古代日本の職業部および名代の民。伊福吉部氏五百木部氏廬城部氏とも表記する。

栗田寛『新撰姓氏録考証』によると、伊は単なる接頭辞であり伊福部は吹部の意味として、笛吹を掌る職業的品部とする説。太田亮『姓氏家系大辞典』によると、第12代・景行天皇(在位西暦71~130年)皇子の五百城入彦皇子(いおきのいりひこのみこ、いほきのいりひこのみこ)の御名代部とする説などがある。

概要[編集]

「伊福部」は美濃国本巣郡・山県郡(大宝2年戸籍)ほか、東は陸奥国・武蔵国・遠江国 ・尾張国から、西は薩摩国まで広く分布しており、とりわけ美濃を中心に、因幡国・出雲国・安芸国などの中国諸国に広く分布しており、『和名類聚抄』にも伊福部の地名が各地に残されている。美濃国の伊福部(大宝二年御野国味蜂間郡春部里戸籍)、因幡国の伊福部臣(伊福吉部臣徳足比売骨蔵器銘・伊福部臣氏系図)、石見国の伊福部直(日本三代実録仁和2年5月12日条)などは、いずれも伊福部の管掌者であると思われる。伊勢国度会郡城田郷には皇太神宮儀式帳に田辺神社の四至として「東は五百木部浄人家を限りとす」という文がある。

職掌については、『日本三代実録』貞観4年6月15日条に、「播磨国揖保郡雅楽寮答無位伊福貞、本姓五百木部連に復す」とあるように、笛吹の部であるといわれていた。現在有力な説は、以下のようなものが存在する。

  1. 五百木部と同じで、景行天皇の皇子、五百城入彦皇子の名代の部。
  2. 息吹(伊吹、製鉄の際の踏鞴(たたら))に携わった部。伊福部氏の系図(因幡国伊福部臣古志、延暦3年頃成立)に、「若子臣」という人がいて、允恭天皇の時に祈禱して、気を飄風にかえたという伝承があり、稲葉国造族は製鉄氏族の物部氏と同族である。各務(鏡)や日野、金といった金属関係の地名にも関わる。
  3. 火吹(ひふき)が訛った部。雄略天皇3年4月に廬城部連枳莒喩と武彦親子の名があり[1]、武彦(たけひこ)は湯人(ゆえ)として朝廷に仕えていたわけことから湯を扱う下級官吏として、火吹部とする。分布状態からすると大規模過ぎる点が難である。

なお、五百木部と伊福部は混同されがちであるが、本来は名代の五百木部と鍛冶部の伊福部とは別物であったと考えられる[2]

中央の伴造には、「伊福部連」があり、天武天皇13年12年宿禰姓を賜っている[3]。『新撰姓氏録』「左京神別」・「大和国神別」には「伊福部宿禰」を載せ、尾張連と同祖、火明命の後とする。「河内国神別」には「五百木部連」もある。

宮城十二門の一つ、殷富門(いんぷもん)の名前の由来にもなっている。伊福部の伴造氏は、連のほかに、臣・君・|公などがあり、一族には「直」・首・君姓のものも存在した。

概要・因幡氏[編集]

因幡氏は高草郡と八上郡に本拠地を有していたとされ、大国主命の伝説に登場する八上姫はこの国造一族とされ、宇倍神社の神主となった伊福部氏はこの一族から分かれた支流であることが分っている。『新撰姓氏録考証』に中央の伊福部連(宿禰)は物部氏と同系の尾張連と同祖の伝承を示している。

「伊福部臣氏」は因幡国伊福部の伴造であり、奈良時代末期成立の伊福部氏の系図・『因幡国伊福部臣古志』では物部氏の一族とされている。『新撰姓氏録』「左京神別」には尾張氏一族の「伊福部宿禰氏」・「伊福部連氏」を載せ、「尾張連同祖、火明命之後也」とする。「大和国神別」の「伊福部宿禰氏」・「伊福部連氏」は、「天火明命天香山命之後也」とあり、「山城国神別」の無姓の「伊福部氏」・「河内国神別」の「五百木部連氏」も「火明命之後也」と載せている。

伊福部の伴造氏は、臣や連のほかに、君・公などがあり、一族には直・首姓のものも存在した。

『因幡国伊福部臣古志』(延暦3年ごろ成立)によると、物部氏の祖である伊香色雄命の息子、武牟口命(建牟口宿禰)を祖先としている。日本武尊による征西の途中で、吉備津彦命、橘入来宿禰らとともに、稲葉夷住山の荒海という賊を征伐するために因幡国に立ち寄った、とある。その後に、孫の伊其和斯彦宿祢が成務天皇の時代に稲葉国造を賜ったとされ、允恭天皇に仕えた若子臣が、気を飄風にかえたことから気福部臣(いふきべのおみ)を賜姓されたという伝承も残されている。

25代目の久遅良は「豊御食炊屋姫天皇庚辰の年」に「臣連伴造国造諸民の本記」を定めたとあり、聖徳太子と蘇我馬子の下で『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』の編纂作業を行なっていたとされる。

26代目で久遅良の子の都牟自(つむじ)は646年、孝徳天皇の大化2年、初めて水依評を設置し、評督に任命されている。その後、斉明天皇4年の冠位は大乙上で、同年正月には水依評のかわりに高草郡を設置した。同年3月11日、658年4月18日に死去した。

伊福吉部臣徳足比売(いふくべ の おみ とこたりひめ)は、は文武天皇の時代の采女で、位階は従七位下で、和銅元年7月1日(708年7月22日))に病歿。その遺骨を収めた銅製の骨蔵器に刻まれた銘文・墓誌は、1774年(安永3年)、伊福部氏の根拠地と推定される現在の鳥取県岩美郡国府町で石櫃の中から発見されたもので、その蓋表面に放射状の16行の文字が刻まれており、奈良時代以前の金石文として現存する16個のうちの1つである。

このほかに、雄略天皇・安閑天皇の時の廬城部連枳莒喩(いおべ の むらじ きこゆ)がおり、459年に斎宮を犯したという息子に誤って手をかけたり[4]535年に娘が物部尾輿の瓔珞(玉を重ねた首飾り)を盗んで、春日皇后に献上する[5]といった不祥事を起こしている。

伊福部連一族は、天武天皇の時、[84年に八色の姓で、第3位の宿禰姓を授与されている[6]。宮城十二門の一つ殷富門(旧名伊福部門)は、大化以前から門衛に奉仕してきた伊福部氏が蘇我入鹿誅滅に参加した功を記念して名付けられたものである。

ほかの伊福部氏では、奈良時代の724年(和銅7年)に、匠(たくみ=道路開発の技術者)である従六位上の伊福部君荒当(いほきべ の きみ あらまさ)が田を2町授与された、という記録も残されている。

『因幡国伊福部臣古志』[編集]

始祖:大己貴命は大国主神、葦原醜男神など八つの別名を持ち古事記や日本書紀、出雲国風土記、播磨国風土記などで活躍する神出雲大社に奉祀されている。

➝ 第2代:五十研丹穂命(イキシニホノミコト) ➝ 第3代:健丹穂命(タケミミニホノミコト)

➝ 第4代:伊瀬丹穂命(イセニホノミコト)又は天丹戈命、新田磯丹穂命、天日椅乃命(アメノヒボコ)。天日椅乃命(アメノヒボコ)とは古事記、日本書紀には新羅の王子とあると前田憲二(民俗学者)『神々の履歴書』で語っている

➝ 第5代:天沼名桙命(アマノヌナホノミコト) ➝ 第6代:天御桙命(アマニミホコノミコト) ➝ 第7代:荒木臣命(アラキノオミノミコト)

➝ 第8代:櫛玉神饒速日命(クシタマカムニギハヤヒノミコト):物部氏の祖。

➝ 第9代:可美真手命(ウマシマデノミコト):兄弟の天香語山は尾張氏の始祖。

➝ 第10代:彦湯支命(ヒコユキノミコト) ➝ 第11代:出雲色雄命(イヅモシコヲノミコト) ➝ 第12代:内色雄命(ウツシコヲノミコト) ➝ 第13代:伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)。

➝ 第14代:武牟口命(タケムクチノミコト):武内宿禰は第12代・景行天皇(西暦71~130年)頃に存在した人物と思われる。伊福部氏直接の祖先と言われている。武牟口命は、日本武尊を奉じて征西の途中、稲葉蝦住山の荒海という賊を征伐するために因幡に入国したと『因幡国伊福部臣古志』には記されている。日本武尊は第12代・景行天皇(西暦71~130年頃)の皇子で仲哀天皇の父にあたる。

➝ 第15代:意布美宿祢(イフミノスクネ)。

➝ 第16代:伊其和斯彦宿祢(イキワシヒコノスクネ)は、第13代・成務天皇(西暦131~191年)頃の御代に因幡国造になり、同天皇から賜った太刀等を神として宇部神社に祀ったとの記述がある。

➝ 第17代:健火屋宿祢(タケヒヤノスクネ) ➝ 第18代:阿良加宿祢命(アラカノスクネノミコト) ➝ 第19代:汙麻宿祢命(ウマノスクネノミコト)

➝ 第20代:伊福部若子臣(イホキベノワクゴノオミ)は第19代・允恭天皇(在位西暦412~453年)頃の人物で天皇から「気吹部臣」を賜り伊福部臣と称した。

➝ 第21代:伊福部馬養臣(ウマカヒノオミ) ➝ 第22代:伊福部尓波臣(ニハノオミ) ➝ 第23代:伊福部阿佐臣(アサノオミ) ➝ 第24代:伊福部颶飄臣(ツムジノオミ)。

➝ 第25代:久遅良臣(クヂラノオミ):第33代・推古天皇(西暦592~628年)頃の人物。西暦603年制定の冠位十二階の小智(従八位相当)を賜った。

➝ 第26代:都牟自臣(ツムジノオミ):第36代・孝徳天皇(在位西暦645~654年)、第37代・斎明天皇(在位西暦655~660年)頃の人物。西暦646年(大化2年)第36代・孝徳天皇(在位西暦645~654年)の御代に初めて水依評を設置、それと同時因幡國水依の評督という長官に任ぜられた。西暦647年(大化3年)小黒冠(従八位相当)の位を授けられた。西暦649年(大化5年)大乙下(従八位正八位相当)の冠位が授けられた。西暦658年(斉明4年)大乙上に叙された。同年正月には水依評を分割して高草郡を設置した。西暦658年4月18日死去。

➝ 第27代:国足臣(クニタリノオミ):因幡國法美郡領 ➝ 第28代:伊福部小徳臣(ヲトクノオミ) ➝ 第29代:伊福部志太留臣(シタルノオミ) ➝ 第30代:伊福部満侶臣(クロマロノオミ)

関連する神社など[編集]

  • 宇部神社:鳥取県鳥取市国府町宮下にある神社。式内社(名神大社)、因幡国一宮。祭神は武内宿禰命。伊福部氏の祖とされる。『神祇志料』は祭神を『国造本紀』にある因幡国造の祖先、彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)としている[7]
  • 伊富岐神社:岐阜県不破郡垂井町にある神社。美濃国二宮。社殿は東南東を向いており、伊吹山を背後にした形で造られている。 伊福氏の祖神を祭っているという。祭神は一説に多多美彦命(夷服岳神、気吹男神、伊富岐神ともいう 伊吹山の神)[8]
  • 伊夫岐神社:滋賀県米原市伊吹にある神社。祭神:伊富岐大神。祭神については、霜速比古命、多々美比古命、気吹男命、天之吹男命、又は素盞鳴尊であると、諸説があったが、明治初年より、八岐大蛇神霊として崇拝して来たところ、昭和18年、祭神を伊富岐神と改称された[9]
  • 湯福神社:長野県長野市箱清水にある神社。善光寺三鎮守(善光寺三社)・善光寺七社の一。祭神:健御名方命荒御魂命(あらみたまのみこと)。境内には善光寺開祖・本田善光廟がある。中には本田善光の墓とされる大石が収められている。湯福は伊吹、つまり風と関係ある語で諏訪社は風神としても信仰されていた。二百十日に善光寺町近辺の人びとが善光寺に参詣し、ついでこの社に参拝して風の平安を祈る習慣があった[10][11]

伊吹神の信仰[編集]

日本武尊[編集]

伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、『古事記』では「牛のような大きな白猪」、『日本書紀』では「大蛇」とされていた[12]。『古事記』にはヤマトタケル(日本武尊)がこの伊吹大明神と戦って敗れる物語がある。伊吹山の神に苦しめられて敗れたヤマトタケルは病に冒されて山を下り、居醒の泉(米原市醒井の平成の名水百選の一つに選定されている「居醒の清水」[13])で少し回復したものの、のちに悪化して亡くなったとする伝説が伝えられている[14][15]。山頂部にはその日本武尊の石像と[16]、伊吹山の神の白猪の像が設置されている。表登山道の三合目西側の「高屋」と呼ばれる場所は日本武尊が山の神に出会った場所とされていて、大正時代に石の祠が建立され、その中に木造の日本武尊が祀られた[17]

「日本書紀」には、日本武尊が近江の伊吹山に荒ぶる神がいると聞き、草薙神剣を置いたまま伊吹山に向かう。伊吹山に至ると山の神が大蛇に化けて道を塞いでいたので、日本武尊はこれを神の使いと思い、どうせ神を殺すのだからと捨て置いて、蛇を跨いで進む。すると、山の神は雲を起こして氷を降らせた。などとある。

「平家物語」には、素盞嗚尊によって殺された八岐大蛇の霊が伊吹山の神となって不破の関を塞いでいたとある。

「源平盛衰記」には、素盞嗚尊が八岐大蛇を切ると尾から剣が出た。それを天照大神に奉ると、「私が天の岩戸に籠ったとき、近江国胆服嶽に落ちた剣です」と言って大いに喜んだ。彼の大蛇と言うのは胆吹(いぶき)の大明神の御体である、と書かれています。

「本朝神社考」は胆吹の神を八岐大蛇の変化と記しています。これらの話から祭神に素盞嗚尊と八岐大蛇が登場したのだろう[18]

また文献によれば、古代には近江国・美濃国の両国で伊吹神が祀られたことが知られる[19]。国史では両神に対する神階奉叙の記事が散見され、中央にも知られる神であった[19]。両神は、『延喜式』神名帳においてもそれぞれ「伊夫伎神社」「伊富岐神社」として記載されて式内社に列しているほか、美濃の伊富岐神社は美濃国内において南宮大社(一宮)に次ぐ二宮に位置づけられた[20]。現在も近江の神社は伊夫岐神社(滋賀県米原市伊吹)として、美濃の神社は伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町岩手)として祭祀が継承されている。

創祀については美濃地方の豪族の伊福部氏との関係を指摘する説があるが[20]、複雑な創祀の事情を想定する説もある。『日本書紀』において伊吹山の神は龍蛇体とされるが、伊夫岐神社では八岐大蛇を祭神とする説があり、酒吞童子を伊吹山の八岐大蛇の子とする物語もある。また、『近江国風土記』において伊吹山の神である多多美彦命は霜速比古命の子であるとされる[21]

気吹男命など[編集]

天之吹男命と気吹男命はいずれも伊福部氏の職掌に関係する名前で、蹈鞴製鉄において蹈鞴炉に火を吹き込む作業を象徴する名前と考えられる。伊吹山周辺は冬場に強い風が吹き込むので、たたら製鉄には適した場所だった[22]

近江国風土記逸文[編集]

霜速比古命の子が多々美比古命で伊吹山の神。その姉が比佐志比女命で久恵峯にいた。多々美比古命の姪が浅井比咩命で浅井の岡にいた。伊吹山と浅井の岡が高さを競っているうちに、浅井の岡が一夜にして高さを増したので、多々美比古命が怒って浅井比咩命の首を刀で切り落としたところ、その頭が琵琶湖の中に落ちて竹生島となった[23]

浅井の岡とは金糞岳のことに間違いない。滋賀県で標高が伊吹山に次いで二番目なのも、「近江国風土記逸文」の記述と整合している。金糞岳に伊福部氏の地名や神社は見られないものの、関連性はあると推定される。Wikipediaには「金糞岳(かなくそだけ、きんぷんだけ)は、草野川東俣谷に古い鉱山跡があり、周辺には製鉄遺跡がある。鉱石を溶精する際に生じる金屎(かなくそ)が、山名の由来であるとする説がある。1824年(文政7年)の『古絵図』には「カナスソガ嶽」と記載されている。民話の『竹生島の話』で伊吹山に首を切られて、伊吹山より低い山になったと伝えられている。」とある[24]

参考文献[編集]

  • Wikieedia:伊福部氏(最終閲覧日:25-01-19)
    • 『日本書紀(三)』、岩波文庫、1994年
    • 『日本書紀 全現代語訳(上)』、講談社学術文庫、宇治谷孟訳、1988年
    • 『続日本紀 2』 新日本古典文学大系13 岩波書店、1990年
    • 『岩波日本史辞典』p84、岩波書店、1999年。永原慶二監修
    • 『日本古代氏族事典』雄山閣、新装版2015年。佐伯有清編
  • 伊福部家 系図、HISTORY OF MUSIC(最終閲覧日:25-01-20)
  • Wikieedia:伊福部(最終閲覧日:25-01-22)
  • Wikieedia:伊吹山(最終閲覧日:25-01-23)
  • 尾張氏の謎を解く その39 、水石の美を求めて(最終閲覧日:25-01-24)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. 『日本書紀』雄略天皇3年4月条
  2. 宝賀寿男「「天孫本紀」物部氏系譜の検討」『古樹紀之房間』、2008年。
  3. 『日本書紀』天武天皇13年12月2日条
  4. 『日本書紀』巻第十四、雄略天皇3年4月条
  5. 『日本書紀』巻第十八、安閑天皇元年閏12月条
  6. 『日本書紀』巻第二十九、天武天皇13年12月2日条
  7. Wikipedia:宇部神社(最終閲覧日:25-01-22)
  8. Wikipedia:伊富岐神社(最終閲覧日:25-01-22)
  9. 伊夫岐神社(イフキ)、滋賀県神社庁(最終閲覧日:25-01-22)
  10. Wikipedia:湯福神社(最終閲覧日:25-02-04)
  11. 目次 / 第1章 長野町 / 第三節 神社と寺院、長野市誌(最終閲覧日:25-02-04)
  12. 竹田 (2012)、80頁
  13. https://www2.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/data/index.asp?info=61, 平成の名水百選・居醒の清水(いさめのしみず), 環境省, 2014-06-22
  14. 草川 (2006)、51頁
  15. 竹田 (2012)、78頁
  16. 与呉 (2011)、98-101頁
  17. 『伊吹山リーフレット』 伊吹山観光振興会(2014年)
  18. 尾張氏の謎を解く その39 、水石の美を求めて(最終閲覧日:25-01-24)
  19. 以下の位置に戻る: 19.0 19.1 「伊吹山」『日本歴史地名大系 21 岐阜県の地名』平凡社、1989年
  20. 以下の位置に戻る: 20.0 20.1 「伊富岐神社」『日本歴史地名大系 21 岐阜県の地名』平凡社、1989年
  21. Wikipedia:伊吹山(最終閲覧日:25-01-22)
  22. 尾張氏の謎を解く その39 、水石の美を求めて(最終閲覧日:25-01-22)
  23. 尾張氏の謎を解く その39 、水石の美を求めて(最終閲覧日:25-01-22)
  24. 尾張氏の謎を解く その39 、水石の美を求めて(最終閲覧日:25-01-22)