ボルテ・チノ

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ボルテ・チノ(Börte čino、孛児帖赤那)とは、モンゴル部族の伝説上の始祖。『元朝秘史』などの史書によると、ボルテ・チノとコアイ・マラルとの間に生まれた子孫が、モンゴル部族を形成したとされる。

『元朝秘史』の漢訳に従って「蒼き狼(蒼色狼)」とも表記されるが、漢語で動物の名称に使われる「蒼」とは鳥のアオサギ(蒼鷺)のように「灰白色[の毛色]」を意味する単語であり、「ボルテ・チノ」を「青色の」の意と解釈するのは誤り。Börteというモンゴル語は正確には「白っぽい地に交わった暗灰色の斑[の毛色]」を意味する[1]

概要[編集]

モンゴル語で伝えられてきた伝承を漢字で音訳・翻訳した年代記『元朝秘史』は次のような文章から記述を始めている。

上天より命ありて生まれたる蒼き狼(ボルテ・チノ)ありき。その妻なる惨白き牝鹿(コアイ・マラル)ありき。大海(テンギス)を渡りて来ぬ。オノン河の源にブルカン・カルドゥンに営盤して生まれたるバタチカンありき…(『元朝秘史』巻1第1節)

この後、『元朝秘史』はボルテ・チノとコアイ・マラルの子孫を名前のみ列挙し、ボルテ・チノの十世の孫に至った所で、「一つ眼の」ドア・ソコルとその弟のドブン・メルゲンの嫁取りの逸話を載せる。ドブン・メルゲンはアラン・コアという女性を娶ったが早世し、その後寡婦となったアラン・コアは日月の光の精(日月神)と交わって3人の息子を産み、その末子のボドンチャルチンギス・カンの始祖になったと記す。そのため、厳密に言うとチンギス・カンはボルテ・チノの血を引いていない

そもそも、「ボルテ・チノ伝承」のような「狼祖伝説」は6世紀頃にモンゴル高原を支配した突厥などにも伝えられており、テュルク系民族が有する伝承であった。一方、「日月神」にまつわる伝承はモンゴル系とされる契丹にも同様のものが伝えられており、こちらこそがモンゴル族固有の伝承であったと考えられている。また、『集史』の記述によるとチンギス・カン登場以前のモンゴル部には支配階層たるニルンダルレギンという2グループがおり、ニルンには日月神の血を引く3氏族(カタギン氏サルジウト氏ボルジギン氏)とそこから派生した氏族のみが属するとされる。そこで、本来のモンゴル族の伝承は「日月神伝承」のみで、「ボルテ・チノ伝承」はモンゴル族が勢力を拡大する過程でダルレギン諸氏族とニルンとの関係を神話上で説明するため、テュルク系民族の伝承に着想を得て後に付加された伝承である、と考えられている[2]

『集史』における記述[編集]

フレグ・ウルスにおいてラシードゥッディーンによって編纂された史書、『集史』も『元朝秘史』と同じようなボルテ・チノにまつわる伝承を記録しているが、『元朝秘史』の伝える伝承と異なる点も存在する。両者の最も大きな相違点は、『集史』がボルテ・チノをモンゴル部最初の始祖とせず、それより以前の「ネクズとキヤン」に纏わる伝承をからモンゴル族の起源を説明している所にある。

「ネクズ・キヤン伝承」は「ボルテ・チノ伝承」と「男女が遠方よりブルカン・カルドゥンを訪れ、その子孫がモンゴル部族の始祖となった」とする点で共通しており、同じ始祖伝承から派生した逸話ではないかと考えられている。

なお、ネクズとキヤンとはモンゴル部に属する氏族集団の名称でもあり、12世紀末にモンゴル部で最も有力な集団こそがキヤト氏と、ネクズ氏から派生したタイチウト氏であった。ネクズ氏はチノス(狼)氏という別名も有しており、モンゴル部の始祖とされるBörte čino=NekuzとQo'ai maral=qiyanとは、12世紀末の有力集団タイチウト氏とキヤト氏の族霊(オンゴン)、すなわち狼と鹿をモチーフとするものではないかと推測されている[3]

参考文献[編集]

  • Wikipedia:ボルテ・チノ(最終閲覧日:22-11-21)
    • 小澤重男『元朝秘史(上)』岩波書店、1997年(岩波文庫 青411-1)
    • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
    • 村上正二訳注『モンゴル秘史 1巻』平凡社、1970年
    • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
    • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
    • 村上正二『モンゴル帝国史研究』風間書房、1993年

脚注[編集]

  1. 小澤1997,44頁
  2. 村上1993,207-230頁
  3. 村上1993,230-238頁