ピアチェンツァの肝臓
ピアチェンツァの肝臓(ピアチェンツァのかんぞう、Fegato di Piacenza)は、紀元前2世紀にエトルリア人によって鋳造された青銅製の遺物である。この羊の肝臓を模したものは「腸卜師」(haruspices)と呼ばれる司祭に使用されていた。1877年にイタリアのピアチェンツァ近郊で発見されている。
これはエトルリア語の碑文で覆われた羊の肝臓の等身大の青銅製模型(TLE 719)で、大きさは 126×76×60 mm(5×3×2.4インチ)、紀元前 2世紀後半、つまりピアチェンツァ地域がすでにラテン語圏であった時代のものである(ピアチェンツァは紀元前 218 年にガリア・キサルピナのローマ駐屯地として設立された)。
各部には、エトルリア宗教(Etruscan religion)にまつわる神々の名が刻まれている。
現在は、ファルネーゼ宮殿(Palazzo Farnese, Piacenza)の博物館地下に展示されている。
中東の文化との関連[編集]
ピアチェンツァの肝臓は、古代近東で知られている羊の肝臓の粘土模型と概念的に驚くほど類似しており、エトルリア人とアナトリア文化圏とのつながり(移住によるものであれ、単なる文化的接触によるものであれ)の証拠を補強している。中期青銅器時代のバビロニアの羊の肝臓の粘土模型が大英博物館に保存されている[1] 。ピアチェンツァの肝臓は、肝臓の主要な解剖学的特徴(胆嚢、尾状葉、後大静脈)を彫刻された突起として表現することで、バビロニアの遺物と類似している。
世界観・占いについて[編集]
ピアチェンツァの肝臓の外側の縁は16のセクションに分かれている。プリニウスとキケロの証言によると、エトルリア人は天を16の占星術の区画に分け、肝臓は宇宙のモデルをも表した。その部分は星座または占星術を占う部分と考えられている[2]。この解釈では、16の区画はそれぞれ個別の神の「在所」であった。たとえば、予言者は雷が見られた方向から結論を導いた。東の雷は縁起が良く、西の雷は縁起が悪い (プリニウス 2.143f.)。スティーブンス(2009)は、雷の主神であるティンは真北に住んでいたと推測しています。北東の雷は最も幸運で、北西の雷は最も不運であり、一方、方位の南半分の雷はそれほど強い運を示す予兆とはされなかった(セルウィウス・アド・アエン2.693)。
参考文献[編集]
- Wikipedia:ピアチェンツァの肝臓(最終閲覧日:25-01-27)
- Van der Meer, L.B. (1987). The bronze liver of Piacenza. Amsterdam: J.C. Gieben, 1987.
- Alessandro Morandi, Nuovi lineamenti di lingua etrusca, Massari, 1991.[1]
- Natalie L. C. Stevens, A New Reconstruction of the Etruscan Heaven American Journal of Archaeology 113.22 (April 2009), 153-164.
- Antonio Gottarelli,Cosmogonica. Il fegato di Tiāmat e la soglia misterica del Tempo. Dai miti cosmologici del Vicino Oriente antico ad una nuova interpretazione del fegato etrusco di Piacenza, collana di "Archeologia del Rito", n.2, Te.m.p.l.a., Bologna, 2017.[2]
- Antonio Gottarelli,Padānu. Un’ombra tra le mani del tempo. La decifrazione funzionale del fegato etrusco di Piacenza, collana di "Archeologia del Rito", n.3, Te.m.p.l.a., Bologna, 2018. [3]
- Wikipedia:Liver of Piacenza(最終閲覧日:25-01-27)
関連項目[編集]
- サトレ:北西の地下の雷とされた。