ピレウス帽
ピレウス帽(ギリシャ語:πῖλος 、ラテン語:pilos, pilleus, pilleum)は古代ギリシアとその周辺地域で被られた縁なしのフェルトの帽子で、後に古代ローマにも導入された。[1]ギリシャのピリディオン帽(πιλίδιον(pilidion))とローマのピレオラス帽は より小さかったが、この縁なし帽とよく似ていた。
ピレウス帽は特に奴隷の解放と関連し、奴隷が解放された場合に着用するものとされていた。この帽子が奴隷の身分からの解放と自由の象徴とされたのである。[2]18~19世紀の古典復活期の間、ピレウス帽はフリジア帽と混同され、しばしば「自由を象徴する帽子」として彫像や紋章の図案に使用された。[要出典]
目次
歴史
ギリシャ
ピレウス帽(ギリシャ語: πῖλος, 「フェルト」という意味[4])は古代ギリシアにおいて旅行の際に被られる一般的な円錐形の帽子であった。ピレウス帽はペタソス帽の縁が無いものである。[5]この帽子はおそらくフェルトか皮で作られていた。ピレウス帽は彫刻、浮き彫り、花瓶の絵等において、ディオスクーロイのカストールとポリュデウケースが被るものとされていた。古代ギリシャでこの帽子は、この双子が生まれた卵の殻の残りだと考えられていたのである。[6][7]また、ピレウス帽はテーバイのカベイリの聖域カベイリオンに奉納された少年の立像に認められる。[8][9]
戦争において、ピレウス帽型ヘルメットはエクソミスと共に、しばしばペルタストという軽装歩兵によって着用された。そして、エクソミスは後に重装歩兵によっても着用されるようになった。[10][11]
ピレウス帽型ヘルメットは、青銅製で元の帽子と同じ円錐形で作られた。そして、ピレウス帽は快適なように時々ヘルメットの下に着用されたと思われる。[12]ピレウス帽型ヘルメットは紀元前5世紀にスパルタ軍によって広く採用されることとなった。[13]
ローマ
古代ローマでは、奴隷は、法務官が「ヴィンディクタ(vindicta)」と呼ばれる杖で奴隷にさわって「自由である」と宣言する、という儀式を行って自由にされた。奴隷の頭は剃られ、その上にピレウス帽を被せられた。ヴィンデクタ杖とピレウス帽の両方が、自由を意味する女神リベルタスの象徴とされていたのである。[14]
この儀式による解放は法廷における解放よりも法的な根拠が乏しいと考えられており、超法規的な解放(the manumissio minus justa)とされていた。[要出典]
ある19世紀の古典辞書には、以下のように記載されている。
ローマ人の間では、フェルトの帽子は自由の象徴であった。奴隷が解放される場合には頭を剃り、髮の代わりに染めていないピレウス帽を着用した(πίλεονλευκόν、シケリアのディオドロス(紀元前1世紀)[15]、Exc. Leg. 22 p. 625, ed. Wess、プラウトゥス(紀元前254~184)[16]、Amphit. I.1.306、ペルシウス(34~62年)[17]、V.82)。そのため「ピレウス帽を被る(servos ad pileum vocare)」という言葉は自由をもたらすものとされ、奴隷はしばしば自由になることと引き換えに、兵役に就かねばならなかった(ティトゥス・リウィウス(紀元前59年頃~17年)[18])、XXIV.32)。145年に鋳造されたアントニヌス・ピウス(86~161年)[19]のコインのいくつかには「自由」の象徴として右手にピレウス帽を握った図が描かれている。[20]
ギャラリー
古代ギリシアのピレウス帽型ヘルメット、
紀元前450年~前425年ピレウス帽を被ったオデュッセウス。プッリャ州出土の赤像式シトゥラ(壷)、
紀元前360年、
ナポリ国際考古学博物館ウィリアム・ホガース(1697~1764年)[23]によって描かれたジョン・ウィルクス(1725~1797年)[24]、棒の上に「自由(Liberty)」の帽子を載せているが、これは18世紀には大衆のデモの際に時々持ち運ばれたものである。
私的解説・ピレウス帽と鍛冶の神
帽子の歴史
エトルリア神話の鍛冶神セスランスが被っているピレウス帽は現在のアルバニアとその周辺地域で今でも使用されている「シブタル帽」と同じものである。アルバニア人は古代においてイリュリア人と呼ばれた人々の子孫と言われている。イリュリア人はおおよそ紀元前1000年頃にはバルカン半島西部とアドリア海を挟んだ対岸にあるイタリア半島南部沿岸地域に居住していたとのことである。その子孫であるアルバニア人が使用している民族固有の帽子は、当然イリュリア人時代から使用されていたのではないかと思われる。
この帽子に纏わる歴史はけして平穏なものではなかった。古代ローマにおいて「解放奴隷が被るもの」とされたこの帽子は、現在ではアルバニアの周辺地域に住む他民族から差別的な目で見られる「民族差別」の象徴的な帽子ともされているのである。おそらく、旧ユーゴスラビアからコソボが分離独立を目指した紛争も、このような差別意識と無関係ではないのであろう。では、何故この帽子がこのように古代から現代に至るまで、「奴隷」や「身分が目下の者」が被る帽子として、見下され、差別の対象とされるのか、それが「鍛冶神」とどのような関係にあるのかということを紐解いてみたいと感じるのである。
また、その前知識として古代ローマにおける「解放奴隷」という存在の立場についても触れておきたい。現代的な感覚からすれば「奴隷」というものは、解放されればどこにでも自由に行けて、好きなことができる、と感じられるかもしれない。そして、それはおそらく古代ローマでも原則的にはそうだったのかもしれないと思う。しかし、現実に奴隷に身を落とす人々というのは、生家が貧しかったり、捨て子であったり、戦争で捕虜になったりした人々であって、解放されたからといって、すぐに戻る場所があるわけではないし、生活の手だてがあったわけでもなかったであろうことも容易に想像がつくことである。そこで、古代ローマでは慣習的に、解放奴隷は元の主人の下におかれる私的な「子分」のような存在とされていた。主人の側は解放奴隷を庇護する義務があるが、解放された側にも主人に尽くす義務があるのである。このようにして、多くの奴隷を解放し「子分」にすることが裕福な人のステイタスとされたのが古代ローマ社会であるので、古代ローマにおいては奴隷を解放することはむしろ好んで行われる傾向にあった。
しかし、このような慣習は、例え奴隷から解放されてローマの市民権を得たとしても、元の主人の下から容易に離れることができない、という点で完全に「自由」になったとは言い難いし、法的な権利がある程度認められたからといって、経済力がなければ裕福な人々のように「自由」に振る舞えるわけでもないことは当然であるので、結果的には「奴隷」の階級が「解放奴隷」という階級に上げられただけに過ぎないともいえる。その象徴がローマにおける「ピレウス帽」であったのであり、それを被る限り彼らは支配者層からみれば「恩恵を与えてやった奴隷」に過ぎなかったのではなかったかと思う。
しかし、一方では市民としての法的な保護が受けられない「奴隷」であるよりは、保護をより受けることのできる「解放奴隷」の方がまだましであるので、多くの「奴隷」は解放されることを目指したであろう。そのため、政治家は「自由(Liberty)」という言葉を合い言葉のように使って、やがて解放されるかもしれない「奴隷」の人気を得ることにも熱心であった。ローマのコインには「自由の象徴」として「ピレウス帽」がしばしば使われているが、それは実際に自由に生きている支配者階級の人々には無関係な、奴隷のための「自由」であって、まさに庶民の人気を取るための餌的な「政治的プロパガンダ」の象徴として使われていたのではないだろうか。
鍛冶神の歴史
鉄器の産生は古代のアナトリア半島で開始され、当初はヒッタイトの独占的産物であった。このヒッタイトが紀元前1190年頃に「海の民」と呼ばれる人々に滅ぼされて後、鉄器の産生方法が周辺地期に広がって鉄器時代が開始されたのである。このヒッタイト滅亡のことを「前1200年のカタストロフ」と呼ぶ。「海の民」に滅ぼされた都市の遺構の上に建てられた遺跡からはイタリア型の陶器や青銅の武器が出土しており「海の民」を構成していた氏族の中で、古代イタリアに居住していたエトルリア人が重要な地位を占めていたことが覗える。また古代エジプト人の記録によれば、彼らの一部にはギリシャ人も存在していたようである。要するに、これらの人々が製鉄の技術をヒッタイトから強制的に流出させた張本人といえよう。
右図は「ヒッタイトの王が神に酒を奉じる図」である。王は円錐形の三角形の帽子を被っている。古代の壁画からは王の被っている帽子の色までは想像できないが、おそらく庶民レベルが被る帽子と連続性のあるものであれば、高価な染料など使う余地のない庶民の帽子は羊から刈った毛の色のまま、すなわち「白」であったと思われる。要するに、エトルリアの鍛冶神セスランスの被る帽子は、ヒッタイトに由来する帽子であり、その帽子を被っていたイリュリア人はバルカン半島に強制的に連行されたヒッタイトの人々ではなかったのはないだろうか、ということになる。彼らは鉄を造る奴隷であり「ピレウス帽」は彼らの被る帽子であったのであろう。そしてそのような歴史が忘れさられてしまった現代ですら、その帽子を見下すという差別意識だけが残されていて、不幸な歴史を生み出す要因となっているように思われるのである。
ギリシャの場合
ギリシャ世界とローマ世界では、この帽子に対する扱いがやや異なるように思われるため、その点についても述べておきたい。
古代ギリシアも奴隷制や、その後のヨーロッパの農奴制に近い制度が存在し、けして全ての人に平等な社会ではなかったのだが、しかし、そこに住む人々には
「たとえ目下の者が使用する道具であっても、便利なものは積極的に自らも取り入れる」
という程度には柔軟な思想を持っており「奴隷の帽子」はあくまでも「奴隷の帽子」として利用し尽くそうとするローマよりはややましな文化があったと思われる。古代ギリシアにはそもそも統一された国家は存在せず、複数の民族がそれぞれの都市国家(ポリス)を形成して生活していたため、厳密に述べればアテナイを建設したイオニア人と、スパルタを建設したドーリア人は異なる民族、ということになる。アテナイを建設した人々は、テッサリア地方固有のペタソス帽を後に騎兵の帽子としても利用するようになったが、一方スパルタではピレウス帽が兵士の帽子として採用されている。同じギリシャであっても、アテナイの人々はバルカン半島の東部の人々と文化的な交流があり、一方のスパルタはバルカン半島西部やイタリア半島南部と交流が盛んであったのではないかと思われる。
ギリシア神話においてピレウス帽は、イタキ島出身と言われるトロイア戦争の英雄オデュッセウスや、ディオスクローイの双子(彼らのいわば「育ての父」はスパルタの王とされている)の象徴とされているようである。トロイア戦争の伝承が「海の民」のヒッタイト攻撃の事実のいくばくかを投影しているとすれば、オデュッセウスは「海の民」の側の指導者の一人ということになるのだが、時代が下ると勝者と敗者の文化が混在して、ピレウス帽がオデュッセウスの象徴とされていることが分かる。
ディオスクローイの双子のカストールとポリュデウケースは白鳥に化けたゼウスが父親で、卵から生まれたといわれている伝説上の双子である。二人は馬術の名手で、数々の手柄を立てたがカストールは戦場で矢に射られて死んでしまったと言われている。このように仲の良かった双子が何らかの理由で片方(あるいは両方)が非業の死を遂げる、という伝承はローマのロームルスとレムス、コーカサスのナルト叙事詩におけるエクセルテグとエクサルなどに認められる。ディオスクローイの双子は「馬術の名手」とされているため、馬に乗って移動する騎馬民族由来の伝承であろうかと思われる。彼らの神話はドーリア人の先祖の神話に繋がると思われるが、最終的に「ディオスクローイの双子」として確立された時代にはピレウス帽がスパルタ人にとって身近な帽子となっていたため、それがこの双子の象徴ともされたのではないだろうか。
また、彼らの母親はレーダー(Leda)というのだが頭にくる「L」の子音は「Ker」から発生して「S」や「L」へと変化したものであり、元は「カーダー(Ker-da)」あるいは「スドゥ(Su-d)」という言葉と連続性がある言葉から派生していると思われる。「カーダー」のように「K-D」で構成される子音は、メソポタミア、地中海東岸地域、エジプト等で信仰されたカデシュ(Kadesh)という蛇女神の名とほぼ一致する。またギリシャ神話において伝令神ヘルメースが持つ蛇の杖はラテン語でカードゥーケウス(Caduceus)という。
一方「スドゥ(Su-d)」というのは、メソポタミアの神話において、エンリルと結婚する前のニンリルの名前と一致する。ニンリルはエンリルに無理矢理犯されて、彼の妻になった上に冥界にまで共に行く羽目になるのだが、レーダーは白鳥に化けたゼウスに騙されてディオスクローイの双子を生む羽目になる。通常の婚姻関係ではない「略奪的な男女の交わり」によって生じる神話的事件の当事者という点で、レーダーとニンリルの神話には共通点がみられる。ただし、レーダーは神としての性質が弱められて、普通の人間の女性として描かれ、最後に死なねばならぬわけでもなくて「鳥に化けた神の子供を産む」という風変わりで幻想的な物語的神話へとその内容は変化し、メソポタミア時代にその神話に含まれていた祭祀的な要素は薄れている。[25]
鍛冶神の名前
古代地中海世界には様々な名の神々が存在していたが、例えば1世紀にはローマのユーピテルとエジプトのアメン神が習合して「ユーピテル・アモン」と呼んで「同じもの」として扱うような事例もあり、かなり早い時期から似たような性質の神々を一纏めにして、併せて祀ろうという気風も生じていたように思う。
ヒッタイトの鍛冶神はハサメリ(Hasameli)というが、この神以上に「鍛冶」に関係有るとみなされていたのが、製鉄に必要な季節風を司る神ヘバト(hebat)であった。この神は「太陽女神」といて祀られ、複数の民族が自分達の呼称で彼女を呼んでいたため、結果的には複数の名を持つ女神であったといえる。彼女のもう一つの名前にイスタヌ(Istanu)あるいはエスタン(Estan)というものがあるのだが、それぞれの名前の語尾にある「t」という子音と「nu」という子音を「女性形の名前につける子音」として排除し、ヘパトとイスタヌ(あるいはエスタン)の名前を連結すると
- ヘーパイストス(Hepha-estus)
ということになり、これがギリシア神話における鍛冶神の名前となっている。一方、イスタヌやエスタンの頭に来る「I」や「E」を接頭辞的にとらえて省くと
- セト(s-tあるいはs-th)
という言葉に変化し、これがエトルリア神話における鍛冶神の
- セスランス(Sethlans)
という名前の語源になっているように思われる。要するにイスタヌやエスタンというのは「セト」という神名の丁寧語といえる。語尾につく「t」や「nu」は派生した当時には「蛇の神」を現す子音であったのであろうが、古代エジプトにおいて蛇の神を女神に纏めようとする動きがあったため、時代が下ると「女神につける女性形の名を示す子音」へと変化したものなのであろう。セスランスに類似した名前に、コーカサスのナルト叙事詩における、オセット族の英雄ソスラン(Soslan)がいる。男性名の語尾に「lan」が付く形式はおそらくエトルリアとオセット族に共通したものなのであろう。
また、セト(S-t)あるいはセス(S-th)で現される子音の神名であるが「t」という子音は「d」という子音と交通性があるため、これもまた「スドゥ(Su-d)」という名前に変化し得る名前である。オセット族のソスランの養母の名はサタナ(Satana)といい、こちらは女神的女性の名とされている。要するに「S-D」あるいは「S-T」とされる神の名は広く地中海周辺地域で使用されているが、メソポタミアの古い時代といったように、古くかつ女系の文化が強い時代には蛇女神の名とされることが多かったが、中央アジア方面から男系の文化が流入すると男性神への名前へと変化されられた名前であると思われる。しかし、おそらく「女神の名」としての「S-t」が広く普及していたために、オセット族のように、男性名と女性名の神的存在が両方存在する場合があり得たのであろう。古代のアナトリア半島は古くからの地母神信仰が盛んであり、その文化はかなり後世まで伝えられたため「S-t」の神の名が太陽女神の名として強く残されたのであろうと思われる。
一方、男系が優位の文化では太陽神が男性に変更され、かつギリシャやローマ等で顕著であるが、女神は「月の神」とされる傾向が強いように思われる。このような文化では「d」のつく女神は「月神」へと変更される傾向が強かったのではないだろうか。例えば「エンリルとニンリル」のように「略奪型の男女の交わり」をモチーフとした伝承は旧約聖書にも登場する。それによると、ユダヤ人の先祖の一人であるヤコブにはディナ(Dinah)という娘がいたが、この娘が立ち寄った街で土地の娘達と交流を持とうとして出かけたところ、その土地の若者に目をつけられて強姦されてしまった、というのである。旧約聖書は1神教の立場で編纂されているため、登場人物はすべて人間とされているが、これはユダヤ人に伝わった「エンリルとニンリル」神話の類型といえる。ディナを犯した土地の男はディナを妻にしたいと願ったが、これを快く思わなかったヤコブの息子達は報復のために彼を騙して殺してしまい、父であるヤコブは息子達の暴挙からはよくない結果が生まれるであろう、と歎くのが旧約における「ディナのエピソード」である。[26]
ディナという名はヘブライ語で、「正義」「公正」を意味するが、旧約聖書のエピソードから受けるイメージからはややかけ離れている印章を受けざるを得ない。ディナの物語を読めば、どんなに彼女に同情的な感想を持つ人でも、
「乱暴されかねない場所へ、うかつに行かなければ良かったのに」
という印象は多かれ少なかれ持つのではないだろうか。おそらく、この旧約聖書の展開は「女神的な存在が何故暴力的な状態で男神と交わらなければならないのか」という理由が失われて民間伝承化したために生じたものなのであろう。民族の祖先的存在の女性が、通常ではない状態で誰かに乱暴されたという伝承のみが残されて、それが治水に関する犠牲の祭祀と関連した神話であるという意義が失われてしまっているため、
- 乱暴された、という事実が現実の生活の中でどのような状態で行われうるか
という点で、かなり内容に整合性を伴わない乱暴な改変が行われているものだと思われる。旧約聖書の作者達の意図はおそらくディナの不運をあげつらうのではなくて、
- そのような事実に対して過剰な報復をすべきではない
という族長ヤコブの信念を強調するものであったのではないだろうかと思われる。なぜなら「ヤコブ(Jacob)」という名は「Ja-Co-B」、すなわち「Ja」を接頭辞として省くと「Co-B」即ち「K-B」へと変化しうる名となり、ヘバト(Hebat)や鍛冶師のカーヴェ(Kaveh)と非常に近縁性の高い名となるからである。この名で象徴される神は、本来農耕に関わる穏やかな豊穣の神であるので、過激な報復を好まないヤコブの気性は、本来の「K-B」の神の思想に近いものといえるからである。「ヤコブ(Jacob)」の接頭辞的単語である「Ja」の子音が「D」から変化したものなのか、それとも「K」から直接変化したものであるのかについては言語学的センスの乏しい立場からはやや悩ましいのだが、「D」あるいは「T」から派生した子音であるとすると、この名はヒッタイトの天候神テシュブ(Teshub)と近縁性の高い名となる。古代のユダヤ人は金属の精錬技術を有していたため、おそらくヒッタイト滅亡後、製鉄技術を持っていた亡国の民をある程度受け入れた経緯があるのではないかと思われる。そのため、彼らの宗教的な思想にはヒッタイトの思想がかなり投影されているのではないだろうか。
女神信仰との関連性に話を戻すと、ディナという名は「D」が「T」、「n」が「m」と交通性のある言葉である。すると、
と変化しうる。テミスはギリシア神話における司法女神の名であり、その名の意味するところは旧約聖書におけるヘブライ語の「ディナ」と非常に近縁性があることが分かる。また、テミス女神に「Ar」という接頭辞をつければアルテミス(Ar-te-mis)となり、ギリシア神話における月の女神となる。またローマ神話における月の女神の名はディアーナ(Dia-na)といい、まさにディナと非常に近い名となっている。以上を鑑みると、ディナ(Di-nah)という名は、古い母系社会の時代の太陽蛇地母神の流れを組んで、男系が優位になった社会でも「司法の女神」としての地位をある程度保ったが、その一方でその性質は「太陽女神」から「月の女神」へと変更されてしまった神と言える。男系優位に併せて、太陽神は男神へと変更されてしまったからである。ただし、司法神としての地位を獲得したり、月の女神として確立されたローマやギリシャの女神達には、かつてのニンリルのような「犠牲神」としての側面は失われてしまっている。
余談
ローマの女神ディアーナの名は、英語読みでダイアナと発音する。要するに、亡くなった英国のチャールズ皇太子の先妻であったダイアナ妃と同じ名である。通常の結婚とは違う形の恋におち、そのために非業の死を遂げたこの女性の姿は、どうしてもなんとなく私の中でニンリルのイメージと重なってしまうのである。同じ名のローマの女神は、そのように非業の最期を遂げることもなく、その存在を謳歌していたのに、何故神話の時代を逆行するかのように彼女は死ななければならなかったのだろうか、と思う。やはり、そのようなことは神話の時代においても、現代においても、あり得てはならないことだと、そう述べることも時には必要とされることもあるのではないだろうか。
まとめ
結論を述べれば、ギリシア神話の鍛冶神ヘーパイストスと、エトルリアの鍛冶神セスランスは、ヒッタイトの太陽女神の名にその起源を持ち、語源的には同語源である。彼らが被っているビレウス帽と製鉄の技術も共にヒッタイトに由来し、イリュリア人とはおそらくバルカン半島に強制移住させられたヒッタイトの末裔なのではないだろうか。こうして、敗者に対して生じた勝者の差別意識が現代に至るまでの民族差別の根本的な遠因となっているように思われる。
一方、ローマにおける解放奴隷の女神リベルタス(Libertas)であるが「L」という子音は「Ker」あるいは「Her」という言葉から変化しうる子音であるので、
と変化したものに過ぎないことが分かる。この女神から発生した言葉が「自由(liberty)」であるといえる。しかし、古代のローマ人からみれば、語源を探るとリベルタスという女神は、ヒッタイトから連行した人々の神、すなわち「奴隷の神」に過ぎないということになる。「奴隷の神」の名において、奴隷を自由にするように見せかけるために利用されている女神がリベルタスであるといえる。
「奴隷の神」を「自由の女神」と偽って人々を騙すこと、被征服者の文化を尊重することも、わずかの敬意を払うこともできないもの、それが古代ローマであったように思う。表向き、彼らの神を「自由の女神」に仕立て上げでも、それは人々を騙すためでしかなく、かつてその神に敬意を払っていた文化を侮辱したものといえる。古代ギリシアと古代ローマの「文化の違い」というものはこのような点にあると思う。ローマの方が、ギリシアよりも更に悪質で、かつ陰湿なのである。
不思議なことだがリベルタス女神に対する信仰は、18世紀に入ると「自由(liberty)」という一般名詞に対する信仰へと変貌して復活したように思う。ジョン・ウィルクスはこの言葉を掲げてロンドン市長に当選したが、行った政治は民衆に自由を与えるようなものではなかったようである。まさに人々を騙すためにこの言葉を使う政治家とは、古代ローマの政治家達を彷彿とさせるのだが、5世紀に西ローマ帝国が滅びて以来、1300年近くにもわたって、誰が古代ローマのこの陰湿かつ陰険な文化を伝えてきたのかということは、非常に興味深いことだといえるように思うのである。
ヒッタイトにおける製鉄技術を「奴隷の技術」として利用し尽くそうとした人々がいた一方で、おそらく戦乱を逃れてきた技術者を保護した集団も古代世界には存在したと思われる。例えば、サーサーン朝における鍛冶師のカーヴェは尊敬を受ける存在であって、差別される存在ではない。ヘバト女神は別名ケパ(Khepa)ともいう。要するに鍛冶に関わる神の名が
と変化し、それがイスラム教時代に入って、神から人へ変更されたものが「鍛冶師のカーヴェ」である。おそらくこの名もヘバト女神に由来する名であるのであろう。
関連項目
参照
引用
- ↑ Encyclopædia Britannica
- ↑ http://pileusblog.wordpress.com/
- ↑ イタキ島はオデュッセウスの故郷と言われている島である。
- ↑ πῖλος, ヘンリー・ジョーンズ・リドル(Henry George Liddell)、 ロバート・スコット(Robert Scott)、「ギリシャ-英語辞書(A Greek-English Lexicon)」、on Perseus
- ↑ この部分の記述には、個人的にやや疑問を持つものである。
- ↑ ジョン・ゼットゼス(John Tzetzes)、「On Lycophron」、カール・ケレーニイ(Karl Kerenyi)が記録した「ギリシャの英雄達(The Heroes of the Greeks)」1959:107 note 584.
- ↑ ギリシア神話において、カストールとポリュデウケースの母親は白鳥に化けたゼウスと交わり卵を生んだとされている。その卵から誕生したのがこの双子である。
- ↑ カベイリとは鍛冶神ヘーパイストスに関する密議集団であった。古代ギリシアでは、会員のみに特定の儀式を授ける「密議宗教」が盛んであり、その内容も会員以外は秘密とされることが多かったため、現代に残されている資料に儀式の実態がどのようなものであったか記されていることが少なく、その内容が謎とされていることが多いのである。
- ↑ ヴァルター・ブルケルト「ギリシア宗教(Greek Religion)」、1985:281.
- ↑ 古代ギリシアでは、戦役の際に使用する武器や装備は個人負担であった。そのため、しっかりした重装備を整えることができない貧しい者は軽装で戦闘に望まざるを得なかった。彼らは当初重装歩兵の補助的役割を果たすに過ぎなかったが、軽装備ゆえの機動力の高さから、次第に戦場で独自の役割を確立するに至った。エクソミスは古代ギリシアの労働者階級や軽装歩兵階級、要するに貧しい階級の人々が着る上着であったと思われるが、その軽装さが重宝されるようになり、次第に重装歩兵も着用するようになったものなのである。同様に、ペタソス帽、エクソミス(上着)、クラミス(マント)という組み合わせは貧しい階級の人々が着る定番の服であったのだろうと推察されるが、動きやすいことから旅行用の服装として全体に広まったものなのであろう。
- ↑ コノリー・P(Connolly, P.) (1981)「 戦争におけるギリシャとローマ(Greece and Rome at War)」マクドナルド・フォーブス(Macdonald Phoebus) London, pp. 70.
- ↑ ニック・セクンダ(Nick Sekunda)、「スパルタ軍(The Spartan Army)」p.30
- ↑ ジェッシュ・オバート(Jesse Obert)。「ギリシャの兜の歴史の概要(A Brief History of Greek Helmets)」 p.16
- ↑ コブ・T.R.R.(Cobb, T.R.R.)(1858)、「アメリカ合衆国における黒人奴隷法の研究(An inquiry into the law of Negro slavery in the United States of America)」、Philadelphia、T. & J.W. Johnson. p. 285, 285n2.
- ↑ シチリア島で生まれた古代ギリシアの著述家
- ↑ 古代ローマの劇作家
- ↑ エトルリア出身の古代ローマの詩人かつ風刺家
- ↑ 古代ローマの歴史家
- ↑ 第15代ローマ皇帝
- ↑ ウィリアム・スミス(William Smith)編「古代ギリシャ・ローマ辞典(A Dictionary of Greek and Roman Antiquities)」の「ピレウス帽」の項、イェーツ(Yates)、ジェイムズ(James)著 (マレー出版, ロンドン, 1875)
- ↑ アッティカはアテナイを中心とした地域。
- ↑ カンピドリオはローマという都市の基礎となった7つの丘のうちの1つの名前である。
- ↑ 18世紀のイギリスの画家。風刺画を得意とした。
- ↑ イギリスの急進的なジャーナリストかつ政治家。「自由(Liberty)」を合い言葉に民衆の支持を得て選挙に当選したが、ロンドン市長となった後には強権的な政治を行った。アメリカの独立戦争に対するイギリスの抗戦を非難し、組合活動と宗教的寛容を支持していた。
- ↑ メソポタミア時代の「エンリルとニンリル」の神話は、彼らが川の仲で交わり、冥界で生まれる子神達も「治水の神」に関連することから、治水に関わる犠牲の祭祀と関連のあるものではなかったのかと個人的には思うのである。
- ↑ 「創世記」34章
出典
- 本項は、著作権が消失した出版物の文章を引用している。クリスホルム、ヒュー著 (1911)。 ブリタニカ百科事典(第11版
)。 ケンブリッジ大学出版局。
参考文献
- セクンダ(Sekunda)、ニコラスとフック(Nicholas and Hook)、アダム(Adam)(2000). 「ギリシャの重装歩兵 紀元前480~323(Greek Hoplite 480-323 BC). ミサゴ出版(Osprey Publishing) ISBN 1-85532-867-4