24年10月18日

 今日は「好きな漫画」と「あまり好きでない漫画」について書きたいと思う。

 「え、社内システム全てワンオペしている私を解雇ですか?」という漫画があります。要約すると、社内システムを一人で管理しているような優秀なエンジニアが社長のわがままと偏見で解雇されて、心機一転SE専門の専門学校の講師になって、迷えるSEを救う、という話だと思います。途中までしか読んでないけど。

 で、客である「迷えるSE」とは、社内でハラスメントを受けていたり、SEの卵だけどプログラミングの学び方が分からなかったり、とそんな感じである。もちろん彼らの個々の悩みを解決してあげるのだから、善良な内容というか、根っから悪い人はまあまあ出てこない漫画である。だけど、ハラスメント的問題とか、病気とかまでいかなくても体質的な問題とか、社会的な慣習的な問題とかって、結局は

個人の問題でもあるけれども社会的な問題

でもあるわけじゃないですか。特に病気や体質的な問題は、それに対して理解ある社会であるかないかで、当事者にかかるストレスは大きく異なるはず。だけど、そういう諸問題を全部

「個人の問題」

ということにして、たまたま出会った個人だけ救ってあげればいいでしょ、それですべてハッピーでしょ、っていう内容の漫画はですねえ、どうなのかなあ? って思うわけです。日本は困っている人に対して、「自己責任」で片付けたがって社会的なセーフティーネットが不足しがちなんて言われますけれども、

「個人の問題」

だけ片付ければいいや、っていうのは、ひっくり返せば、「弱者に対する社会的なセーフティーネットがなくてもいいや」っていう理論の正当化する理屈になりやしませんかねえ? もちろん漫画は娯楽作品なんだから、労働組合とか労働局とか、法律を変えるために政治家に陳情とか、警察に相談とか、そういう深刻なことを描けとは言いませんけどもさあ? 「個人の問題」だけで全てが片付いていく内容に違和感を感じるわけです。白土三平の漫画みたいに「一揆だ、一揆だーーー」ってなればいいわけでもないんですけれども-;。というわけで、これは苦手な漫画なので、途中で読むのをやめました。

「大学の講義を寝ないで真面目に受けていたのが良いこと。」

ってあった時点で。それは低血圧症で午前中起きているのが辛い人、微妙な耐糖能異常があって食後意識を保っているのが辛い人を、当人が悪くもないのに攻撃する内容であって、許せない。講義に寝てて不真面目と決めつけるのは、それは偏見であり、れっきとしたハラスメントであって、そのようなことを述べる教官は社会的に糾弾されるべき、と、低血圧症と耐糖能異常をダブルで持ってるあたくしはそう思うからです。

 でもって、「苗族民話集」という本を持っていますので、もうちょっと詳しく読んでみました。そうしたら、なんで雉が悪者なのかが分かってきました。苗族の伝承は、日本神話との類似点が多いのです。でも、当然同じ中国内の漢民族の神話とも類似点は多いです。どうしてかというと、どちらも稲作文化だからではなくて、

縄文日本に伝播した世界樹(饕餮)信仰が大渓文化のものに近かったから

だと思います。でも、長江型の饕餮信仰だけでなくて、黄河型の仰韶の蛙饕餮も入ってきていますので、もしかしたら仰韶の饕餮信仰も蛙饕餮は別として内容は長江型にかなり類似したものだったのかもしれません。

 ともかく古事記を読むと、バラバラであった各氏族の伝承を集めて、なんとか誰もが納得する「歴史書」という体裁を作るために編纂者が色々なエピソードを集めて、整合性がつくように一つに纏めて、その作業が一番大変だったろうな、と編纂者達の苦労を強く感じる

わけですが、苗族民話集を読むと

 一つの出来事を決して連続した一つの歴史と信仰として語れない悲しさと苦悩

を感じる。でも、大渓文化の段階ですでに北斗信仰があったこと。北斗の神に織り姫を人身御供に捧げていたこと.虎信仰、雉信仰、太陽信仰を組み合わせた信仰があり、そこでも「婚姻」の形を取る人身御供があったこと、これが「悪いもの」として倒されたにも関わらず、結局「ネミの森」式に「先代の森の王(怪物)を倒した者が新たな森の王(怪物)」となるように改変されてしまったこと、そしてそれに伴い雉が鶏に変えられ、良渚で更に鶏が烏に変えられてしまったこと、そしてそういったものが全て世界では「悪しきもの」とされてしまったとしても、人々には自分たちが正しいと信じてきた先祖や神々に対する敬意を保たずにはいられない敬虔さと悲しさがあること。その悲しさは、蛙饕餮を「悪しきもの」として失ってもなお、その上位にあるミサクチ様への信仰を失うことができなかった縄文日本人の悲しさに通じること。

 そういういろんなことを感じた気がしました。確かアメリカでは、黒人奴隷を監督し押さえ込むために、混血奴隷を用いた、とそういう歴史があったように思います。古代において、

母系社会を押さえ込むために、父系の氏族が混血女性を「太陽女神」の代理人の地位につけて、人身御供を捧げさせたり、搾取をさせていた

のだと思います。だって、「父」という字の元は、手にムチを持つ父系の略奪者なんじゃないの? と思うあたくしである-;。だから、子孫が祖先を思い、祀るとしても一筋縄ではいかない。父親は略奪者であり、母親はレイプ被害者であり、両者の間に愛情も暖かい家庭もないからで、子孫はどちらかを敬えばどちらかを馬鹿にするしかないわけです。

 そして、太陽女神の兄弟達を「鳥神」とすれば、彼らは監督官でもあるし、姉妹達が母親の氏族につかないようにする見張りでもある。だから、個人として誰か鳥神に失態があって、処罰を受ければ、別の誰かが新たな鳥神の地位につくしかないわけです。そうして、鳥神の地位が雉から鶏、烏へと変化しても、鳥神が「搾取の元凶」であることは変わらないわけです。だから、

人身御供を求める太陽女神

なんて、結局搾取の象徴でしかないのに、母親であるから人々は「母」として慕うしかないのです。でも、彼らの上位に来るのは、結局は

上帝

じゃん? となる。織り姫を食らう「馬」は本当は七頭いたの? 現代水内郡の「2頭の馬」ですら数が多すぎるのに、と思うあたくしである。でもあたくしにとっては、この織り姫食いの「7」が苗族の文化の中に存在したか否かがとても重要であり、すでに大渓文化の中に「上帝」がうごめいていことを知って、ため息が出た今日だったのでした。

24年10月18日

 さて、射日神話と招日神話ですが。雷文を持つ鶏雷神のことを語るには、招日神話のことを語らないといけません。なぜなら、長江文明、特に大渓文化の生きた化石といえるようなミャオ族の神話や文化は、長江文明の神話や文化を理解する上で非常に重要だと思うからです。鶏もその辺りが原産ですし。

 ミャオ族の射日神話は、複数の太陽が射殺されて1つしか残らなかったという「射日パート」と、鶏が残った太陽を呼び出したという「招日パート」に分かれています。で、これが羿神話の原型だと私は考えますが、黄河文明では

「大中国の神話に鶏なんかお呼びではない。」

と考えられたかどうかは知りませんが、鶏さんは削除されてしまいました。でも羿を罰した帝俊は鶏雷神の上司も同然ですから、まあ「同じようなもの」といえます。でも、太陽に関連して「鳥」がいるという伝承は黄河文明にも伝わりました。それが「三足烏」です。羿が射たのはこの「烏」であると言われています。

 でもって、良渚文化(紀元前3500年ころから紀元前2200年ころ)では「太陽を背負って飛ぶ鳥」の玉製品が出土していますので、鳥と太陽は「別のもの」といえます。鳥は太陽の乗り物、といえるかもしれません。河姆渡でも鳥が太陽を抱えているけど、鳥と太陽は「別のもの」で、「鳥が太陽である」とは表現されていません。孔子さま(紀元前5世紀くらい)は「太陽に住んでいる鳥は日の光を隠す」と言っています。楚辞は後漢に成立したとwikipediaにありますので、普通に考えれば、孔子様の時代から後漢までの500年くらいの間に、

太陽と太陽に住む鳥が一塊にされてしまって、烏が太陽にされてしまった

という改変が加えられた、のだと思います。別に著作権なんてない時代なので、原作がどうだったかなんて、誰も気にしませんし。烏は三星堆遺跡の扶桑樹にある通り、

「木に属するもの」

であったはずなのに。一方、「複数の太陽が射落とされた」という話は古くからありました。ミャオ族の神話にあるのだから、大渓文化(紀元前5000年頃 – 紀元前3000年頃)にはもう存在していたのです。また、これとは別にミャオ族には、「ラオタンのトラ退治」という話があって、これは「英雄が人食い虎」を刀で倒した、という話です。饕餮の構成要素の一つに「獣」がありますので、虎がいても不思議ではありません。中国では白虎といって虎も神格化されます。で、韓国には「猟師の息子の仇討」という、人食い虎を弓で射て殺す話があります。で、ナナーイには「勇敢なメルゲーン」という英雄が人をさらう巨人などを退治する話があります。饕餮の構成要素の一つは「巨人(ギリシャで言うところのティターン)」ですし、鳥もその一部になりますから、要は

羿神話というのは、「怪物退治」の神話と「射日神話」を合成させてしまったもので、本来羿が射たのは怪物の化身であった烏だった

と言えることになると思います。こうすることで、本来、太陽とは別の存在であった烏を、「太陽と同じもの」に書き換えてしまったのです。そして烏というのは、

「太陽に関連する鳥」

ということで、古くは鶏とほぼ同じ機能を持っていたと思います。なぜならミャオ族の鶏は太陽を呼び出せるし、新羅の烏は太陽を出し入れできるからです。そして、

「鳥が太陽を呼び出せる」

という神話的機能は、日本の「アマテラスの岩戸隠れ」へと繋がるのです。岩戸隠れは招日神話の一種です。黄河文明の羿神話では「招日神話」は削除されている、といえます。

 でも、日本の神話はそれとは逆で、招日神話は明確にありますが、明確な射日神話がありません。そもそも太陽は最初からアマテラス1柱のみで、複数であったこともないのです。日本の招日神話に先立つのは、「兄弟姉妹であった他の太陽の死」ではなくて、「アマテラスの兄弟であった須佐之男の追放」です。天界からの神の追放は「死」も同然かもしれません。でも、須佐之男は誰かに退治されたわけではありません。アマテラスを岩戸から引き出すのはタヂカラオ他ですが、これは単に「男」といってるだけで、他に英雄的な行為をしているわけでもありません。須佐之男がアマテラスの正しい仕事を妨害した「孔子的烏」であったとしても、

「それを退治した」

という神話が非常に希薄で曖昧なのです。須佐之男の子孫を自称したいお偉いさんがいたからねえ、と思うわけで、神話なんてそんなご都合主義の改変なんていくらでもあります。

 で、日本の神話には「隠された射日神話」がもう一つあるわけで。それが「アメノワカヒコ神話」です。地上を征服するために天からやってきたアメノワカヒコは仕事をさぼって、催促にきた雉も射殺してしまったので、天罰を受けて殺されてしまいました。羿神話の羿も烏を射殺したことで罰を受けますが、アメノワカヒコは雉を射殺して罰を受けます。で、アメノワカヒコは雷神性質を持つアジスキタカヒコネに生まれ変わります。日本の神話では、招日するはずの鳥神を饕餮的雷神が殺してしまいます。良渚文化では

「蹴爪のある神」

といったら100%鶏雷神だって私は思いますが、日本ではこれが「雉」に変換されます。雉にも蹴爪があるから。でもって、これが戦国時代くらいの仁科氏あたりになると「ヤマドリ」にも変換されるように思います。もう改変なんて、「なんでもあり」だから-;。でもって、更にあたくしの地元である信州新町では

「雉も鳴かずば」

というふるってる民話があるわけで。雉が、とある娘とリンクしていて、雉が猟師に撃たれて死ぬと、娘が「雉も鳴かずば打たれまい」といったという話です。この猟師というのが、アメノワカヒコのことであるとすると、鳥神とリンクしている娘は「太陽女神」だと思いますが、呼び出す鳥神がいなかったら、太陽はいつまでも出てこれないよねえ?? と思う。しかも、太陽自らも「沈黙」を選んで出ないことを選択する、という話である。そして、娘が自らの生存のために親を犠牲する、という点は、農耕文化ではなく遊牧民の文化に近いという気がするわけです。騎馬遊牧民が夜間に略奪や強盗行為を行うのであれば、太陽はむしろ出てこないで黙っててくれた方が好都合、ということで。射日神話と羿神話には、こういう意味があると思う。

遊牧民の王(上帝) > 中間管理職(鳥) > 太陽(と太陽信仰の民、要は農耕民)

という身分制度があり、「鳥」に定められた者は、太陽(と太陽信仰の民)を、余計なことを言わないように管理せねばならない。管理できなければ、太陽(と太陽信仰の民)と共に死ね。奴隷階級の太陽なんて、1個あれば充分なんだからーーー。

と、これが中国からやってきた、騎馬民族の子孫であるあたくしが、先祖の思考回路なんてこんなもんなんだろーなー、と思う「意味」なわけです。日本に稲作を持ち込んでも、お偉いさん達は馬を飼って軍馬を育ててました。水内郡には「牧」に関する地名があちこちにあります。「雉も鳴かずば打たれまい」とは、射日も招日も飛び越えて

「余計なことを言ったら殺す」

っていう脅迫そのものだなあ、と思う。その一方で

「母親は息子のための犠牲になれ」

っていう泉小太郎があるわけだから。2つ併せたら、ただただ

「女は余計なことを言わず、誰かのための犠牲になれ。でなければ殺す。」

ってそういう意味になるのでは?? と思ったあたくしでした。これで蚕馬も好きとくるから、女を殺すことばっかり好きなんじゃん?? と思うわけですが-;。

24年10月15日その2

 あと、良渚文化の、中国人が述べる「太陽神」には、指が3本の他に、「蹴爪」というものがついています。・・・雷文と蹴爪で、まんま鶏雷神・・・と思うあたくしである。まあ架空の鳥には違いがないので、良渚では烏や鴨にも蹴爪がついているのかもしれませんが。

 古事記、書紀、そして伊勢神宮の式年遷宮でも、太陽女神を引き出したり、動かしたりする前に、鶏の鳴き声である「カケコー」を唱えます。しかも午後8時の暗闇の中で、です。鶏は暗闇の中から太陽を引き出す機能を持っている、と考えられており、その発祥は長江文明か、それよりも古い時代の思想といえます。でも、そのあたりでは鶏は雷神であって、太陽神ではないんじゃん? 今でもそうなんじゃん?? と思う。だから、伊勢神宮も、「太陽信仰の神社」みたいにみせかけているけれども、本質的には

鶏雷神の力を使って太陽を操ろう信仰

の神社なのである。それを「太陽信仰」って言う?? と思うあたくしである。神を人間の好き勝手に操ろうとするのは、不敬っていうのではないのですかねえ? 特に現代的な一神教の方達、すなわちムスリムとかキリスト教を真面目に信じている人達に

「人間が神を操ろうとすることは正しい信仰なのか?」

って真面目に聞いてみ? と思うわけで。そして、良渚や伊勢の場合、むしろ頼みにしているのは、太陽の力ではなくて、鶏雷神の力なんじゃん? と思う。雷神は太陽女神の臣下なのか? それとも主人なのか? となるわけです。そもそも良渚では雷神の上に、更に上帝がいるんじゃないの? 中国だし、と思うので、太陽信仰どころか、

「太陽なんて転がる玉」

程度の扱いでしかない、と思うわけです。ということは、伊勢神宮の太陽女神の扱いも、本質的にはその程度なわけです。でもって、中国の「上帝」は日本では少彦名命だから-;。特に、古代では、お手盛りで

「自分たちの先祖は少彦名命(北極星)だ」

って言ってた人達は、単なる燃える玉の太陽が先祖だと名乗る人達のこととか、よっぽど下に見てたんだろうなーーー、自分たちは「王氏」で、表向きの「大王家」は「弟の家系」だものねえ?? 戦争に負けそうになったら、王氏の拠点の一つに大本営を移せっていうくらいに威張っていたんだよねえ? と思います。これいつの時代の話だっけ?? と思うあたくしである-;。

 そして、三星堆遺跡の巨人神を、殷周の青銅器と結びつけるのに、敢えて良渚との関連を述べるのを避けるのは、良渚の「鶏雷神」を「太陽神」といってごまかしたいからなんだろうなーー、と余談的に思うわけです。三星堆遺跡の巨人神は三日月型の象牙を持っていたと思われるので、それは「月神」であることを暗示しています。三星堆遺跡の巨人神と殷周の饕餮紋が同じもので「月神」だとすると、獣面紋は、黄河文明と三星堆遺跡では「月神」、良渚では「太陽神」ということになってしまって、三本足の蛙である嫦娥娘娘は考古学の上から完全に「女神」の地位を剥奪されてしまう。伝承学なんてのは「子供が楽しむおとぎ話」みたいなところに追いやられてしまう。嫦娥娘娘の伝承は、人類の歴史にとって人身御供の悲惨な歴史と関連する重要な伝承であって、それを意図的にねじ曲げることは、犠牲になった人々に対する冒涜でしかない、とあたくしは思う。

 しかも、古代中国の宗教観はそのまま日本古代の宗教観に連続してつながっているので。本家本元の長江文明の思想を変に改変されると、日本の伝承学者が迷惑なのーーー、と思うわけです。

24年10月15日

 本日は外作業のみ。私は土の清掃、姉は土の清掃、石片付けでした。なんだか暖かくてぼーっとしていた一日でした。

 テレビは昨夜は「逆転男子」の録画など、今日の昼は「News zero」等の録画を見ました。

24年10月14日

 本日は買い物と外作業。私は土の清掃、姉は土の清掃、石片付けでした。昨日は外作業のみで、私は土の清掃、土の埋め戻し、土掘り、姉は土の清掃、石片付けでした。

 昨日は、福山君の無料のライブの生中継をスマホで見て。こういうライブが中継で気軽に見れるようになるとは、良い時代になったなあ、と思います。インターネットが拡がり始めた頃は、ネットで誰かのライブ中継があるって言われても、実際にはサーバーが脆弱でほとんど見れなかったりとか、そういうこともありました。・・・誰かの、って、てっぺいちゃんがソロになってごく初期にハワイから中継したライブのことなんですけれども。

 我が家では特に冬期にスズメさんにパン屑を支援しているわけですが、スズメ以外の小鳥も食べに来ます。スズメとハクセキレイはもう我が家の庭を「自分の庭」みたいに思っていて、食べたいと思ったときには通年やってきます。でも、パン屑は小鳥たちにとって最大においしい餌とはいえないので、天然の餌が豊富な時期にはあまりやって来ません。特に夏から秋にかけてはガラガラです。でも、小鳥たちには彼らなりの考えがあって、秋になると冬の餌が心配になるらしくて。我が家の庭に様子を見にやってきます。9~10日頃はそれが顕著で、家の裏の木でヒヨドリが縄張りを主張するさえずりをしていたし、家の周囲でモズが雄叫びを上げているし、セグロセキレイは直接やってきて「パンをくれ」と言って貰えるかどうか確認していたし。みんな一気に冬が心配になったらしいです。でも2日くらい騒いでいると思ったらまた静かになりました。今年もパンが貰えそうな気配なので、みんな安心して帰っていったらしい。今年の冬もパンを食べる百舌が見られそうです。モズ姉さんにそんなに頼りにされているとは思いませんでした。

 そして最近ではスマホで漫画を読むことにはまっていて、大人の女性向けっぽいのをあれこれ読んでいるのですが。中に「捨てられた王女の秘密の寝室」という話があって。

 諸事情あって、立場が弱くて虐待されていた苦労人の王女様が、いろんな男性にモテモテで助けて貰いながら奮闘する、という話である。

 内容はちょっとアダルトだけど、人間関係もしっかり描かれていて好きなわけです。韓国の漫画なのだけれども、日本の漫画はなんだかだらしないというかふがいない男の人が多い気がするので、芯のしっかりした男性陣が新鮮で楽しいと思う。で、王女様の先祖は、その国を作った「金の烏」だと考えられているらしい。・・・これは古事記と書紀を足して2で割った設定? と八咫烏の子孫と思われる上に、虐待されていた苦労人のあたくしは思うわけで。細烏女と延烏朗の子孫は日本の王になった、というのが新羅の見解なのだとすれば、あたくしだって「日本の王女」ってことかも、と思って楽しく読んでいます。たまに、誰かが「自分はザヤード卿だから。」とか「自分はアルマンダイトでいい。」とか言ってくる気がするわけですが、気のせいです(笑)。「ザヤード卿は立ち位置としてはおいしいキャラだよね。芯がしっかりしすぎてるけどね。」と言われる気もします-;。

 で、最近また性懲りもなく、饕餮についてあれこれ書いているわけです。「饕餮文」っていったら、殷周代の青銅器の鼎の文なわけですが、古代中国では似たような図があちこちから出土しているわけで、殷周代の職人の独占特許的文様ではないのです。だけど、他の地域、他の時代に出てくる文様の意味が、殷周代の饕餮文と同じで、「饕餮文」と呼んでよいのかどうか、という問題があるわけだ。あちこち資料を調べると、特に良渚文化の文様を「饕餮文」とは別にしたい、と思われるような記述がみられるわけで、「なんで?」と思う。私にとっての「饕餮」というのはもっと大雑把で広く「巨人」まで含むものであって、ぶっちゃけ「饕餮」というのはうちの近所では「ダイダラボッチ」というものである、でなきゃ「ものぐさ太郎」だと思っているので、良渚の獣面紋と殷周の饕餮文と仰韶の土器の「目」の間に「差」といえるものなんかないでしょ、特に「意味するところ」においては、と思うわけですが。ともかく、「内容が必ずしも当てにならない」と但し書きのつくWikipediaですが、良渚の獣面紋は「太陽神」だ、稲作地帯だから太陽が信仰されている、みたいなことが書いてあって、

「むむう」

と思う。良渚の「2段的饕餮文」とも言える文様は、殷周の饕餮文に似た文様の上に、羽だか後光だかがついた神人がもう一つ乗っているのである。これが「太陽神」だと言いたいらしい。でも、良渚の文様には、雷文のような渦巻き紋がベタベタくっついている気がするわけで、雷文って言ったら雷神じゃないの? って私なら書けるけれども、中国の人は書けないのか?? 偉大な袁珂先生に逆らうことになるから?? と深掘りして思ってしまうあたくしである-;。雷文がついているのが太陽神なら菅原道真も太陽神じゃん? と思うわけですが-;;。この羽の生えた神人については日本人の梅原先生がかなりまともなことを書いているわけで、「指が3本」であることを指摘している。指が3本って言ったら、カモの先祖の日本名・八咫烏のことじゃん? と思うあたくしですが、それなら尚のこと、これは「太陽神」ではないのである。

『淮南子』には「日中有踆烏、而月中有蟾蜍。日月失其行、薄蝕無光」とあり、これは「太陽にはカラスがおり、月にはヒキガエルがいる。 太陽と月は行き場を失い、そこに光はない。(Deepl翻訳)」という意味なのである。細烏女と延烏朗の伝承もそうだけれども、烏というのは、太陽を隠し、光を隠してしまう存在なのである。彼らは「隠す存在」であるから、その気になれば太陽を出すこともできる。しかも、雷文がくっついている、となれば答えは一つ。「烏」とは、雷神のことであり、巨大な巨人はいわゆる「入道雲」であり「雷雲」のことなのである。良渚の玉琮って、「天地を結ぶ柱」のことなので、良渚では玉なのだけれども、うちの近所ではこれを「御柱」というのである。だから、この柱は文化によっては木製であっても構わないわけ。ギリシャ神話では、これはアトラスといって、完全に巨人にしてしまってる。ただし、アトラスはしまいには石に変化するので、石とか玉に近いものなのだけれども。これはヒッタイト神話ではウルリクムミという岩の怪物となるのだと思う。良渚文化ではこの「柱」に饕餮文がつくのだけれども、長江文明の流れを組む苗族では、この柱は蘆笙柱となる。柱には饕餮文と同じ意味を持つ水牛の頭が飾られる。柱の頂上には鶏が停まっている。中国神話の鶏っていうのはれっきとした雷神である。だから、良渚の烏も、苗族の鶏も世界柱の上に乗る雷神なんである。うちの先祖はこれを烏とか鵄とか呼んでいるわけだから、むしろ大雑把に「鳥なら何でも良かったんじゃないの? カモでもアヒルでも??」と思うわけですが、ともかくこれは「雷神信仰」なのだし、苗族が柱のフウの木を「先祖」と考えているのであれば「祖神信仰」でもあるのである。だいたい賀茂系氏族にとっては、八咫烏は「祖神」なんだし、たぶん「雷神」なのだから、この2つはアジアでは兼任可能な存在なのである。そして、この「天地を支える柱」が樹木であって、そして柱ではなく生きた樹木であったら、これをなんと呼ぶのか? それは「世界樹」と呼ぶものなんじゃないの? と思うわけです。

 ともかく、「上に神人鳥」が乗る柱(玉あるいは木製)あるいは樹木が「天地の間にあって天地を支えるもの」であるとすれば、それは「聖(天上)」と「俗(地上)」の「境界」にあるものでもある。うちの近所ではこういう「境界」の意味が強調されて、御柱は神社の周囲を俗界から囲うように建てられる。そして、もっとポピュラーに、「鳥居」もまた「聖俗の境界」に建てられる。日本の「鳥居」の頂上に鳥は配置されないけれども、名前にだけその性質の名残が残っている。そこに座した「鳥」とは烏なの? 鶏なの? それとも鴨とか? 川鵜とか? と思うわけですが。うちの先祖は「何でもいい」って言うかもしれないと思う-;。もっとも彼らにこれらの鳥を区別するだけの脳みそがあったら、の話で、まずはあったかどうかが問題である-;。「烏の3本指」は我が家の近所の縄文日本では「蛙の3本指」に変換されてしまっているし。仰韶でもそんな感じであると思う-;。

 ということで、長江文明は稲作文化なのだけれども、良渚あたりは太陽信仰ではなかったと思います。むしろ「太陽を雷神の力で操ろう信仰」であると思う。で、その信仰は黄河文明でも、現代の日本の神道でもあんまり変わりは無い、と思うわけですが。樹木神である饕餮は日本では須佐之男・五十猛神で現され、「時間の境界の神」であるときは御歳神となるように思います。

 テレビは昨夜は「突撃WEST」の録画など、今日の昼は「逆転男子」等の録画を見ました。