ともかく、勉強しなければならないので、平凡社の「苗族民話集」を超特急で斜め読みして勉強する。そして、そこにある精神文化の中に
歪みと矛盾と苦悩
を読みとって泣ける。今日の午前中は仕事をしながら、ただただ悲しくて泣ける。彼らの上帝信仰(北斗信仰)が泣けるし、雉と鶏の扱いにも泣ける。苗族の伝承を語る時に、大渓文化ではまだ父系の王権は明確に発生していなかったであろうと思うので、上帝も存在せず、本当は「上帝信仰」という言葉は使いたくないのだけれども、縄文日本で言うところの
御しゃく様、いわゆる「ミサクチ様」
がうろうろしてることは明白なので、結局広く「上帝信仰」と書かざるを得ないのも本当は面白くないのだけれども、どうしようもない。何故私が泣けてしまうのか、それはまず「七星山」の伝承による。これは、清代に政府と苗族が対立して、苗族が反乱を起こし、結局鎮圧され苗族の衰退を招いた悲劇の歴史の一コマを描いた伝承である。清代の話だから、そんな昔の超古代の話じゃないよ? と思う。それは
七星山は高山で水が豊富であったので、そこに立て籠もった苗族は、山を政府軍に包囲されても困ることなく戦った
と、そういう話である。でも「七星山」といったら「北斗七星」を投影している山だし、北斗のひしゃく様が天水を地上にもたらしてくれる、というのが古代の人々の信仰である。余談だけれども、たぶん、諏訪の御頭祭も本来は天水の安寧を求めた祭だったのではないか、と思う。天水はありすぎても、なさすぎても困るものだからである。だから、清代の出来事を題材にした伝承だけれども、「七星山」の伝承には
ひしゃく様が天水を正しく与えて人々を守ってくれている
という、もう王権が発生する以前からの北斗信仰が根底にあって、それが清代になってもいまだ苗族の人々の中に生きていたことを示すものなのだと私は思う。だけどもう一つ「ヤマイヌと七人の娘たち」という話があって、こちらは
7匹のヤマイヌ(雄)が7人の織り姫を襲おうとするけれども、娘達に撃退される
という話である。伝承の世界では、「英雄の怪物退治」は花型的な、どこでも見られる話なのだけれども、たまにというか、割と頻繁に「女性が怪物と戦う話」もみられる。日本でもたまーに、生け贄にされた女性が自ら猿神を退治する話がみられる。あとは、須佐之男を武装して出迎えるアマテラスとか。そして、織り姫を襲って殺す無礼な者の話も各地に見られる。台湾の神話の巨人とか、日本の須佐之男とか。でも、苗族の無礼者は「7」という明確な数字を持っているからこれは、「北斗七星」の擬人化であることが分かる。北極星は、王権が発生すると「王権の星(上帝)」とされるし、須佐之男も王権の先祖としての機能を持つので、「7匹のヤマイヌあるいは須佐之男型神」というのは地域性、民族性のある神であって
中国東北部あたりに起源を持つ遊牧民
にとっては、英雄の星、征服者の星、王の星、なんだけれども、南方の長江流域では
強盗強姦魔の星、略奪者の星
になるのである。だって、実際そんなことしかやってないでしょ? と思う。ということで
先祖の少彦名命(北斗星)がやってきて原住民の盗賊達をやっつけたから、今俺たちはここに住んでるんだよ、ハッピー、ラッキー
という感じの伝承しか持ってなさそうに思える我が家なので、別に腐った先祖なんか尊重する気持ちはないわけですが、あからさまに
「北斗七星が強盗強姦魔の星」
だということを突きつけられると、衝撃はある。それは余所の自分とは関係のない世界の話ではなくて、古代の中国東北部あたりをうろついていたうちの先祖がやらかしたと思われる話だからである。しかも、その一方で「北斗七星が、人々が困っている時に助けてくれる(父なる)星である」という信仰を突きつけられたら、なんて言えばいいの? 北斗七星は、彼らにとって強盗強姦魔であるけれども、父親でもあるとなれば、せめて私が
苗族は金刺氏族の弟妹である
と言ったら、苗族の北斗信仰の中にある矛盾と苦悩は少しは癒やされるの? その原因は7千年も8千年も昔のことなのに、今も苗族の中に苦悩として残っているほど、重大な出来事なのに?? と思う。水内郡の少彦名命の脳天気な「征服神的上帝信仰」の裏には、略奪され犯された人々の苦悩が今でもあるように思う。いくら慕っても、北斗七星の神は苗族を「子供」と認めて助けてくれるような神ではない、その神には気をつけねばならない、とむしろあたくしはそのように思い、清代の苗族の苦悩を思って泣けたわけです。