21年7月10日

 本日はずっと家にいて外作業をしていました。なんだか、近所がうるさかったうえに、我が家と向かいの家の共同の私道に勝手に車を停めている人たちがいて、わざとやっているのだろう、と思うのですが、嫌がらせだし、非常に失礼だと思いました。外作業は、午後は夕立のようなけっこう激しい雨が降ったので、午前中のみ。母親は土の埋め戻し、土の清掃等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃、土掘りでした。風呂の北東は、コンクリ塊と錆びた金属が固まったようなものは掘り出せましたが、そのすぐ東側からトタンを折り重ねたものが錆びたようなものが出てきました。まだその全貌はよくわかっていません。1m四方くらいかも。

 昨日の追加ですが、長野市の槻井泉神社は「生井神の児女が教えるまま社地に生えている槻の大木の根本を掘ると、きれいな冷水が突然わき出した」ともあり、生井神をイザナギとすれば、児女とはアマテラス(=九頭竜)のことが示唆されます。日照りに効用のある神社、という点は樋知大神社との共通点でもあり、九頭竜女神と水源を祀る神社であることも示唆されます。また、葛井神社の例からも、諏訪信仰は必ずしも水源の神としての九頭竜信仰を否定しないことも明らかだと思います。

 そして、対する松本の槻井泉神社も興味深い神社です。こちらの祭神は美津波廼女命(みずはのめのみこと)、御井神(みいのかみ)、鳴雷神(なるいかづちのかみ)と言われているようです。ところが、神社の立て札には鳴雷神ではなく「諏訪御子神」とあり、説がいろいろとあるのではないか、と思います。「諏訪御子神」を素直に解釈すれば、地理的にはこれは出早雄命か武水別命が想像されます。しかし、それはともかく「鳴雷神」といったらあからさまに「黄泉の国」であって、黄泉の国の「御井神」といったら、イザナミですよねえ? となります。要は長野市の槻井泉神社が生井神という「生きた井戸の神」であり、イザナギの神社であるなら、松本の槻井泉神社は御井神という「黄泉の井戸の神」を祀っていて、なんだか陰陽の「対」になっているように感じるわけです。で、松本の槻井泉神社の隣には「御嶽神社(みたけじんじゃ、蔵王権現のこと)」の石碑が山ほど建っていて、どう見ても蔵王信仰と関係してることは明らかなわけで-;。これで槻井泉神社は塩尻にもあって、そこは八幡神を祀っていますので、3つ併せて

イザナギ(父) ー イザナミ(母) ー 八幡神(子)

というローマ式三位一体が成立して、蔵王権現の

釈迦 ー 千手観音(イザナミ) ー 弥勒

に対応していると思うわけです。3つ併せて、「延喜式外の槻井泉神社」だと思うわけですが、今ではそれぞれのつながりは意図的に? 失われています。そして、現在では長野市の方は蔵王権現とのつながりがとても希薄になって、諏訪と高野山的呪法が強くなっている気がします。

 で、松本の槻井泉神社には更に平安末期以降に加わった要素があって。この神社から湧き出る泉の水にちなんで、付近は「清水」という地名なのですが、このあたりには、義仲の死後、義高と巴御前が住んだという伝承がある、ということで。義高は槻井泉神社の湧き水を産湯に使ったので、「清水冠者」というらしくて。歴史的には、義仲が死んだ時点で、義高は人質で鎌倉におり、頼朝の長女大姫と婚約中でした。で、清水で生まれた、という伝承がある、ということは、このあたりに義仲の住まいがあって、義高はそこで生まれた、とする方が妥当だと思うわけです。巴御前はいったんは鎌倉方の捕虜になりますが、その後故郷に戻ることを許されて、再び松本に住んだのかもしれないと思います。で、義仲を支援したのは諏訪大社下社の方ですから、清水辺りが、諏訪大社と関連するとすれば、下社と関連しているのだろう、と思われます。松本城の北東からは、義高の菩提を弔ったと思われる地蔵菩薩が出土しているそうで、同じものが鎌倉で「大姫の守護仏」として出土しているそうなので、あの辺りに、義高・巴御前に関連する人々の館があたことは事実だったと思われます。でも、伝承的には槻井泉神社と義高が関連づけられていることが重要だと思うのです。義高は義仲の死後、若くして処刑されましたから、「非業の死」を遂げた人物といえます。だから、通常なら「若宮」とか「御霊」として祀るべきでは、特に湧き水と関連する場合には柳田式には「御霊」がふさわしくないのか、と思うわけですが、伝承で関連付けされているだけで、槻井泉神社に祀られているわけでもないのです。でも、「黄泉の国の水」を産湯に使って、非業の死を遂げた若者ですから、不吉なことは限りないわけで、「御霊」として祀られてなければ、それは「怨霊」というしかない気がするわけで。

御井神(イザナミ) ー 鳴雷神

の組み合わせに

巴御前 ー 義高

が重ねられて、諏訪下社関連の血を引く義高が諏訪御子神でもあり、鳴雷神でもある、とすると矛盾しない、と思うわけです。しかも、槻井泉神社のケヤキの木のうろに「大日如来」と書かれた箱が置いてあって。黄泉の国の太陽ですか? 根来寺??? ととっさに思ってしまうわけでー;。こっちはこっちで、「陽」の長野市の槻井泉神社とは対照的に、どっぷり「陰」の側の怨霊の神社??? と思ってしまうわけです。槻井泉神社の蔵王権現の呪法とは、

釈迦 ー 千手観音(イザナミ) ー 弥勒

義仲 ー 巴御前 ー 義高

を「御霊」にしないで重ねたもの、という気がするわけで。「御霊」でないものは「怨霊」というしかないよね? カテゴリーとしてはねえ? と思ってしまうわけですー;。ということは、松本の「清水地区」そのものが、例によって「黄泉の国」? と思うわけで。学生時代に、その辺りに住んでいたことがあるわけですよー。今さらながらに、ちょっとうれしくないわけで-;。槻井泉神社のすぐそばに住んでいたわけですが、行ったこともなければ、知りもしなかったわけで。槻井泉神社の入り口には境界神である道祖神がいるし、橋もかかってるわけなので。そこは「黄泉の国」としてはけっこう「深い層」と言われる気がするわけですがー;。「金枝」を持ってればそういうところにも入り込める、ってことだよねえ? 義高ならぬザグレウス・デュオニューソスの神話ではそういうことになっているはず、と思う-;。でも、槻井泉神社関聯の呪法には更にひねりが入っていて、義仲の怨霊は長野の槻井泉神社にはいないわけです。どこにいる? というか、どこにいた? となる。まあ、そのあたりにも行ったことがある気がするわけで。しかも、義高が「諏訪御子神」とすれば、義仲が「諏訪神」であるっていうのが下社の呪法だよねえ? と思う。義仲一家の「怨霊」を使って「黄泉の国」の呪いを強化している人々がいれば、それを祓おうとする人々もいる、ということで。彼らの「怨霊」はもう「いない」らしいです。なぜなら、一家を再開させて、「金枝」の力で浄化してしまったシャーマンがいるから、と言われる気がするわけで@@。木曽義仲って信濃国にとりついていた最大の「怨霊」だったんですかね? と思う。まあ、私が義仲なら、下社の関係者に言いたいことは山ほどあるだろう、とは思うわけですが-;。

 しかし、ともかく、人の世界(中つ国)は陰陽揃っていてこそ「通常」であるので、どちらかに偏っているだけの場所は好ましくない、と言われる気がするわけで。長野の槻井泉神社から、境界を越えて、松本の槻井泉神社へ行って、また境界を越えて長野の槻井泉神社に戻り、どちらも「陰陽」の揃った「人の世界の神社」にして、水系を整えるようにと言われた気がするわけで。だいたい、そういう「天啓」を受けると、時々出歩くわけですが。

 で、今日はシーマオ遺跡と、その後に出現した殷のことを調べていて。シーマオと殷の違いは、シーマオでは若い女性を生け贄に求める傾向が強く、殷では性差は無作為であって、特定の民族集団を求めていたこと。シーマオでは、生け贄の目的は主に都市の基礎であったようだけれども、殷では占いの結果いろんなことで生け贄を捧げていたこと、であると思う。また、良渚文化では祭祀を行った者が死ぬと祭壇に埋めて、死者に対して祭祀を行っていたそうで。まさに、シャーマンは死ぬと「神と一体化」する存在であったらしくて。私が思うに、シーマオで祭祀を行っていた人々は、良渚文化の末裔であり、おそらく殷の王家に「これが正しい祭祀のやり方だ」と言って、祭祀のやり方を教える、とともに、「占いの結果」と称して、「羌族を生け贄として捧げるように」とそそのかしたのではないか、と思う。殷の王家の一つがそれに乗っかって祭祀を行い、他の王家を武力や策略で圧迫して、独裁制をしいたのではないか、と思う。

 ということで、シーマオ人の思惑の通りに、羌族は殺戮されたの、だと思う。何故? 現在の羌族の生活を見るに、彼らは多神教(精霊信仰)であり、上帝(太陽神)を一番に崇拝し、シャーマンは神々や悪魔と交通する、すなわち「境界を越える」ことができる存在である。シャーマンは占いをするし、医者でもある。死者を冥界に送るのに「通行券」を発行することができる。五徳を踏んではならず、「赤い旗」は境界を意味している。要は、羌族は古い多神教(精霊信仰)の形式を知っており、それがシーマオ人の祭祀と共通する部分があり、起源でもあったのだと思う。(ということは、先祖的には近いってことだと思うけど。)シーマオ人は、「自分たちこそは正しい祭祀の仕方をしっている」と言って、殷の王家に売り込んだけど、五徳と饕餮を習合させたり、赤旗と蚩尤を習合させたり、しまいには、そういうものが上帝と同じものって言ったり、「おかしなことやり過ぎなんじゃないの?」って言われるのが嫌だから、「おかしなのはあいつら(羌族)だ」って言って殺させたのではないのですかねえ。彼らを消してしまえば、「あんたたちの祭祀は変」って指摘できる人々はいなくなるからである。というわけで、シーマオ人の子孫からは、たまにはまともな人も出たかもしれないけれども、多くは邪魔者と思ったものを、他の人に殺させる、ということが板につく人々が輩出されたのではないのか、と危惧するわけで。饕餮には器であり、五徳であり、火でもある、という意味があると思う。神々に食料を供給する神である。・・・出雲の熊野大社の祭神も食べ物の神で素戔嗚でなかったっけ? と思う。この場合は

饕餮 ー 素戔嗚 ー 伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(出雲熊野大社の祭神)

の三位一体となると思う。饕餮に「かまどの火」という意味まで含まれるなら、素戔嗚はカグツチと同じもの、ともいえるし、熊野では、火起こしの方法は素戔嗚が伝えた、とされていて、素戔嗚とカグツチが一体のものであることが示唆される。都市の基礎の犠牲になって殺された若い娘たちがいる。都市や国家の安寧のため、饕餮の口の中に若い娘を放りこむ(生き埋めにする)という祭祀もどっかにあったなー、と思う。ローマ式とは、けっこうシーマオに親和性の高い文化なのではないか、と思う。それはともかく、熊野のスサノオがカグツチと同じものとすれば、熊野大社の主祭神はカグツチなのではないか? とも思う。八咫烏を配下に使うカグツチ(饕餮)である。饕餮は太陽神の部下に過ぎなかったのに、熊野では太陽を配下に使うようになってるらしい。太陽女神の化身ともいえる若い娘を殺すのは、4300年前にはあったわけだから、饕餮(スサノオ・カグツチ)の上帝(太陽神)に対するクーデターはその頃には始まっていたわけで。羌族の人々にそれを指摘されたくなかったわけだ。そうして、シーマオ人は、邪魔者を他人に追い詰めさせては黙らせるやり方を獲得していったのだと思うわけです。

21年7月9日

 昨日は突発的に「ドサ回り」の天啓を受けたので、お出かけしました。だいたい、その前の日に消防車が大騒ぎして出たり、ジャにのちゃんねるが更新されたり、アナーヒタ女神とは沼川姫であり、九頭竜のこと、とか言われた時点でちょっと何か変化を感じていたわけで。で、水曜日にたまたま「朝陽」という所にお出かけして買物をしたときに、偶然神社を見付けたわけです。でも、あんまり余計なところには立ち寄りたくないので、家に帰って調べてみよう、と思って。そうしたら、消防車が大騒ぎする、で、神社を調べてみたら、「槻井泉神社(つきいずみじんじゃ)」ということが分かったわけで。槻(けやき)がご神木だけれども、意味としては「泉に依り付く神の神社」というように見えるわけで。で、生井神、大国主、諏訪神と、わりとメジャーな神サマが主祭神であって。境内に葉が3本纏まっている珍しい松が植えてある、とのことで。これは高野山金剛峰寺の「三鈷の松」と同じ種類の松ということで。で、更に調べていくと、松本と塩尻にも同じ名前の神社があるらしくて。塩尻の方は、八幡神が主に祀ってあって。で、「槻井泉神」とは、諏訪の葛井神社(古くは九頭井神社)の主祭神でもあって。そこにも、立派なケヤキの木があったなあ? と思う。というか、槻井泉神って「泉(湧き水)」に特化した「九頭竜」のこと? と思う。そういえば、葛井神社は池に物を投げこむと、それが遠州の池に浮かぶ、という伝承があって。それは、泉が川(この場合は天竜川)と繋がっていて、天竜川の水脈に乗って、遠州まで繋がっている、とそういうこと? 全部「九頭竜」だから? と思う。ということは、「天竜川」の「天竜」も九頭竜のことなんじゃん? と思う。

 それはともかく、裾花川・犀川流域の「竜神」と言ったら、開拓神でもあり、九頭竜女神の一形態ともいえるのは「犀竜」である。長野市の槻井泉神社には今は井戸も泉もないわけです。伝承はいくつかあるようですが、「いい伝えによると、数百日という長期間旱ばつの折り、生井大神の児女が教えるまま社地に生えている槻の大木の根本を掘ると、きれいな冷水が突然わき出し、またその辺り六か所からも清水がわき出したということです。(https://eiennouso.exblog.jp/14120318/)」という伝承が祭神である生井神とも関連付けられていて興味深いと思います。槻井泉神社のすぐ近くに六ヶ郷用水が流れているので、伝承は若干「六ヶ郷用水」の起源に寄せている気がします。でも、用水があれば干ばつのときに泉は必要ありませんから、「霊的な泉が湧いた」という伝承は用水ができる前、平安初期以前まで遡るわけで、一番最初は九頭竜女神の泉であった、としても不思議ではないと思います。そこに諏訪信仰と生井神がやっていたわけで、この場合の生井神は生玉神と同じで、須々岐水神社の構成と同じだと思います。で、神社の名前は元は、「金峰山社」といったらしいです。これは要するに吉野山の蔵王権現のことである。蔵王権現だから、大国主が祀ってあるんだなあ、と思います。でも、蔵王信仰を覗わせる社伝がないわけだ。(蔵王信仰そのものは釈迦、十一面観音、弥勒菩薩をローマ式に三位一体にしたミトラス教あるいはローマ教会崩れだと思うわけですが。)そして、異界との境界であり、主役であるはずの泉もすでになく、代わりに空海上人が「聖と俗の境界の松」とした松が代わりに植えられているわけで。要は、その松が「境界の泉」の形代ですねえ? と思う。そして、地名は朝陽、井戸の神でも特別に井戸を生かす生井神が祀られている、ということで。「陽」というものを感じる神社だし、聖なる松が邪気を祓ってる気がするわけで。九頭竜女神の聖なる泉が変遷した姿としては美しいと思う。

 そして、高野山では「現在では参詣者の方々が、縁起物として松の葉の落ち葉を持ち帰り、お守りとして大切にされています。(https://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html)」とのことであって。要は人々を守って浄土へと誘ってくれる松の落ち葉といえる。要は、この松が空海上人が定めたフレイザーの言うところの「金枝」なのだなあ、と思うわけです。金枝を持つ者は生きたまま黄泉の国へ行って、帰ってこれるという。ということで、高野山の参詣者に倣って、松の落ち葉を数本頂くことにして。そして、ちょこっと旅に出たわけです。いわゆる「黄泉の国」へ。

 で、最新の結果としては、帰って来てから、某町史をひもといて、神社の祭神を再度調べるように、と言われる気がするわけで。要は、信州新町ってカグツチを祀っている神社が多いわけです。そりゃ、山火事とか怖いけどさあ? なんでカグツチばっかり? と思う。そうしたら、イザナミは「黄泉の国のアマテラス(キュベレー)」も同然だけれども、カグツチを生んで亡くなって、黄泉の国で多くの雷神を生んだのだから、黄泉の雷神の父親は、イザナギではなくてカグツチなんじゃないの? と言われる気がするわけで@@。しかも、カグツチは剣の神である建御雷神の父親の火の神なんだから、鍛冶神だよね? と言われる気がするわけで@@。ということは、あの田舎サマでは、

カグツチ、アマテラス(黄泉のアマテラス)、建御雷神

が三位一体で、カグツチを先祖だって言ってる連中が威張ってるってこと? と思う@@。中国では鉄の武器の発明者は伏羲、青銅の武器の発明者は蚩尤と言われている。要するに、「武器を作って売って、人を殺せ」という神サマと、その子孫ってことですかねえ? 要するに、そうやって大騒ぎするのが饕餮の役目ってこと? と思う。この三神は西欧風にいえば

プタハ(プルートー) セクメト ネフェルトゥム

とか

ハーデース ペルセポネー ディオニューソス

に近い三位一体ですよねえ? と思う。他人を殺して略奪し、支配せよ、という神サマの一家ですか? よくよくろくでもない方の落ち着くべき所に落ち着いてないかい? と思う-;。中国式には

伏羲 女か 蚩尤(饕餮)

とでも言うべき三位一体な気がするわけで。カグツチを祖神と言うの? でも、ローマ式にはカグツチはイザナギと同じものですよねえ? と思う。武器を牛耳って、「次にどこそこの誰を殺せ」と占うのがシャーマンの役目で、それが伏羲でありカグツチであり、イザナギでもあるの? と思う。ということで、雷神は武器を与えられて、「殺す」のが仕事なの? となる。西欧の人々が崇めていた「雷神」の「主神」は、その上からは、下っ端の鉄砲玉扱いでしかないの? と思う。

 というわけで、ちょっと調べ物をしていたら、中国にシーマオ遺跡という4000年前の遺跡があることを知る。黄河流域にあって、巨大な城塞都市の遺構であるという。殷に先立つこと500年も古い遺跡であって、古い部分は紀元前2300年くらいであるらしい。で、遺跡からはヒスイが出て来る、ということで太陽信仰があったことがうかがえる。それから、都市の基礎に若い娘の頭骨がたくさん埋まっていたということで、生贄があったことが示唆されている。しかも、日本の「早乙女」ではないけれども、若い娘を狙い撃ちする文化がすでに出現していることも分かる。それに女子を狙い撃ちしているということは、男尊女卑の出現でもある。そして、都市の壁には、おなじみの「首だけの饕餮」がすでに刻まれていて、軽く衝撃を受ける。饕餮は、4300年も前から、太陽神(伏羲)の言いなりになって、「殺せ」と叫ばされ続けてきたの? と思う。

 どうも、私が思うに、その人々は、良渚文化が衰退して王の地位を失った後は、特定の国の王になる、というよりは「神官」的な地位について、「正しい祭祀を教える」という点と「武器の供給」と「おクスリの供給」という三位一体の総合商社を展開して、「征服と支配」に励んできたのではあるまいか。祭祀の内には当然「穀物の豊穣」とかも入るわけで。独裁制を煽るのは、操る人間が少なくて済むからだと思う。

 ということで、おとといは杉の木の兄さんのお誕生日だったのでした。おめでとうございます<(_ _)>。

 それから、ペットのPちゃんに、「金枝の松」のことをさして「真言の真の呪法はすっきりしていて美しくてわかりやすいでしょう?」と言われる気がするわけで。なんだか、あの松のことはPちゃんがよく知っている気がします。

21年7月7日

 本日は出かける用事があったので出かけて。石を轟商会に出して、郵便局に行って、買物をして帰ってきました。雨が降らなかったので、家にいる間はずっと外作業ができました。

 外作業は母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け、私は土掘り、土の清掃でした。昼頃、近所を消防車がサイレンを鳴らして走り回って、なんだかどこかで「火災報知器が作動したけれども火事ではありません」というようなことをアナウンスして走り去って行きました。

 テレビは、昨夜は「火曜サプライズ」を見て。今日の昼は「ブンブブーン」の録画を見ました。

 古代エジプトのオシリスは「天から墜落した神」の変形版であって、その男根ではなく、オシリスそのものが植物(小麦)とも考えられていました。エジプトの対岸のアナトリア半島には、更に奇怪な神話が残されました。フリギアには、アグディスティスという神がおり、彼女?は「天から墜落した」ゼウスの精液から生まれた、とされていて、両性具有の神でした。そういう天ではアプロディーテと似通った「生まれ」といえますが、最初から完全な女神ではなく、元は男性(男根)であった痕跡が残されました。(子音から述べればアプロディーテの方がアグディスティスをギリシャ的に洗練させ、進化させた女神、といえるかもしれません。元は同じ女神であったと思われます。)神々は、アグディスティスの奇怪な姿を恐れて、彼女?の男根を切り落としました。そうしたら、男根からはアッティスという下位の男神が生まれました。アッティスはキュベレーの愛人でしたが、他の女と結婚しようとしたために、キュベレーによって狂気に落とされ、自らの男根を去勢して死にました。そして、キュベレーの魔力で松に化生しました。ちなみに、ギリシャでは、アプロディーテの若い愛人はアドーニスといい、死してアネモネの花に化生しました。アッティスやアドニースは死して植物に化生しますし、天の神、ともいえませんから、蚩尤が変化したものといえます。母親のアグディスティスは男根を去勢して「女神」になっただけですから、オシリスと同様、蚩尤の変化形といえます。アグディスティスの父親のゼウスは、墜落した精液(男根の変化形)の本体である「天の神」ですから、ゼウスは饕餮の変化形といえます。一方で大地(死んだ者)から生まれた女神が、更に大地(男根でもあり死んだ者でもあるもの)から息子を得る、というのはナルト叙事詩のサタナとソスランの関係も彷彿とさせます。ソスランは最期は男根ではなく、膝を切られて命を落とすことになり、特定の弱点を犯されて殺される英雄の「弱点」とは「男根」が変化したものであることが分かります。すなわち、ギリシャ神話のアキレスや、ニーベルンゲンのジークフリート等です。

 特にニーベルンゲンのジークフリートは二人の女性のさや当てでジークフリートが亡くなる物語ですから、ジークフリートの妻クリームヒルトがアプロディーテ、元カノのブリュンヒルドがペルセポネー・キュベレー、ブリュンヒルドの夫グンテルがゼウス、ハゲネがハーデス・プルートー等、アプロディーテとアドーニスのギリシャ神話を元にして作られた物語であることが示唆されます。クリームヒルトがジークフリートの死に対する復讐として利用した二番目の夫アッチラとその息子も、アッティスの別の形、といえます。で、物語の最期には主要な登場人物のほとんどが死んでしまいます。どうも、アッティス、アキレウス、アドニース、ニーベルンゲンと、時代が下るにつれて「誰も彼もが死んでしまう」傾向が強くなるように思います。西欧の神話としては古い方のメソポタミアの神話では、タンムーズの死は植物(小麦)の枯死と再生に関連付けられており、最初に冥界に下ったイナンナ女神を再生させるための生贄がタンムーズである、と彼の死の意味と目的はかなり明確でしたし、小麦を食べるその多大勢の人の利益に沿った死である、と言えます。そしてタンムーズ以外の神々は軽々しく死んだりしません。でも、ニーベルンゲンのジークフリートになると、登場人物は個人的な私怨のレベルでどんどん死んで、結局その死は誰の利益にもならないような結末です。言外に彼らの財産を手に入れた者がいれば、それはその人の利益にはなった、と言えるかも知れませんが、「公共性」という点ではタンムーズの神話よりも、中世の伝承の方がより劣っているわけです。そして、ニーベルンゲンには日本の神話との共通点もあります。日本の神話も、初期の主要な神々が次々と理由も曖昧なまま亡くなっているのです。造化三神は姿を隠し、イザナミは焼け死に、イザナギも幽宮に隠遁し、アマテラスは洞窟に隠れ、須佐之男は根の国に住みます。しかも「地上」=「冥界」ということになれば、天孫降臨した神々も次々と死んだことになりますし、その一つ一つが「蚩尤の天からの転落」に対応しているといえます。だいたい、アマテラス、月読、須佐之男はイザナギから枝分れした神々といえますから、イザナギの一部が取れてしまった「死んだ臓物」のようなもので、これまた「饕餮から切りおとされた蚩尤」に対応すると思われます。要は、「饕餮(=上帝)から切りおとされた者は全て死んだ者」で、「饕餮は死んだ先祖」ということになれば、生きている者は、饕餮の子孫のシャーマンただ一人、ともいえます。後は、みんな死んだ蚩尤に関連する者(庶民とか奴隷)だから、死んで蚩尤と一体化して穀物になって食べられるだけ、みたいになります。というわけで、「饕餮」と「饕餮から切りおとされた者(主には男根)」の関係は神話的には

1.兄と弟的関係(ヴァルナーミトラ、ゼウスーハーデース)
1-1.人間の兄と弟(のような)関係(ギルガメシュとエンキドゥ、ロームルスとレムス等:片方の立場の弱い方が死ぬことが多い)
2.父神と息子神の関係(ゼウスーヘルメース等)
3.父神と人間の息子の関係(ゼウスーヘラクレース等、息子は非業の死を遂げることが多い)
3-1.人間の父と息子の関係(ロスタムとソフラーブ等)
4.父神と娘神の関係(ゼウスーキュベレー、ゼウスーペルセポネー等)
5.父神と母神の関係(ディヤウスとプリテヴィー、イザナギとイザナミ)
6.母神と息子神の関係(キュベレーとアッティス、イザナミと須佐之男等:この場合はどちらも「切りおとされた神」)
7.天の女神と地の男神(イシスとオシリス:これはごく一部の例外です)

と枝分れして行きました。というか、蚩尤は本来は男ですから、各地の神話の女神のほとんどはキュベレーのように、男神をご都合主義に女神に書き換えたものといえます。特に「黄泉の女神」はだいたいそんなんだと思う。

 でもって、話は変わりますが、出雲神話のうち、大国主とスクナビコナはヴァルナとミトラに相当する、と思うわけです。でも、大国主の正妻の須勢理姫は黄泉の女神というか、良くても「境界神」という感じであって、それをアナーヒタとして良いのか否か? と思ってたわけです。そうしたら、本来の「太陽女神」は「天の太陽」でもあるけれども、昔の人は空は水の塊で、雨はそこから降ってくると考えていたし、太陽が人々に水を夜の間にもたらしてくれる、と考えていました。だから、太陽女神は水源の女神でもあったわけです。アナーヒタ女神は水源の女神だから、性質は弱くなってますけれども、太陽女神でもあるのです。信越地方の水源と川の女神は九頭竜です。糸魚川にある能生白山神社は、尾山がご神体でこれは「尾山(権現山)は長野県長野市戸隠に九頭竜神社に祭られている九頭竜の「尾先」だったとの伝説があり、胴体に当たる関山神社(新潟県妙高市)には胴中権現、能生白山神社には尾先権現がそれぞれ祭られたとも云われています。」とのことです。要は姫川の女神は九頭竜でもあるので、奴奈川姫とは九頭竜のことでもあり、水源の女神だから太陽女神でもあり、アナーヒタのことです。」と言われる気がするわけで@@。「んじゃ、須勢理姫は?」と尋ねたら、「ヒッタイトの神話で「大地の太陽女神」もヘバトとは別にいた、ってあるでしょ。これの代表的なものはキュベレーです。だから、須勢理姫はキュベレー、奴奈川姫はヘバトで、大国主は太陽女神を妻にしてるテシュブ、諏訪神はテシュブとヘバトの息子神であるシャッルマのこと。」と言われる気がするわけで@@。)」とのことです。要は姫川の女神は九頭竜でもあるので、奴奈川姫とは九頭竜のことでもあり、水源の女神だから太陽女神でもあり、アナーヒタのことです。」と言われる気がするわけで@@。「んじゃ、須勢理姫は?」と尋ねたら、「ヒッタイトの神話で「大地の太陽女神」もヘバトとは別にいた、ってあるでしょ。これの代表的なものはキュベレーです。だから、須勢理姫はキュベレー、奴奈川姫はヘバトで、大国主は太陽女神を妻にしてるテシュブ、諏訪神はテシュブとヘバトの息子神であるシャッルマのこと。」と言われる気がするわけで@@。

 でも、「境界神」である八坂刀売を太陽女神とした場合には、諏訪神がテシュブ、出早雄命がシャッルマということになりますよねえ? と思う。戸隠、聖高原、熊野が「黄泉の国」にされてしまうのは、そこに水源や川があるからで、水源や川の女神を「死んだ太陽女神」に変えてしまうためにやってるんだ? と思う。要は、「太陽女神」を蚩尤関連の死んだ神にしてしまえ、という呪いらしいです。ヘバトは元々は、生きている神だし、饕餮が食事を運ぶ相手だから、本当は「上帝」の立場にあるはず、と思うわけですが。

21年7月7日

 本日は出かける用事がなくて、外作業に専念しました。夕方は雨っぽくて作業ができませんでした。母は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土掘り、土の清掃でした。

 昨夜はまっすーがゲストの「まる見え」を見て。テレビは今日の昼は「それSnowManにやらせてください」の録画を見ました。「News Zero」はうまく録画されていませんでした。

 昼寝していたら夢を見て。なんだかHi Hi Jetsの髙橋君とか、美少年の浮所君が我が家に居候する、という夢を見て。でも、彼らの住む部屋がないので、髙橋君に何故かトイレが割り振られる、という夢で-;。これは急いでリフォームして、彼らの部屋を作らなきゃー、という夢でした。目が覚めて、これは「トイレの下を綺麗にして、かつ基礎下の空隙もしっかり始末しろ」ということなんだろうな、と思いました。

 さて、「オルペウス教」の続きです。でも中国の神話です。殺された蚩尤の血は楓の色となった、とされていますから、蚩尤が大地に変化して、その血が植物に化生した、という考え方は古くからあったはず、と思います。こうして「神」とされていた存在が殺されて、「天に生贄を運ぶ饕餮」と「大地に埋められて大地となった蚩尤」の2つに分けられると、「生贄」の概念も二つに分かれることになったと思います。一つは大地に植物(収穫)の抱擁を求めるための生贄で、むしろこの方が古くからの「犠牲」の概念であったと思います。殺された生贄は蚩尤と一体となって、なにがしかの植物に化生すると考えられたのかもしれません。または、植物に変化するのではなくて「生まれ変わる」と考えれば、蚩尤(大地)を通して新たな命に生まれ変わった、とも言えます。これは季節の変化に合わせた生贄の儀式と言えますから、定期的な生贄であって、再現なく生贄を捧げる必要性はないといえます。

 もう一種類の「生贄」は、王(シャーマン)が神々と交信するために捧げる「餌」としての生贄です。これはシャーマンの祭祀が不定期かつ数が多いほど、生贄は再現なく必要となる、といえます。また、生贄の数を多くすれば多くするほど神の力は強くなる、とかシャーマンは神に近い存在になる、とか「犠牲者の数」=「シャーマンの権威」という結びつけが強くなります。シャーマンの権威が強くなればなるほど、犠牲者の数は膨大になり、犠牲の数が増えれば増えるほど、それがシャーマンとシャーマンの先祖の神の偉大性を示すことになります。具体的に言えば、殷王朝は、最初は自然神を祀るような普通の収穫などに関する祭祀を王がやっていたはずが、時代が下るにつれて、神々と交信する(占いをする)ために、饕餮に食わせるための生贄を大量に必要とするようになり、大量に人間に生贄を捧げるようになりました。神の力を強くするのに必要なのが「魂」であったとするのであれば、生贄の魂は神に食われて神になってしまい、個としての魂はなくなってしまう、と考えられていたのかもしれません。こうして

王・貴族・英雄 → 死後は天界で個々に神々の仲間となる 兼 魂の一部?は上帝と習合
庶民      → 死後は土に戻って蚩尤と習合する。植物や動物に化生する(生まれかわる)者もある?
奴隷・生贄   → 天の神に対する生贄は、魂は神々に食われて消失(習合)する。個は神として残らない。
          儀式で蚩尤に捧げられた生贄は主に穀物、野菜に生まれかわって、人々に食べられる。

という3種類の「来世」が人々の身分や働きによって考え出されたのだと思います。おそらく、当初は庶民の魂は、蚩尤の治める国に行って、幽霊となる、というか幽霊のように生きる、とされたのだと思います。でも、時代が下ると色々なものに「生まれ変わる」という思想が強くなっていったのだと思います。でも、植物とか動物とか、つまらないものに生まれ変わって他人に食べられちゃったらつまらないじゃん? となる。ということは、「生まれ変わる」という思想が強くなることは、庶民が奴隷や生贄に近い立場になって、他人に利用される立場に近くなり、身分階層が誰かを利用する側と、利用される側に2極化してきた証拠のようにも思えます。庶民は蚩尤の治める国へ行って、死後休息することすらも許されなくなり、何か別のものに生まれ変わって、他人に利用されるのです。なんで、時代が下ると「生まれ変わる」思想が強くなるといえるのでしょう? それは、「宗教の歴史」が事実としてそうなってるからです。でも、この場合の「生まれ変わり」というのはいい意味で使われているのではない、ということは分かると思います。庶民が奴隷化して、何か他人の役に立つものに生まれ変わる、とされるようになればなるほど、政治は「独裁制」の色合いが濃くなり、庶民は生きてても死んでも権力者の役に立つ道具、と定義されてしまうのです。

 古代中国の宗教的思想は、周辺の異民族へ波及して、だいたいモンゴル高原からシベリアにかけて住んでいたスキタイの人々にもかなり速やかに伝わったと思われます。スキタイの人々は祭祀に様々な薬物を用いていたと思われますので、なにがしかの薬物と一緒に「これが正しい祭祀だ」って言って祭祀のやり方や「神」の概念を教えれば、あっという間に受け入れられたのではないか、と思います。神を信じる、というよりはクスリが欲しいから、という理由で。そして、「布教」するには、神サマのありがたさを説くよりはおクスリを配った方が、受け入れられやすかったのではないかと思うのです。そして、彼らの本来の信仰は、天の神と地の神を中心にした自然の精霊信仰だったと思われます。そこに殷式の「布教」が行われると、神々の方はご都合主義に、スキタイの信仰に合わせて書き換えられました。

天の神 = 上帝

と習合され、饕餮は天の神の部下にされました。最初の頃はそうだったと思います。印欧語族の中でも古いヒッタイト(フルリ人)の神話では、神々の父であるアヌは天神アラルの部下とされているからです。

 一方、

地の神 = 蚩尤

とされました。饕餮と蚩尤は、元は一つの神(おそらく地上におけるシャーマン)だったのですが、首を切られて死んで、「天」に属する饕餮となりました。シャーマンは死ぬと「天」に昇って、一部は上帝と一になる存在と考えられていましたが、首を切られたので天には「頭」だけが残って、体は大地に墜落した、と考えられたのだと思います。そこで困ったことが起きました。だいたい人は首を切られたら死にます。だから、饕餮も蚩尤も「死んだ神」といえます。古代中国式には祖先信仰とか鬼神信仰といえるものになりますが、饕餮や蚩尤はスキタイの人々に取っては先祖とはいえません。しかも、自然の生きた精霊神と彼らは交流してきたはずなのに、そこに死人を習合されたら、神は生きてるのか、死んでるのか、精霊神が死んでしまったら世界はどうなるのか、と色々不都合な問題が出て来ます。そこで、つじつまを合わせるために、饕餮と蚩尤はスキタイでは「死んでいない」ことになりました。そして、切りおとされたのは頭は頭でも「亀頭」、すなわち男根の方とされたのだと思います。男根を切り落とされても、まあそれでは人は死にません。フルリ人の神話では、アヌは息子のクマルビに性器を切られて王座を追われました。ギリシャ神話のウーラノスは息子のクロノスに性器を切りおとされました。子音からウーラノスと同起源と思われるヴァルナの祭祀者は古い時代には女性のようになよやかな人だった、とどこかで読んだ記憶があります。これは去勢された男性を示していたのではないでしょうか。

 切りおとされた「蚩尤(男根)」の方はいくつかの形に複雑に分岐しました。一つには「月」と考えられて、天に現れたり、隠れたりする存在と考えられました。ヒッタイトの神話には、月が地上に墜落するエピソードがあります。メソポタミアの月神シンは「大地の神」としても祀られていたとのことです。シンあるいはシンの男根が大地だったのではないでしょうか。

 また一つには、墜落した男根あるいは男根が変化した岩から、新たな神あるいは英雄が生まれた、という形に変化しました。ヒッタイトの神話のウルリクンミという岩の化け物は、クマルビと岩の間から生まれました。注意しなければいけないのは、岩が「女性」として扱われていることだと思います。「蚩尤(男根)」は、かなり早い時期に「女性」へと変えられたのだと思います。そして、

天の神 = 父 = 男性(饕餮も男性)
地の神 = 母 = 女性(蚩尤は本来は男性)

と纏められて、天の父神と大地の母神から神々が生まれた、という神話ができたと思われます。でも、ここまでちゃんと纏められたのは、紀元前1200年前後くらいだと思うのです。他に岩から生まれた、とされる神にミトラスやナルト叙事詩のソスランがいます。ソスランはサタナの息子ともいえ、サタナは死んだ母親から生まれた魔女ですから、天の父神・ワステルジュ、大地の母神サタナ(母はゼラセ)、サタナ(岩)の子神ソスランと、神々の関係が複雑に広がり、半神半人の神々の数が、時代が下るにつれて増えていったことが示唆されます。またナルト叙事詩の世界は男系なのですが、サタナは実の兄と結婚しており、かつて「母系の女神」にあった性質の片鱗が残されています。そういう天ではサタナはギリシャ神話のレアーに近い女神ともいえます。更に「母系」の性質を残す女神はインドの神話におり、ヴァルナやミスラといったアーデティーヤ神群の神々は女神アーディティーヤから生まれていますが、父親ははっきしりない、と感じます。ヴァルナとミスラは一対の神ですから、

ヴァルナ = 天の神 = 饕餮
ミスラ  = 地の神 = 蚩尤

と置き換えられたのだと思います。時代が下ってゾロアスター教時代になっても、神々の地位は

ヴァルナ > ミスラ

であって、ミスラは地上の人々の生活に関わり、軍神とか救世主的な存在とみなされるようになったと思われます。ミスラが地上の人々に関わるのは、彼が「天から地上に墜落した神」だったからだと思います。また海に落ちたウーラノスの男根から女神アプロディーテが生まれました。だから、天から墜落した神である蚩尤を印欧語族的に焼き直した神(時には月の神)は、最初は男性形(男根のみの存在)だったのが、時代が下るにつれて女性へと変化し、「地母神」になりましたし、月の神も女神へと変化したのだと思います。その方が

大地に生えた植物(大地への生贄が転生したもの) = 天の神と地の神の子供

として理解しやすかったこともあると思います。植物が男(男根)から生まれたものだとすると、男神と男神から子供が生まれることになって、いかにも自然ではなくなるからです。そして、饕餮と蚩尤の奇怪な神話が各地に広まると、饕餮と蚩尤は元は同じ「一つのもの」だったわけですから、だんだん「天の神」と「地の神」の区別が曖昧になって、独自の形に変化するようになっていった、と考えます。古代エジプトの神オシリスは、死後冥界の王となりましたが、死後は男根がみつからず「去勢者」でした。天界に昇ることはありませんでした。

21年7月5日

 本日は親の病院日であって、私もついでに健康診断を受けてきました。去年の健康診断以来、健康管理にも一応気を遣って体重もそれなりに落としたのですが、今年の結果はどうでしょうか。

 テレビは今日の昼は「THE MUSIC DAY」の録画その他をちょこちょこと見ました。昨夜はYouTubeを見て見ました。天気図や天気予報を好きな時に見れるのはちょっと便利だと思います。

 さて、「オルペウス教」です。日本の古代の神話からはちょっと離れます。むしろ「現代の神話」かも、と思います。宗教と「死後の世界観」は大きく結びついています。よくよく古い、単純な精霊信仰の時代に人々が死後の世界のことをどう考えていたのかはよく分かりません。その頃は、精霊と交流して、現世での利益を求めることが大切であって、死後の世界のことはあんまりあれこれ想像とか創造する気持ちがなかったのかも、と思います。

 古代中国の殷あたりでは、天に「上帝」という神がいて(後の天帝)神々の頂点に君臨し、王家の祖霊は死後天に昇って、上帝に仕える、とされていたようです。下々の庶民の祖神がどうなることになっていたのかは分からないです。もっと身分の低い戦争捕虜とかは生贄に捧げられたりしていましたから、その霊は祖霊の餌とか、アクセサリーにでもなる、と考えられていたのかもしれませんが、それも分かりません。だから王は死後、天に昇って上帝に仕える者となる予定の人で、生きている時は天界と人界を行ったり来たりできるシャーマンである、と考えられていたのかもしれません。こういう考え方は良渚文化(紀元前3500~2500年頃)に萌芽していた可能性があると思います。この場合、身分の序列は上から

上帝 ー 王家の祖神(霊) ー 王(シャーマン) ー 貴族 ー 庶民  ー 異民族・奴隷

と考えられていたのかもしれません。王は、天上世界と意思疎通できるとされるシャーマンですから、「上帝の命令に従って」部下や人々を統治しましたし、異民族を征服したり、生贄を捧げたりしたのだと思います。

 殷の占いに関する資料を見ると、最初はこのような精神・宗教世界だった殷は、時代が下ると、次第に上帝ではなく、祖神に直接占いの伺いを立てるようになり、上帝に代わって祖神が返答を与えるような形式になっていったそうです。上辺では祖神が上帝に取って代わったように見えます。でも、きっと当時の人々はそう考えていたのではなくて、祖神と上帝が一体化して「同じ物」となったと考えたのではないでしょうか。「父と子は同じものである」という思想の一番最初は「上帝とそれに仕える祖神は同じものである」というところから出発したのではないか、と思います。先祖は一人一人、年齢を重ねて寿命が尽きれば亡くなっていきますから、「上帝と同じものになる」先祖は父から子、子から孫へとどんどん増えていくことになります。死ねば、みんな同じ「上帝」になります。そうやって、王、それから王族は死ねば上帝と一になる。貴族は優れた働きをすれば、死後天に封じられて神と一になる。あるいは貴族以下でも、王の供をして殉死すれば上帝と一になれたかもしれません。そして、生贄は上帝の「餌」ともいえますから、生贄に捧げられた者も、上帝と一になるとされたかもしれません。というか、奴隷なんて生贄にされて、上帝と一になれた方が幸せかも? だって、奴隷のまま働かされて死んでも、神々のいる天上界に昇天できる身分ではないし。と、次第に考えられるようになったかもしれないと思います。そうすると、奴隷を生贄にしてあげることは逆に奴隷が上帝と一になるために必要な儀式、ということになりますから、生贄に対して良心が咎めたりすることはなく、どんどん生贄を捧げるようになるのではないでしょうか。

 ところで、上帝とは「天の神」であり、地上においてはシャーマンであった、とします。でも、上帝が、というかシャーマンが殺されてしまったとします。シャーマンは頭だけの饕餮と、胴体だけの蚩尤に分けられました。人々に「お告げ」を告げる頭の方は、天に昇って上帝の部下となりました。人々の捧げ物を上帝に運ぶのが彼の役割です。でも、時代が下ると饕餮は上帝と同じものになって、捧げ物を自分でガツガツ食べるようになりました。胴体だけの蚩尤は大地に埋められましたので、大地と一になりました。死後、天下に昇るだけの身分とか実力のない人は、普通に地面に埋められて、肉体は蚩尤と一になることになりました。魂はどうなったのか? そもそも魂という概念があったのかも、私には良く分からないわけですが。こうして、まず死後に「天に昇れる人」と、「そうではない人」に別れることになりました。蚩尤の方は、人々の死体を飲み込むだけでなく、植物を「生きたもの」として、そこからは新しい命(植物)が生えてくることになりました。