21年8月6日

 本日の作業は、母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃、土掘りでした。

 色々な神社巡りをして、母親が「戸隠の一の鳥居をくぐっていないけど、いいのか。」と気がついたので、さくっと戸隠に行ってきました。一の鳥居は、母親が若い頃にはあったらしいのですが、老朽化して昭和60年頃に取り壊したらしくて。今は跡地に礎石等が残っていただけでした。鳥居の跡をくぐって、その後宝光社、火之御子社、中社をお参りして、奥社は鳥居まで行って帰ってきました。行くときに浅川から車で上って行ったのですが、私はあまりスピードを出さないので、だいたい後ろの車に追いつかれて、煽られっぽくなることが多いので、よけられるところでよけて、後続の車を先に行かせてしまうわけです。平地であおられるのも嫌ですけれども、山道であおられるのはもっと嫌なので。そうしていたら、今日は後ろから追い越したと思ったらUターンして帰って行く車とか、よけたら追い越して行った、と思ったら少し前で止まってしまった車とかがいて。止まってしまった車は何か停める用があるのかと思って、仕方なくこちらが追い越したら、そのまま後ろについてきて、宝光社の駐車場までぴったりついて来たりとか。中社では、参拝して拝殿から階段を降りようとしたら、すれ違って上ってきてた人達がこれみよがしに咳払いしたりとか。久しぶりに変なストーカーっぽいことにけっこう出会って。で、原因は何だろうなー、と思う。

 それとは別に、宝光社に参拝したらふと参道の脇に「秋葉三尺坊大権現」がどうの、と書いてあるのが目に入って。今まで何度か戸隠には来ているわけですが、初めて気がついたー、と思う。「秋葉神社というのは本山が静岡の方だかにあったんじゃなかったっけ?」と思いましたが、カグツチが祭神の秋葉系の神社には、基本的に触らないようにしているので、あまり詳しく知らなくて。家に帰ってから調べてみました。そうしたら、戸隠の宝光社の社家の家の人が蔵王権現とか比叡山とか全国各地で修行して、「火防の術」を会得して静岡の秋葉山に秋葉神社を開いたのが秋葉系の神社の始めだ、という伝承があるそうで。秋葉神社というのは神仏習合の寺社で、江戸時代まではこの「三尺棒」を祭神として祀っていたそうです。で、明治になって廃仏毀釈になった時に、伝承に従ってカグツチを祭神にしたそうな。だから、秋葉系の神社の本山は静岡にあるけれども、開祖というか祀られていた人は戸隠の社家の人だった、ということで。「そうだったんだー」と思う。ということは、三尺坊はカグツチと習合して「同じ存在」とみなされている、というか「カグツチのもつ神霊の術」を会得してカグツチの恩寵を得ている人、というかそういう扱いなのだ、と思います。火雷系の神社では火雷神とカグツチを同一視する向きがあり、併せて考えると、三尺坊は火雷神の恩寵を受けた人、ともいえます。ということは三尺坊に対する信仰は、火雷神に対する信仰ともいえますし、これは皆神山の侍従大神にもいえることだと思います。・・・要するに、どちらも修験道的に変化しているけれども、賀茂の雷神信仰といえる気がします。戸隠の社家にも鴨々しい賀茂の影が・・・と思う-;。こういうことを私に知られたくなかったのかなー、と思います。

 というか、今まで何で気がつかなかったんだろう? それこそ、何かの術?? と思ったのでした。

21年8月5日

 本日は一日作業をしました。母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃、土掘りでした。どうも、トイレの北西の水道管の下に木の板だか枝だかが埋まっていて、もう9割9分腐っているので大きさははっきりしないのですが、堅い節だけが数個残って埋まっていました。ここのところ毎日暑くて、今日は長野市が「熱中症に注意してください」と放送を流していました。

 今日も皆神神社のことをちょこちょこと調べていて。1月4日に「袮古於呂志(ねこおろし)神事」、12月23日に「袮古麻久里(ねこまくり)神事」という珍しい神事があるそうです。袮古(ねこ)というのは、寝茣(ねこ、寝ゴザ)のことで、これをお餅で作って、神サマに捧げるということらしくて。(他にヌルデの木で農具も作って捧げるらしいのですが)お正月に寝茣に神サマを降ろして、年末に神サマを上げる(お返しする)ということで、農業の豊穣を祈る神事なのかなあ、と思います。熊野出速神社という名前ですが、熊野の神々の内、スサノオがいなくて出早雄命がいますので、この場合は出早雄命は名前だけ残されて、事実上はスサノオ(あるいは金山彦あるいはカグツチ)と同じもの、ということなのだと思います。ただ、お餅が寝ゴザって?? とちょっとだけ思います。降ろす神サマはねずみ大明神だったりして? とちょっと思ったりして-;。

 あと、皆神山のあるあたりは、山を越えると上田、ということで文化的には上田に近いのかなあ、と思います。昔は川が境界であって、橋のない時代に「川を渡る」というのはすごく大変なことでもあって、距離的には長野市街地に近くても、昔は上田の方が行きやすかったのかなあ、と思います。侍従大神も佐久の人ですし。

 あとは、弥勒菩薩が祀られていて、スクナビコナがいて、国常立尊がいるところは、蔵王的でもあって、昭和に至るまで、蔵王権現を潜り込ませようというか、そういう気配があったのかなあ、と思ってしまいます。侍従大神も、実家が滅亡して生き残ったお坊さん、といえますので、暗に釈迦如来をなぞらえて意識しているようにも見えますし、神道的には「常ならぬ人」ということで「怨霊」も連想させます。古人大兄皇子もそうですし、コノハナサクヤヒメは「不死の神(=死んでいる神)」ですし、古墳に天照大神ですし、なんというか、わざわざ「怨霊」を集めて祀っているように見えなくもないと思います。

 ・・・どうせだったら、「人類に危機が訪れた時には、弥勒菩薩が猫形の宇宙人に化生して、UFOに乗って降臨して人類を救う」とかって言えば、シュールさも増したかも? とか思ってしまうわけで-;。UFOブームも、日ユ同祖論も流行としてはちょっと旬が過ぎてるかもしれないなー、とか思ったわけですが-;。今はちょうど降臨のチャンスかもー、とか思ってしまったのでした-;。

 元は水上山と言ったとの伝承もあるようですので、諏訪系の人々が開拓して、山頂に出早雄命と水上大神を祀った水源の山であっただろう、とすると、諏訪系の信仰らしくてすっきりした形になると思うのですが。

 というか、侍従大神は「火除けの神」ともされていますので、火雷神(カグツチ、死んだ雷神)も連想させます。農業の豊穣に雷神を降ろす、という思想からも、雷神信仰が窺える神社だと思います。

21年8月4日

 昨日は色々とあって、佐久の荒船山周辺へ出かけて。荒船山は佐久と群馬県との県境にあるので、群馬の側の里宮まで遠征して、下仁田から高速に入って帰ってきました。コロナ騒ぎで県境を越えるのはちょっとひんしゅくを買うかしら? と内心少し思いましたが、横川のパーキングエリアに入ったら、熊谷とか、習志野とか、川崎とか、山口・・・山口って何県!? という感じで各地の車が勢揃いしていたので、長野ナンバーで引け目を感じることはありませんでしたー;。でも、コロナが怖いので、最低限必要なところしか回りませんでした-;。

 で、家に帰ってきたら、なんとなくネットをググってみたくなる。で、「皆神山」というモノを見つける。「そこへ行ってこい」というお告げを受ける気がするので、「佐久の疲れが取れてもいないうちから、新しい指示かい!?」と思いましたが、お告げに従って今日行ってきました。家から近いところで良かった、と思う-;。皆神山は松代にある山で、火山の溶暗が固まってできた山らしいです。奈良時代に出早雄命を祀ったのが始まり、ということで、上田、坂城、松代とか、千曲側の南側の東信としてはオーソドックスな形で始まったらしいです。だけど、中世に熊野権現を祀って、修験道の聖地にしてから、現在まで、いろんな人に霊的なお告げを与えるパワースポットになったらしくてー;。境内の中には色々と楽しいお社とか立て札があります-;。たぶん、普通に神社に参拝しようと思っている方々にとっては、「天地カゴメ之宮」あたりが引っかかるかなあ、と思いました-;。ちょっと検索してみても「日ユ同祖論?」と突っ込まれてた方々が多いような・・・。私は、「籠神社から苦情とかないの・・・?? というか、神サマに著作権とかなかったっけ??」とか思ってしまいましたー;。他にもUFOが来るとか、いろいろな噂のあるお山のようですー;。

21年8月2日

 さて、今日は両親を病院に連れて行ってきました。どうも「密」を避ける、とかで診察室に何人も付き添いが入るのをちょっと嫌がられてしまってー;。うちのじいさんは耳が遠くて人の話はよく聞こえないのですが、相手の口の動きとかをなんとなく見て適当に相づちを打つので、先生サマに「聞こえているんだ」とつぶやかれてしまって-;。・・・家族の経験からいって、それは聞こえてなくて、相づちを打ってるだけです、と思ったわけですが-;。これも、まあ、そのうちに説明しておきたいと思います。だいたい子供の頃からの難聴らしくて、補聴器を嫌がるわけです。うちも古い家で近親結婚が多いのでどうも遺伝子的にはどうなの? という点がいくつもあるわけですが-;。西山地区は「遺伝病の宝庫」と言われて世界的に有名なところですので、じいさんも漏れなく「宝の山」な気がするわけですがー;。

 で、古い家ってどうなの? と神社巡り、という話。かつて信濃国はだいたいどこへ行っても諏訪系の神社があって、たまに違う系統のものもあって。で、最近気がついたのですが、賀茂系の神社も探せばあって。で、かつての「高井郡」というあたりには「物部氏系」の神社がいくつかあるわけです。物部氏の本拠地といえば石上神宮? あるいは石見国? と思うわけですが、ともかく西の方の大豪族である。賀茂氏の祖神の一つである天香山命と縁が深いことから、どうせ賀茂氏の一派であろうかと思います。で、越智神社というものがいくつかあるので「越智氏」という人々が創建に関わったことが連想されますが、現在の須坂周辺には越智さんという人はあまりいないような・・・? で、八幡墨坂神社には宮司の祖神である山岸大祖(坂戸大祖)が祀られており、坂戸大祖とは物部氏の側近である坂戸造であるそうです。(https://suzakamap.com/visit/sumisaka-shrine-hachiman.php)ということは、坂戸氏という人々が物部氏系の人々であって、祖神である物部氏の神々を祀ったとして良いのではないでしょうか?)ということは、坂戸氏という人々が物部氏系の人々であって、祖神である物部氏の神々を祀ったとして良いのではないでしょうか? というか、坂戸ってどっかで聞いたことあるぞ@@。それはどっかの山の中で、「義仲組」から「お大尽」と目される家柄の一つであって、賀茂疑いの終さんちの重要な姻戚では?@@ と思う。保守的で閉鎖的な田舎の山の中では、「同じような家柄」同士が何代も婚姻関係を結び続けて、結果遺伝病を積み上げやすい、という事情があるわけですが、「同じような家柄」って「賀茂」と「物部」ってこと? あんな山の中で? という点に衝撃をまず受けるわけです-;。

 で、須坂周辺では物部系の神社を高梨氏とう豪族がかつて大切にしており、高梨氏は大町の仁科氏と古くからのつながりがあって、木曽義仲の側近も輩出していたそうなのです。木曽と安曇野と須坂のつながりって? 古代であれば、「川」? とまず思いつくわけで。犀川を使った交通路が彼らの交流の重要なつながりの場であったとすれば、信州新町の水内神社付近は重要な拠点であったはず。水内神社界隈は平安末期まで栄えたところであり、水内神社には信濃国造の祖神も祀られています。そして、安曇野もよく探すと、ところどころに賀茂祖神が祀られている。そして、昔の人は一族郎党のつながりを大切にしていました。高梨氏は系図の上では清和源氏を名乗っていますが、仁科氏とのつながりの深さから清和源氏ではないだろう、と言われているようです。逆に、高梨氏、山の中の坂戸氏、安曇野の仁科氏が、「物部氏」ということに仮定して、ひとくくりにできれば、須坂から安曇野まで川でつながるよねえ? しかも、その中継地に善光寺とか水内神社とか信濃国造の拠点が存在している。そして、彼ら(特に物部氏系の人々)がまとめて木曽義仲を支援している、となれば、真に「主人」であったのは義仲なのか、それとも物部氏とその上位に来る賀茂氏(信濃国造氏?)だったのか? ということにもなりますし、義仲の残党が仁科氏等を頼って、どっかの山の中に逃げ込むのも理解できる気がします。そして、須坂には高梨氏の子孫もいらっしゃると思うので、そっちも義仲組の拠点なのね、なるほどね。というか、どうりで綿内あたりから変な人に絡まれるわけだ、というか-;。

 というわけで、須坂方面に物部氏系の神社があるのは分かった。でも、私がそちらに参拝するとしたら、その意義はどのようなものなのか? と最近思っていて。そして、今日「それSnow manにやらせてください」の録画とか見ていたわけで-;。私が行くとすれば、坂戸の方の「ご先祖サマ」にご挨拶する、ということになるわけだ-;。先祖というのは一人ではないわけだから。まあ、でも行く前に頼朝公関連を固めるべき、と言われる気がします。まあ、固めるなら川の上流からよね、と思います。まあ、いろんなところから、国立の医学部に受かるような遺伝子とか、遺伝病まみれの遺伝子とかもらってる気がするわけですが-;。

 それから、松本にある沙田神社は、「主祭神のいない南宮大社的神社」と言われる気がするわけで。南宮系の配神ばっかり集めたようなところはあると思います。南宮大社は武器を鍛える鍛冶の神金山彦を祀る神社であり、尾張氏の祖神も祀っていますから、なんだかんだ行って賀茂系の神社であると思います。信州新町の熊野神社ではスサノオの代わりに金山彦を祀っていますので、古くには熊野の祭神は金山彦、と考えられていた時代もあったのかなあ、と思います。

21年7月31日

 本日は川上村に行ってきました。金峰山という山があって、金峰山神社が3つほどありました。なんで、長野市の川周辺に金峰山神社があったのかが分かった気がしました。千曲側の上流から持ってきたのねー、と思う。川上村の本来の神社は住吉大社なのかなあ、と思います。元々は秩父に抜ける峠道があって、秩父神社に天之手力男神が祀られていますので、秩父から川上村にかけて安曇族が開拓した土地であって、街道沿いに彼らの神を祀ったのだと思います。金峰山はおそらく下社系が招いたのではないか、と思います。でも、今の川上村の皆様は、道路のすぐ脇に新しいお墓を建てるのがトレンディーなような・・・? 今までどこにお墓を建ててたの? と余計なことを思ってしまうくらい、新しいお墓が多かった気がしたのでした-;。

 で、帰りに一般道を通って帰ってきたら、佐久に「新海三社」という大きな神社を見つける。元は男性の三神を祀った神社らしいです。芹田三社もそうだけれども、千曲川系で、「男性の三神」を祀ったものは、いずれ機会があったら蔵王権現に置き換えるつもりで作って、そのままになってしまった神社ではないのだろうか、と思ってしまう。そして、関東に抜ける道は碓氷峠以外にも古い道があって、山の向こうには鴨々しい賀茂の神々がゴロゴロいることを発見する-;。その道を通ってやって来たんだなあ、だけど、長野県側に入ると賀茂の名前を捨てて、「建御名方富命」の名前の陰に隠れてしまうのね? あ、賀茂じゃなくて終わりだっけ?? と思うわけで。

 奥秩父からの道を現代的に発展させないのは、安曇族に対する嫌がらせですか? と微妙に思うわけです。