本日は買い物と外作業。私は土の清掃、姉は土の清掃、石片付けでした。昨日は外作業のみで、私は土の清掃、土の埋め戻し、土掘り、姉は土の清掃、石片付けでした。
昨日は、福山君の無料のライブの生中継をスマホで見て。こういうライブが中継で気軽に見れるようになるとは、良い時代になったなあ、と思います。インターネットが拡がり始めた頃は、ネットで誰かのライブ中継があるって言われても、実際にはサーバーが脆弱でほとんど見れなかったりとか、そういうこともありました。・・・誰かの、って、てっぺいちゃんがソロになってごく初期にハワイから中継したライブのことなんですけれども。
我が家では特に冬期にスズメさんにパン屑を支援しているわけですが、スズメ以外の小鳥も食べに来ます。スズメとハクセキレイはもう我が家の庭を「自分の庭」みたいに思っていて、食べたいと思ったときには通年やってきます。でも、パン屑は小鳥たちにとって最大においしい餌とはいえないので、天然の餌が豊富な時期にはあまりやって来ません。特に夏から秋にかけてはガラガラです。でも、小鳥たちには彼らなりの考えがあって、秋になると冬の餌が心配になるらしくて。我が家の庭に様子を見にやってきます。9~10日頃はそれが顕著で、家の裏の木でヒヨドリが縄張りを主張するさえずりをしていたし、家の周囲でモズが雄叫びを上げているし、セグロセキレイは直接やってきて「パンをくれ」と言って貰えるかどうか確認していたし。みんな一気に冬が心配になったらしいです。でも2日くらい騒いでいると思ったらまた静かになりました。今年もパンが貰えそうな気配なので、みんな安心して帰っていったらしい。今年の冬もパンを食べる百舌が見られそうです。モズ姉さんにそんなに頼りにされているとは思いませんでした。
そして最近ではスマホで漫画を読むことにはまっていて、大人の女性向けっぽいのをあれこれ読んでいるのですが。中に「捨てられた王女の秘密の寝室」という話があって。
諸事情あって、立場が弱くて虐待されていた苦労人の王女様が、いろんな男性にモテモテで助けて貰いながら奮闘する、という話である。
内容はちょっとアダルトだけど、人間関係もしっかり描かれていて好きなわけです。韓国の漫画なのだけれども、日本の漫画はなんだかだらしないというかふがいない男の人が多い気がするので、芯のしっかりした男性陣が新鮮で楽しいと思う。で、王女様の先祖は、その国を作った「金の烏」だと考えられているらしい。・・・これは古事記と書紀を足して2で割った設定? と八咫烏の子孫と思われる上に、虐待されていた苦労人のあたくしは思うわけで。細烏女と延烏朗の子孫は日本の王になった、というのが新羅の見解なのだとすれば、あたくしだって「日本の王女」ってことかも、と思って楽しく読んでいます。たまに、誰かが「自分はザヤード卿だから。」とか「自分はアルマンダイトでいい。」とか言ってくる気がするわけですが、気のせいです(笑)。「ザヤード卿は立ち位置としてはおいしいキャラだよね。芯がしっかりしすぎてるけどね。」と言われる気もします-;。
で、最近また性懲りもなく、饕餮についてあれこれ書いているわけです。「饕餮文」っていったら、殷周代の青銅器の鼎の文なわけですが、古代中国では似たような図があちこちから出土しているわけで、殷周代の職人の独占特許的文様ではないのです。だけど、他の地域、他の時代に出てくる文様の意味が、殷周代の饕餮文と同じで、「饕餮文」と呼んでよいのかどうか、という問題があるわけだ。あちこち資料を調べると、特に良渚文化の文様を「饕餮文」とは別にしたい、と思われるような記述がみられるわけで、「なんで?」と思う。私にとっての「饕餮」というのはもっと大雑把で広く「巨人」まで含むものであって、ぶっちゃけ「饕餮」というのはうちの近所では「ダイダラボッチ」というものである、でなきゃ「ものぐさ太郎」だと思っているので、良渚の獣面紋と殷周の饕餮文と仰韶の土器の「目」の間に「差」といえるものなんかないでしょ、特に「意味するところ」においては、と思うわけですが。ともかく、「内容が必ずしも当てにならない」と但し書きのつくWikipediaですが、良渚の獣面紋は「太陽神」だ、稲作地帯だから太陽が信仰されている、みたいなことが書いてあって、
「むむう」
と思う。良渚の「2段的饕餮文」とも言える文様は、殷周の饕餮文に似た文様の上に、羽だか後光だかがついた神人がもう一つ乗っているのである。これが「太陽神」だと言いたいらしい。でも、良渚の文様には、雷文のような渦巻き紋がベタベタくっついている気がするわけで、雷文って言ったら雷神じゃないの? って私なら書けるけれども、中国の人は書けないのか?? 偉大な袁珂先生に逆らうことになるから?? と深掘りして思ってしまうあたくしである-;。雷文がついているのが太陽神なら菅原道真も太陽神じゃん? と思うわけですが-;;。この羽の生えた神人については日本人の梅原先生がかなりまともなことを書いているわけで、「指が3本」であることを指摘している。指が3本って言ったら、カモの先祖の日本名・八咫烏のことじゃん? と思うあたくしですが、それなら尚のこと、これは「太陽神」ではないのである。
『淮南子』には「日中有踆烏、而月中有蟾蜍。日月失其行、薄蝕無光」とあり、これは「太陽にはカラスがおり、月にはヒキガエルがいる。 太陽と月は行き場を失い、そこに光はない。(Deepl翻訳)」という意味なのである。細烏女と延烏朗の伝承もそうだけれども、烏というのは、太陽を隠し、光を隠してしまう存在なのである。彼らは「隠す存在」であるから、その気になれば太陽を出すこともできる。しかも、雷文がくっついている、となれば答えは一つ。「烏」とは、雷神のことであり、巨大な巨人はいわゆる「入道雲」であり「雷雲」のことなのである。良渚の玉琮って、「天地を結ぶ柱」のことなので、良渚では玉なのだけれども、うちの近所ではこれを「御柱」というのである。だから、この柱は文化によっては木製であっても構わないわけ。ギリシャ神話では、これはアトラスといって、完全に巨人にしてしまってる。ただし、アトラスはしまいには石に変化するので、石とか玉に近いものなのだけれども。これはヒッタイト神話ではウルリクムミという岩の怪物となるのだと思う。良渚文化ではこの「柱」に饕餮文がつくのだけれども、長江文明の流れを組む苗族では、この柱は蘆笙柱となる。柱には饕餮文と同じ意味を持つ水牛の頭が飾られる。柱の頂上には鶏が停まっている。中国神話の鶏っていうのはれっきとした雷神である。だから、良渚の烏も、苗族の鶏も世界柱の上に乗る雷神なんである。うちの先祖はこれを烏とか鵄とか呼んでいるわけだから、むしろ大雑把に「鳥なら何でも良かったんじゃないの? カモでもアヒルでも??」と思うわけですが、ともかくこれは「雷神信仰」なのだし、苗族が柱のフウの木を「先祖」と考えているのであれば「祖神信仰」でもあるのである。だいたい賀茂系氏族にとっては、八咫烏は「祖神」なんだし、たぶん「雷神」なのだから、この2つはアジアでは兼任可能な存在なのである。そして、この「天地を支える柱」が樹木であって、そして柱ではなく生きた樹木であったら、これをなんと呼ぶのか? それは「世界樹」と呼ぶものなんじゃないの? と思うわけです。
ともかく、「上に神人鳥」が乗る柱(玉あるいは木製)あるいは樹木が「天地の間にあって天地を支えるもの」であるとすれば、それは「聖(天上)」と「俗(地上)」の「境界」にあるものでもある。うちの近所ではこういう「境界」の意味が強調されて、御柱は神社の周囲を俗界から囲うように建てられる。そして、もっとポピュラーに、「鳥居」もまた「聖俗の境界」に建てられる。日本の「鳥居」の頂上に鳥は配置されないけれども、名前にだけその性質の名残が残っている。そこに座した「鳥」とは烏なの? 鶏なの? それとも鴨とか? 川鵜とか? と思うわけですが。うちの先祖は「何でもいい」って言うかもしれないと思う-;。もっとも彼らにこれらの鳥を区別するだけの脳みそがあったら、の話で、まずはあったかどうかが問題である-;。「烏の3本指」は我が家の近所の縄文日本では「蛙の3本指」に変換されてしまっているし。仰韶でもそんな感じであると思う-;。
ということで、長江文明は稲作文化なのだけれども、良渚あたりは太陽信仰ではなかったと思います。むしろ「太陽を雷神の力で操ろう信仰」であると思う。で、その信仰は黄河文明でも、現代の日本の神道でもあんまり変わりは無い、と思うわけですが。樹木神である饕餮は日本では須佐之男・五十猛神で現され、「時間の境界の神」であるときは御歳神となるように思います。
テレビは昨夜は「突撃WEST」の録画など、今日の昼は「逆転男子」等の録画を見ました。