23年6月1日

 昨日は新潟八海神社、風巻神社、五十君神社、江野神社、阿比多神社、大神社、大野神社、藤崎神社、雁田神社、八幡・諏訪神社を参拝しました。

 外作業は、母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付けなど、姉は土の清掃、石片付けなど、私は土の清掃でした。午前中は買い物に出かけたので私は午後に少し作業をしたのみでした。

 親に「ギリシャ神話と中国神話とどちらが古いのか?」と聞かれました。当然中国1万年の歴史の方がかなり古いのです。ギリシア神話は古くまで遡ってもせいぜい紀元前4~500年くらいまでのはず。で、「ギリシア神話は中国の神話の焼き直しなのか?」と聞かれましたが、ごく時代が新しくて、ギリシアにギリシャ人の先祖が入ってから作られたようなローカルな神話は別ですが、大抵は古くからの神話の焼き直しなのだと思います。印欧語族の先祖は元々バイカル湖のあたりに住んでいて西欧に移動した人々なので、シベリアに住んでいた時代に中国の文化の影響を強く受けていたと思われます。特に「英雄」に関する神話は

1.英雄が化け物を退治する話。中国ではいわゆるゲイの射日神話、黄帝の炎帝や蚩尤退治の話など。ギリシアではテーセウスのミーノータウロス退治。
2. 英雄が傲慢に神に逆らって、逆に英雄が天罰で非業の死を遂げる話。中国ではいわゆるゲイの射日神話、ギリシアではへーラークレースとか。中途運ニムロデとか。

に大きく分けて2分されるように思います。で、1と2のパターンは「英雄が倒したものが化け物だとすれば、普通に英雄として扱われ、英雄が倒したものが神だとすれば英雄が反逆者で悪者にされているだけ。」で、表裏一体のものといえます。なぜなら、「倒された者」を化け物として見るのか、神として見るのかで、見る人の主観によて評価が分かれるからです。

 で、「英雄が化け物を倒す」というパターンの応用形として、「ともかく政治的な敵を化け物にでっちあげて倒して、倒したことを正当化する。」とか、「英雄視したい人を英雄視するために、化け物退治の話をでっちあげる。」とか、そういう後世の展開があるわけで、そういう応用展開された「英雄神話」もあるわけです。そーゆー応用が得意なのがうちの先祖の啓とかそーゆー人だよねえ? ということで、子孫は

3.本当に困っている人のために化け物を退治した英雄の話。
4.親を悪者の化け物に仕立て上げて殺して、自らを「神」とか「英雄」と名乗った啓君の話。

の2つを区別しないと神話というものは訳の分からないことが多くなるように思います。で、日本神話では母親を焼き殺す軻遇突智の話が出てくるわけですが、世界の神話をあれこれ見るに、啓君は「親を焼き殺す」というのが得意技であって、だいたい親にそういうことをするくらいだから、気に入らない人なんかどんどんそういう対象になっただろう、と思うわけですが。ともかく火を使うことが得意だったらしくて、彼の事は「火の神」とか、ときどき「太陽の神」で現されることが多い。軻遇突智の「火の神」です。でも、一番有名な「母親殺し」の神といったら、メソポタミア(バビロニア)神話のマルドゥクでしょ、と言われる気がするわけで。「それはそうだ。」と思うわけです。マルドゥクはバビロニア神話の英雄神であり、母親を殺して世界を創造した創造神としても扱われますが、マルドゥクという名前は「複数の(多くの)太陽」という意味だから、彼には太陽神としての性質がある。例えば東洋では、烏が「太陽鳥」であるとして、これが複数いたり、大きかったりすると「八」がついて「八咫烏」と言われたりするわけですが、これを意味するままに「八個の太陽」と解釈すれば、名前の意味はマルドゥクと全く同じ、ということになります。すなわち「複数(8個)の太陽」とか「大きな太陽」とか、そういう意味である。古代中国の「古い太陽神」が黄帝に倒された炎帝だとすると、炎帝の方は主に「農業の神」として扱われますが、「複数(8個)の太陽」とか「大きな太陽」とは扱われないと思います。そう扱われるのは、むしろ「祝融」という「火の神」系の神であって、これが啓君の「神」としての姿なのだと思う。メソポタミア神話でいえば、正規の古い太陽神はシャマシュ(あるいは「死んだ太陽神」はネルガル)で、単数の神ですが、マルドゥクはそれを発展させた「更に偉大な神」という扱いなのだと思います。で、日本的には、啓君は

5.親を焼き殺す時には軻遇突智(中国で述べるところの祝融)
6.「偉大なる太陽神」であることを強調する時には八咫烏
7.微妙な発展系ですが、「境界神」であることを強調するときには顔の赤い猿田彦あるいは天狗

として3分割して扱われるように思うわけで、「天狗」というのは和製のものは比較的新しい概念であって、猿田彦をそのまま天狗として扱う地方もあるし、富士山北嶺では建御雷神を天狗として扱っているし、仏教寄りになると秋葉の三尺坊とか、愛宕の神とか複数の天狗が存在することになるので、その本態は一律ではなく、ざっくりと「天から降ってくる火(流れ星)とか雷の神」を宛てているわけで。猿田彦も「天地をつなぐ神」だとすれば、その「赤い顔」からして、「火の神」の発展系として良い神のように思います。日本神話では、彼らはどちらかといえば「王権を支える神」とされますが、しかし、加茂系の氏族は系図からいえば、「天皇家の外戚」といえる神々を排出しており、八咫烏と同じ神と言われる賀茂建角身命は「天皇家の大舅」という立場にいるわけです。古代の日本は母系の文化が強いわけで、その場合、天皇家そのものと、大舅と、「どちらの立場の方が上なのか」と言われたら、「婿ではなくて舅の方」と言うしかないですよねえ? と思うわけで。現代の上皇と上皇后も賀茂の葵祭りとか好きかもしれませんが、古代の天皇家も「賀茂の子孫」ということで賀茂神社に斎院を出していたわけで。偉いのは、賀茂の先祖の八咫烏(賀茂建角身命)なんじゃん? となる。

 しかも新羅の神話には「朝鮮から烏の夫婦が日本に渡っていって、日本の王と王妃になった。」ってあるわけで、その「烏」というのは啓君の子孫で、「複数(8個)の太陽」すなわち「八咫烏」の名前を受けついだうちの先祖なんじゃん? と子孫としては思うわけです。王って言ったらよくよくお偉いさんじゃん? と思う。

 で、加茂系の氏族のお偉いさん達の中には、その名も多氏(王氏)と名乗る人たちがいるわけです。でも神社を作るときには「大神社」というものを作ったように思う。名古屋でも新潟でもこのような名前の神社は見たわけで、多氏の分布域の広さと権力の強さがうかがえる気がしたわけですが。でも、彼らの祖神としては神八井耳命と名乗るわけで、日本神話では天照大御神の太陽神としての性質が強いからか、むしろ「井戸の神(水神)」のような名前に変更されていますが。これは延烏郎君の和名の一つであると思うわけですよ。彼の和名は他に賀茂建角身命とか、都怒我阿羅斯等というのがあるように思うわけで、日本ではむしろ「角のある人(鬼)」と現されることも多いように思う。日本の国にやってきて、実行支配し「王」と名乗った鬼のことです。大麻と酒と恐怖政治で、人々を身動きできないほど縛り付けて、最後の血の一滴まで絞り取るようなあこぎなことやってたろう、腐れ先祖が、と思うわけで-;。ともかく、あちこち巡って、「世界の神話」などというものは中国神話の焼き直しか影に過ぎない、と思うようになったわけです。

 で、日本神話では水神、世界では太陽神? のように扱われる「悪魔の神」とは、エンリルのように「破壊性の高い風や嵐の神」としても現される。そもそもノストラダムスの「アンゴルモアの大王」だか「恐怖の大王」って何? と思うわけですが。これも神話的には「風や嵐の神」ということか? と思うわけですが。新潟で「風巻神社」という感じの良い神社を参拝したわけです。「風を巻く」とは「風を終わらせる(鎮める)」という意味もあるのではないか、と思う。新潟も海沿いに行くと、航海の安寧を願う神社がよく見られます。で、1と9と9と9の年に天から降ってきて、私が巻き取って(終わらせて)しまった嵐の神とはなんぞや? と思うわけですが。昨今の色々なニュースを横目で見ながら、旅はまだ続くわけです。(というか、「の神」なんてつけない方が? とかそんな気もしないでもないですがー;。)

 テレビは昼は今週は「いただきハイジャンプ」の録画を見ました。

23年5月30日

 本日は外作業のみ。母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付けなど、姉は土の清掃、石片付けなど、私は土の清掃でした。

 テレビは昼は昨夜の「News Zero」の録画を見ました。

23年5月29日

 本日は買い物のみ。雨が降っていて、外作業はお休みでした。

 テレビは昨夜と今日の昼は「食宝」の録画。などを見ました。

23年5月28日

 昨日は富山白山宮、菅沼神明社、少彦名命社、岐阜飯島八幡神社、鳩谷八幡神社、白川八幡神社、白川秋葉神社、荘川神社、荘川白山神社、二ノ宮神社、槻本神社などを参拝してきました。岐阜から富山にかけての県境地方は世界遺産で有名な合掌作りの住宅が点在しており、田舎で山村なのだけれども、観光客もたくさんいる、というのを拝見してきました。富山の白山宮は白山の登山口にあって、本殿は富山県内では最古の木造建築らしいです。山の登山口の神社は富士山でも実感しましたけれども、大事な気がします。ただ、その辺りに長野県から行くには安房峠を越えていくべき? と思ったのでそうして一般道を行ってきたのですが、道がけっこうわかりにくかったです。名古屋経由で東海北陸道を行ったら分かりやすかったのかもしれませんが、そうすると道が遠い上にお金がかかるからー;。

 有名な白川郷は観光客であふれかえっていましたが、個人的にはこじんまりしていても富山側にある菅沼集落の方が好きかなあ、と思いました。住宅の横に田んぼがあって、田植えが済んでおたまじゃくしがいて。昔ながらの農村の風景が良く保存されているように思いました。そして、感じとしても富山の方が岐阜側よりも敵意が少なかった? ように思いました。そして庄川は岐阜から富山に流れる大河川ですが、菊理姫が取り付いているんだなあ、と思いました-;。で、二ノ宮巡りも旅の目的の一つですので、丹生川から飛騨に入って、また丹生川に戻ってきて2つ神社を参拝しました。

 で、最近変、と感じる事件が多いように思うのですが。特に、最近「神と狂気」について考えるのですが、他人を搾取して、時に殺して、自分だけ「神だ」と名乗ってなんとも思わない「狂気」とはどういうものなのだろうか、と思う。炎帝とは農業の神、すなわち農業従事者でもあるけれども、「帝」とつくからにはリーダーでもある。一方、女神のリーダーは「瑶池の金母」である西王母である。彼女の庭園では不老不死の桃が実る、とされているわけだから、彼女はガーデニングの女神ともいえる。彼女の庭園は「楽園」ともいえるかもしれない。というか、「エデンの園」とは、「瑶池」を焼き直したものに過ぎないのではないのか、と最近思うわけですが。ということは、「天国」とは要は「西王母の住処」のことではないのか、と思う。ともかく、農業従事者であり、リーダーでもある「炎帝」はギリシア神話では「ミーノース王」という名に焼き直されるように思う。彼の息子は人食いのミーノータウロスであるので、普段は人前に出せないし、親が管理して地下の迷宮に隠している。すなわち、ミーノータウロスは「引きこもりの神」でもあるように思う。

 というわけで、農業従事者であり、リーダーでもある夫と、西王母なみにガーデニングが得意な妻から生まれた引きこもりの息子が人食いのミーノータウロスのように凶暴化して人の命を奪う事件があったように思うわけですが、どうもそのニュースでは警察が地域住民に「家から出ないように」と呼びかけている、という部分がなんだか強調されていた気がして。炎帝一家がその場にいない「娘」に対して「家から出ないように」という、そのためだけの事件? とふと思ってしまったりする。白山信仰の狂気、炎帝信仰の狂気ですな、と思う。何故、人を殺して平気でいられるの? そういられることが狂気であり、病気なんじゃないの? と思うわけですが。ともかく、あちこち参拝して歩いたら、どこかで「白くてでかいウジ虫をつかまえたー。」と怨霊虐めの好きな長良の大臣が喜んでいたわけで-;。「そのウジ虫姿の怨霊も元は人間だったの? もう自分は人間だったことも忘れてるの?」と思うとなんとなくやるせないわけですが。生きている人の中にも狂気があり、死んでいる者にも狂気が取り付いているのだなあ、と思ったのでした。

 昨夜は「SHOWチャンネル」、今日の昼は「ニノさん」を見ました。ともかく春ですので、セキレイやヒヨドリの幼鳥の姿も見かけるようになりました。

23年5月26日

 本日は私は買い物のみ。母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付けなど、姉は土の清掃、石片付けなどでした。なんだか午前中は曇っていて、忘れ物が多いようなぼんやりしてしまう日でした。

 テレビは昨夜は「VS魂」の録画、今日の昼は昨夜の「夜会」の録画を見ました。