さて、あれこれあって、「黄帝がなぜ水神とされるに至ったのか。」ということを書く羽目になっています。それは「大洪水で生け贄にされて、水神と一体化した存在となったから」なのですが。それを証明、というか説明する伝承を挙げるのがけっこうむずいです。というか私でも
「あれ?」
と思うところに転がっている@@。「蛙の天若日子」を書きたかったのに、「雉も鳴かずば」に話が飛ぶ。いきなり大本命じゃん?? と思うあたくしでした。話としては「蛙の天若日子」の方が好きなのに><。
さて、あれこれあって、「黄帝がなぜ水神とされるに至ったのか。」ということを書く羽目になっています。それは「大洪水で生け贄にされて、水神と一体化した存在となったから」なのですが。それを証明、というか説明する伝承を挙げるのがけっこうむずいです。というか私でも
「あれ?」
と思うところに転がっている@@。「蛙の天若日子」を書きたかったのに、「雉も鳴かずば」に話が飛ぶ。いきなり大本命じゃん?? と思うあたくしでした。話としては「蛙の天若日子」の方が好きなのに><。
さて、色々とあります。
苗族の他に、ハプログループD群の遺伝子を持つ人達がいます。羌族です。殷の時代に人身御供にされていた人達です。で、不思議に思うわけですが、封神演義を読んでいると、姜姓の人がちょいちょい出てきます。姜姓と羌族って同じなんじゃないの?? と私の頭はぐるぐるするわけです。姜姓の人は朝鮮にもけっこういます。殷の王族は羌族を馬鹿にしてたのに、なんで皇后とか有力な臣下に姜姓の人がいたんだろう? と思う。
たぶん姜姓の人って夏の生き残りなのではないか、と思います。でも、殷でいい思いをしたい、というか、もしかしたら夏が殷に負けたのは親戚の羌族が味方してくれなかったせい、とかって逆恨みしていて
「羌族をどんどん生け贄にしましょう」
って言ったのかも、と思います。でもって、うちの一族って「田子」という地名と縁があるわけです。どういう意味なんだろうなあ? と思っていて。そうしたら
「田に植えてあるものは何か?」
と聞かれる気がするわけで。それは「稲」です。では
「稲の子は何か?」
と聞かれる気がするわけで。・・・・それは「苗」ってこと?? と思う。行く先々の土地に「苗」という地名をつけて、苗族であることを忘れないようにしているのでしょうか?? まさに「三苗」の一角だーーー、と思うわけで。
でもって、「群馬に方にあるのは?」と聞かれる気がするわけで。群馬の多胡にあるのは「羊大夫」です。古代の日本に羊はあんまり縁がないはずなのになんで「羊」が名字なの? と思ったのですが。それって
姜
って名字ってことですかねえ?? と思う。我が家の大昔の名前は
苗族の姜氏
っていうらしいです。太公望とおんなじ姓だーーー、と思う。たぶん、夏とか殷とか、太公望が生きていたのと同じくらいの時代にはそんな名前だったのかも、と思います-;。
ええと、なんだか「人身御供」とか、祝融のことを「嘘つきと、武器製造を推進する火神」とか、真面目なことをガシガシと書いています・・・が、書いている方は、色々と資料を見て
「天若日子が蛙になってる~」
とか、イ族のみなさまの「火祭り」に、樹木に扮している方々(竜樹の化身?)を見て、
「マヨ祭だ、マヨ祭だ~」
と、喜んでいます。民俗学とかかじっていると、少数民族のお祭りとか楽しくてなりません。蛙の天若日子にも、どちらかというと笑いが止まらない。黄帝蛙様だから。イ族のお祭りも盆踊りよりはよっぽどマシ、と思う。
でも、てっぺいちゃんのDVDを見ながらあれこれ書いていたら、誰からともなく
竜退治を書くなら、嵐神プルリヤシュとイルルヤンカシュを書けばいいのに、と言われる気がします@@。それはヒッタイトです。インド・イランが別れた後よりは新しいけれども、ギリシャ・ローマに先行する神話である。
プルリヤシュってヴリトラのことじゃないですか。イルルヤンカシュはタクシュカのことである。
ということは、最初は
ヴリトラがタクシュカを倒す。
という神話だったのが
ヴァーユがヴリトラを倒す。
と変えられたのかもしれませんねえ、ヴァーユもヴリトラも同じ名前だし、と思ったあたくしでした。でも、つきつめていえばヴリトラとタクシュカとは「蛙虎が虎蛙を倒した」となるだけで、ただ名前が逆になっただけじゃないですか。ただただ、殺されたトム・ティット・トットというジャムシード君だけが「人間だった」という但し書きがつけられて閻魔さまになってしまうわけで。
ちなみに
大渓文化は屈家嶺文化(紡錘車(spindle-whorls)が発明された?)、龍山文化と次第に北上して受け継がれていきます。そして、伝説の中国の王朝「夏」と思われる二里頭遺跡に繋がっていく。この夏が殷に滅ぼされます。中国では、龍山文化集団が夏王朝に繋がり、三苗の屈家嶺文化及び石家河文化と対立したのではないか、と言われているらしい。夏の創設時に三苗と夏が争ったという伝承もある。でも私は違うと思います。
苗族は、屈家嶺文化と石家河文化に分かれ、屈家嶺文化と石家河文化が後に対立して、屈家嶺文化が勝って龍山に移行したのだと思う。要は「内ゲバ」です。身内同士の争いほど恐ろしいものはございません。
夏は殷に滅ぼされ、生き残った者は四散するか、殷に取り込まれました。その殷も周に滅ぼされるから、夏の残党は黄河流域から更に北に、中国東北部から朝鮮へと拡がって、一部は日本へも来たのではないでしょうか。
「うちの先祖って夏の王族だった?」
と思うあたくしである。殷代に「じゃんじゃん生け贄を捧げろ」っていう変な宗教を広めたでしょう? と思ったあたくしでした-;。
さて。シュメールのニンギジッタこと「トトン神」が、「悪しき蛇神を倒す英雄」に変貌するまでの間に、
「何か宗教改革のようなものがあって、神話が書き換えられている。」
ということに気づく。しかもこれ2重に書き換えがあるわけです。
「英雄が倒すのは悪しき蛙神」
でなければならないはずなのです。本来はね。何故かというと、そのヒントはインド・イラン神話にあるわけで、アスラとデーヴァの対立に由来する。アスラは中国語に直すと「蛙黽」、デーヴァは「虎」なので。水神は本来は蛙でないといけないのです。でも、インド神話を見ればナーガ、ナーガって長い蛇ばっかり出てきます。
なので、気が重いけれども、遺伝子のハプログループを探って、弥生人のルーツを探る。WikipediaにはハプログループD1aは、中国中部出身で、弥生人を含む中国東北部と朝鮮に多く、イ族と苗族の中にも見られる、と書いてあった。なので、長江流域までしょうもない先祖の祝融を捜しにいくことにする。
苗族の伝承の中に、「アコリンと雷たちの腕くらべ」という話がある。アコリンという知恵のある若者が雷、竜、虎と腕くらべをして、火を燃やして勝った、という話。そういえば、ドイツあたりに「岩の蝶結び」とかそういう民話があったなーー、と思う。というか、さっそく「祝融・共工説話」を見つけてため息をつく。もちろん意図的に探しているから、探せば簡単に見つかる-;。雷は鶏雷神の黄帝、竜は黄帝共工、虎は虎西王母だから。要は、「アコリンは羿と嫦娥を焼き殺しました」と暗に言ってるのも同然では、と思う;。苗族の「饕餮」は今は水牛だと思いますが、「蚩尤が先祖」とかって言っているところを見ると「楓」と「牛」も饕餮だと思ってる人は多いはず、と思う;。
イ族の伝承の中には、火をおこして、人々を助けたムトンという若者が出てくる。要は彼も「知恵者」である。さすがに「太陽から火を盗んできた」とは言ってないけれども、木で火をおこしているから、木は「饕餮」の象徴である。ムトン君は、西方に旅してプローメーテウスという名になったような気がする。イ族はムトン君を記念して、火祭りを行うけれども、蛙(竜)饕餮の木に豚とか鶏とか生け贄に捧げるとのこと。豚は饕餮のメジャーなトーテムの一つだし、鶏は黄帝の象徴である。イ族は割と馬と縁の深い部族である。
で、ちょっとベンガルの「トム・ティット・トット君」と私が名付けた神サマを探ってみたわけですが。この神サマが何故か牛じゃなくて、馬なのですよ。そして、
「プロメーテウスも祝融だったんだ。」
とため息をついたあたくしでした。蛙黽という名の希望はいったい、どこの箱の中に隠れているのでしょうか;;。(というか鶏英雄の黄帝は焼いたり、生け贄にしたりするわけだ。まさにじいやんとばあやんを焼くどんど焼きですな-;。だって我らは本当は炎黄の子孫なんじゃん?)
イ族の伝承はこちらのサイトを参考にしました。「雲南省彌 勒県西一郷・火祭り 炎に捧げる情熱」。
つまり、こういうことだと思う。
昔、祝融という王がいました。姉の名前も祝融姫と言いました。二人とも火を祀る一族の王族だったからです。でも、祝融は悪い王だったので、姉を閉じ込めて人々を生け贄にしては苦しめました。共工と言う若者が、祝融を倒し、祝融姫を助け出して結婚し、新たな王になりました。
時が流れて、祝融姫と共工との間には、饕餮という息子が生まれました。怠け者で悪知恵だけが優れた息子です。彼は両親と仲が悪かったので、父親を殺し、母親を焼き殺しました。そして、特に姉妹達が自分と権力を争うことを恐れたので、親に殉死させてしまいました。生き残った者も厳しく監視したのです。
子孫達は強殺された共工は偉大な父であったけれども、強殺されたから祟り神の雷神になった、と信じました。日本の管公と同じことです。でも、その上にも同じく祟り神になった祝融王がいます。祝融王の一族もまた偉大な一族でした。だから、子孫達は祝融王と共工王を二段に重ねた紋を「自分たちの紋」とすることにしました。偉大な二人の王の子孫であることを誇るためです。
でも、共工王が祝融王を倒して王権を奪った。となるとそれはそれで体裁が悪い話です。父親を殺した饕餮王も体裁が悪い存在です。だから、子孫達は、「火の一族」ではない婿の共工王を悪者にすることにして、
饕餮王が共工という怪物を倒した。そして怪物を倒した饕餮王は、「火の一族の王」を意味する祝融に改名しました。そして、殺されてしまった祝融王を炎帝と呼ぶことにしました。
一方、祝融姫はつまんない男を婿にして、一族に迷惑をかけた姫、ということになって、一族は女性というものを忌み嫌うようになりました。だから、女は年取って寡婦になったら焼き殺して夫に殉死させてしまえ、ということになりました。若い娘達も邪魔なのがいたら、河に流したり、土に埋めて殺してしまえ、となりました。でも、母親を焼き殺すのはあんまりだ、ということになったので、年取った女は「女性達を厳しく監督させる」ことにして生かしておくことにしました。だから、中国では姑は若い嫁を厳しく監督して虐めるようになりました。ちょっとでも邪魔になるような嫁だったら殺さねばならないし。
だから、子孫達は、「炎帝と共工を重ねた祟り神紋」のことは、共工王にちなんで、「共工紋」と言っていました。でも、共工を「悪い水神」として悪者にしてからは、「共工紋」とは呼べないので、共工を殺した息子の饕餮王にちなんで、「饕餮紋」と呼ぶようにしました。だから、良渚の「獣面紋」は「共工紋」あるいは「黄帝紋」と呼ぶべきだけれども、龍山あたりではもう「饕餮文」になってたんだと思います。
そして、子孫達は偉大な饕餮王の子孫であることを忘れないために、祝融姫と共工王をかたどった人形を作って、毎年焼く、という祭祀を行うようになりました。子孫ではない人達には、王達の政治として、「役に立たなくなった母親を焼き殺せ」とか、「余計な娘を川の神(祟り神)に捧げろ」と言ってどんどん殺させました。だって、そうしたら戦争を起こさなくても敵を弱体化させられるから。
「親を焼き殺した記念の祭」って今でもやってるのかな? と思います。きっと、饕餮王にちなんで「どんど焼き」って言ってるのではと思います。
・・・なんで、こう思うんだろうって? イランの共工であるザッハークを倒したフェリドゥーンは、アヴェスターでは「スラエータオナ (Thraetaona / Θraētaona) 」と呼ばれている。それはT音が二つ重なる「饕餮」の名である。饕餮って、「親を焼き殺した」と評判の祝融のことなんじゃないでしょうか、と思うようになるわけです。「どんど焼き」って、「饕餮祝融」って言ってるも同然の言葉です。
そして、そうなれば話は早いわけですが、デーヴァと対立したアスラとは、アグニ(アガメムノーン)と対立したアキレウスのこと、と言うしかないわけで。それが、黄帝の「名前」です。そーゆー名前だったんだ、と思った(たぶん)子孫のあたくしです-;。「火」っていったら、炎帝のことを指そうが、祝融のことを指そうが、意味することは「アグニ」しかないのです。
ちなみに、「アスラ」というのは「蛙トーテム」のことだと思います。だから、黄帝信仰の強かった仰韶の蛙饕餮とか、朝鮮の金蛙王の中にその姿が残ってるのだと思います。でも、日本の縄文八ヶ岳の蛙饕餮は、「饕餮」と呼ばれていたと思います。一番古い文献では、ダイダラボッチと思われるものを「タフト坊」と呼んでいます。でも、日本語というのは「gh」とか「v」で表される、はっきりと発音しない「フ」とか「ブ(ヴ)」」の音はほぼ使わないので。「タフト」という言葉は「ダイダラ」という言葉よりは「タオティー」という中国語読みに近い言葉だと思うのです。だから、「タフト坊」と書いた人は、漢字を書ける教養のある人で、「饕餮」のことを知っていたから、そのつもりで「タフト坊」と書いているのだと思うわけ。でも一般的な日本の庶民は漢字も書けなかったろうし、饕餮のことは知らない人がほとんどだったと思うので、先祖から呼んでいたように、巨人のことをただ「ダイダラボッチ」と呼んでいたのだと思うのです。「ボッチ(坊)」という言葉も縄文時代からある古い言葉なのではないでしょうか。
それから、アムリタ(不老不死の薬)の化身である牛女神のカーマデーヌは、「不老不死の薬」の女神であれば、どう見ても西王母なので。炎帝が牛魔王であれば、その一族の姫は「牛姫」に決まっているわけです。だから、西王母は少なくとも虎と牛のトーテムを持っていたはずなのに、虎は残っているけれども、牛が削除されて「炎帝の一族の女神」だったことも消されているわけです。だから炎黄神話には、「牛西王母」が元は重要な役割で存在していたはずなのに消されてしまっているのです。で、カーマデーヌが子音からみて、クリームヒルトと同じだとすると、彼女は
「不老不死の薬」を持っていたのに死んでしまう女神
ということになります。中国では、そういった女神は嫦娥しかいません。「不老不死で権威ある大女神」と「死んでしまう女神」が一つの存在として共存可能なのか? というと、無理矢理頑張って作った神話が
「イナンナの冥界下り」
であって、イナンナは不死の女神のはずなのに、何故か自分から冥界に行く、と変えられてしまいます。でも、夫であるドゥムジを身代わりにして冥界から抜け出すことにして、神話上では無理矢理やりくりして、「不老不死で権威ある大女神」と「死んでしまう女神」を表現しています。
だから、嫦娥は「消されてしまった牛西王母」から枝分かれした「死んでしまう女神」なのです。夫の羿は天狗も同然の「太陽烏」を退治したわけだから、彼が火の牛魔王を退治した黄帝なのです。