22年6月12日

 本日は再び高山へ出向いて、伊太祁曽関連は旗鉾、塩屋、日面、日影、瓜田、白井、法力の7社、熊野神社、白山神社、大八賀神社、朝日の八幡神社、道後神社と計12社と千光寺を参拝してきました。以下、飛騨怪奇道中記、ということで-;。

 怪奇その1。前回、安房峠を越えて、トンネルの中を走っていると、「岐阜側から迎えに来ました。」と言って話しかけてくる人がいる気がするわけです。まあ、その程度であれば、最近の私であれば「怪奇現象」とは言いませんが-;。

 怪奇その2。ともかく、最初は高山市内の有名どころの神社を抑えるように、と言われ、次には、道路沿いで良いから、回れるだけの伊太祁曽神社と国境の道後神社を参拝してくるように、というのが第2回のミッションである。で、昨夜は早く寝たかったけれども、Mステを見て、キンプリとSixTONESを見る。で、頑張って最後まで見て、ふっと「最後まで見てくれてありがとう」と言われた気がするわけで。そういう若者らしい素直な言い方が好きよ、と思う。で、部屋に戻ると「両面宿儺」のことについて調べたい、と強く思うので調べる。そうしたら、「千光寺」というお寺を開いた、という伝承があることを知る。そのお寺のことを調べたら「カムカム、来て来て」と言われる気がするので、これでお寺を追加することにする。私は普通は神社が管轄なのて、指名がかからない限りお寺には行きません。「新しめの霊は管轄じゃないんで。」って「八雲立つ」の主人公みたいなことを言うあたくしである-;。

 怪奇その3。「両面宿儺」とはそもそも何者? となる。仁徳天皇の頃、飛騨にいた者で、朝廷に反抗してタケクマに討伐された、と日本書紀にあるらしい。で、地元では千光寺を開基した、と言われているらしい。タケクマは桜山八幡宮に祀られているわけですが、両面宿儺の伝承は丹生川界隈に多いらしい、し、乗鞍の日輪信仰に関わる伝承もあるらしい。でも、仁徳天皇の時代に日本に仏教はないんで、その辺りでもう実在性が眉唾、と思うシビアなあたくしである。というか、長野県人なので、「八面大王って両面宿儺の4倍体」としか思わない。おかげで、「どっちの実在性も眉唾だー。八面大王って仁科氏が自分の先祖をヨイショするために作った創作物じゃなかったんだ!」ということが一番に衝撃的でした。でも、「非実在」の存在だとすると、なんでやたらと伝承ばかりがあるのか、ということになる。その不条理こそが怪奇である。

 怪奇その4。太陽信仰ってどこにあるの? という怪奇。そもそも丹生川では、乗鞍が東にあるので、「太陽が昇る山」ということで乗鞍を信仰していたらしい。でも、地区内にあるのは、伊太祁曽神社がほとんどで、祭神は五十猛(イソタケ)である。日本で「太陽の神」というと一番有名なのは「天照大神」だと思うわけですが、なんで「太陽信仰」というわりに、天照大神よりも五十猛神の方が前面に出てるのか、と思う。系譜の上からも、五十猛神は天照大神の甥だから。抱くなら、孫のニニギの方が妥当であって、なんで仲の良くない弟の須佐之男の子供を天照大神が抱かなければならないのかよくわかんないー、あたしー、となる。要するに、神社の名前(日が抱く)と神サマの名前(五十猛)が一致しない気がする。本場の熊野では、「母子神像」が信仰されているので、「イシスとホルス」で、「抱かれている方が太陽神」って分かりやすく言えるのにー、それとも違う概念なのは何故? と思う。

 怪奇その5。丹生川には「日抱の御魂鎮め」という神事を昔から行っていて、神社の近くに池を掘って、近くに先祖の墓も建てて、池のほとりで先祖の霊と交霊する、という祭祀を行っていたらしい。で、池に移る日の光とか、月の光を見て祭祀をやっていたので、「日抱の御魂鎮め」という名前らしい・・・。・・・そもそも、神社というのは神サマを祀るところで、降霊術をするところではない気がする、と正直思う-;。というか、水のあるところには幽霊が集まってきやすいので、神池とか明確な目的があるならともかく、それ以外の目的で池を作るのは清浄さを汚すことになってまずいんじゃないのか? と思う。ともかく、白樺の皮を燃やして、先祖を呼び出したり、追い出したりする祭祀は仏教行事(盆行事)であるので、どう見ても神事の起源は仏教後だと思う。というか、「先祖の幽霊」と「神サマ」をごたまぜにして区別がつかなくして、神サマを呼び出しては「黄泉の国の食事」を食べさせて神々を黄泉送りにしてしまう祭祀を、出雲の「神有月」でやっているけれども、「先祖の幽霊」と「神サマ」を区別つけずに呼び出して交霊しているあたり、「日抱の御魂鎮め」というのは「ミニチュア縮小家庭版」の「神有月」なんじゃないの? 媒介に「水」を使うところが、紀州的、と思うわけで。なんだか、熊野のくまくましい祭祀だーー、と思う。紀州の熊野も「神サマを祀るところ」でもあるけれども「水」を媒介として黄泉の国と交霊して、人をよみがえらせたりするところでもある。小栗判官とか、そういう話だしなー、と思う。やっぱり熊野かー、と思う。

22年6月10日

 本日は外作業の日。母親は土の埋め戻し、土の清掃、土掘り、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃、土掘りでした。

 お裁縫は、新しいシャツは端の始末、父親のシャツは前身頃の作成、シャツは袖口のカフス作成でした。

 テレビは昨夜は「VS魂」の録画、今日の昼は昨夜の「夜会」の録画を見ました。

 「CRA SAW」が今日届きました。「メール便」と言われたので「ゆうメール」かと思っていたら、クロネコヤマトの方で届きました。郵便局よりも予定お届け日とか精度が落ちるのでしょうか。うーむ。無事に届いて良かったです。

22年6月9日

 本日は外作業の日。母親は土の埋め戻し、土の清掃、土掘り、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃、土掘りでした。トイレの下はそろそろ全部埋まって片付いたのではないか、と思います。

 お裁縫は、新しいシャツは端の始末、父親のシャツは前身頃の作成、シャツは袖口のカフス作成でした。

 テレビは昨夜は先週の「夜会」の録画、今日の昼は「正直不動産」の録画を見ました。

 日本ヴォーグ社から「CRA SAW」という新しい洋裁雑誌が出る、という広告を先月買った手芸屋さんで貰ったわけです。で、5月13日頃日定期購読をはがきで申し込みました。で、6月8日の発売日に届く、という話だったのですが、昨日届かず、今日も届かず。日本ヴォーグ社のHPには「一部の離島等には遅れて届くことがある」みたいに書かれていましたが、そんな遠隔地かなあ? と思うので、問い合わせの電話をしてみました。そうしたら、「発送はしてあるけど、たくさん申し込みがあったので遅れているかも。数日待って下さい。」という回答であって。経過がどうなっているのか郵便局に問い合わせてみたいと思ったのですが、なんだか「お待ちください」という言葉に押し切られたみたいになってしまって。1週間待っても届かなければ、問い合わせの方向でやってみたいと思います。届かなければ支払いはしなくてもいいのだけれども、後で「送ったのに支払いがない」と言われるのは嫌ですし。

22年6月8日

 本日は買い物と外作業の日。五十猛神攻略、ということで、まずは近くの名立神社と津島神社を参拝してきました。

 それ以外は外作業で、母親は土の埋め戻し、土の清掃、土掘り、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃、土掘りでした。

 お裁縫は、新しいシャツは端の始末、父親のシャツは前身頃の作成、シャツは袖口のカフス作成。

 テレビは昨夜は「News Zero」の録画、今日の昼は「それスノ」の録画を見ました。

22年6月7日

 本日は忙しかったのです。とても。高速でいやがらせされたし。

 でも「飛騨木曽」ってどう思うか、と聞かれる気がするわけで。五十猛神を祀る伊太祁曽神社の内、飛騨にあるものは、元々は「日抱宮」と言われていて、母子神信仰もあったらしい。で、だいたい和的には「天照大神が孫のニニギを抱いている図」とか、他の女神がニニギを抱いている、とか言われているらしい。でも、祭神は五十猛神である、と。

 ・・・どうも、こうも、ニニギも五十猛も「植物の種」の神であるので、それはさしづめ「ハイヌウェレなアッティス」のことであると思う。でも、「日を抱く」というと、単純に考えて、「イシスとホルス」なので、まあ地理と時代から考えて、それは露骨に「聖母マリアとイエス・キリスト」であると思う。それが嫌なら「神功皇后と応神天皇」あたりがお似合いである。だからグローバル的には、五十猛命はオシリスであって、男根のないアッティスといえる。でも、飛騨木曽の場合は、「子神」であるので、アッティスの属性が強いし、ホルスト言うよりは、イエス・キリストといえる。

 で、ローマ教会的に「天の父なる神」とは、ギリシャ・ローマ神話的には男根がないのはウラノスの方なんだけれども、サートゥルヌスのことだよねえ? となる。五十猛の父親は須佐之男であるので、これがサートゥルヌス=クロノス=クマルビ=クンバン(スーサの神)=須佐之男、って繋がるんだな、これがー;。ローマ教会の場合、イエス=アッティス(植物神)でもありホルス(太陽神)でもあって良いのかもしれませんが、母親が「太陽神」といえるかどうかは微妙である。「子供を食らう神」=クロノス=モロク=牡牛の神、は「冥界の神」のこともあるけれども、その妻のペルセポネーも死んでないといけないので、「高古姫」ならぬ「高降姫」になって、「月の女神」の属性の方が強い。すなわち、「豊受」といえる。だから、「飛騨木曽」とか「日抱宮」といったら、父なる須佐之男に殺された母なる豊受とその子供の蚕イエス、と言った方が「飛騨木曽」的にはぴったりなんではないのでしょうか。うちの母親が「五十猛神」と「武五百建命」は違うのか? と言っていたわけですが、どうも「武五百建命(金刺氏の祖)」は「五十猛神」の10倍体で、「父なる神(上位の神)」を示してるのだと思う。ということは、金刺氏の祖である武五百建命とは須佐之男の別名であるといえる。

 でも、信濃高尾張氏が神八井耳を祖神とするということは、信濃高尾張氏と金刺氏は同族なのである。信濃高尾張氏は出身地からみて、賀茂の一派である可能性が高い。ということは金刺氏も以下同文、である。ということは、本当は彼らの祖神は雷神・アジスキタカヒコネと下照姫なはずなのだけれども、それを隠蔽して、彼らは「武五百建命」(すなわち須佐之男)を祖神だと言って信仰している。そして須佐之男を祖神と述べる彼らは、飛騨の五十猛(子神)の子らを野麦峠の向こうで紡績で搾取して食い物にしたじゃん? それが「日抱宮」の信仰の姿でしょ? となる。で、共同で本来の宮川(古川)の縄文系の川の女神である太陽女神を「高降姫」と改名させて、高いところから突き落として死んだ「月の神」に変えようとしているのではないの? 「武五百建命」(すなわち須佐之男)の子孫を名乗るどっかの下社主導で始めた祭祀ですよねえ、それ? となる。

 両面宿儺は「地元では良い人」みたいな扱いであって、典型的な「イエス型ハイヌウェレ神」である。安曇野の八面大王も同系統の神といえる。そっれを殺した武振熊はどう見ても「熊」の神クマルビ、「熊野」の神である。要は「須佐之男」の別名といえる。武振熊(武五百建命)の子供達が飛騨の五十猛神(両面宿儺)の子供達を食い物にして岡谷の工業地帯の繁栄は始まったのです。五十猛神(両面宿儺)とは食い物にされる蚕神(紡績産業)そのものだからだ。で、乗鞍はその象徴なわけだ。

 というわけで、遠くに出かけてホームグラウンドに帰ってくると、これみよがしに「アッティスの男根(若い松の実)」が山のように散らかっている(ちなみにそこには松の木はないんだけど-;)ので、「うへえ」と思う-;。安房峠を再び越えるのは嫌だー、山嫌いー、と思うけれども、愛子ちゃんを蚕の奴隷にしておきたくないので頑張るしかない-;。だいたい、もう良いお年頃なんだから、好きな人を見つけて、眞子ちゃんみたいに駆け落ちの算段を立てるお年頃であって、蚕なんかにかまけてる年じゃないじゃん。「虫愛づる姫君」みたいだー、と思うあたくしであった-;。

 というか、だいたいなんで、祖神でもないものを「祖神」だなどと言う気になったのか。私はそんな許可出してないよね? というか、「許可を出さなかったこと」と、「各地の古姫(太陽女神)を下照姫と習合させて祀るように」と言ったことが今の状態を招いている気がしてならない。わけのわからない武振熊は、つくべきものがついていてもちゃんと役にも立てないのだから、ついてないのと同然、女も同然、といえる。その人にはキュベレーの名前を上げましょう。というよりも、多分、その名前はもう持っているだろう、と思う。女のふりをして子神を食う男神なわけだ-;。