24年9g月12日

 昨日は買い物と外作業。外作業は夕方少しだけ。私が土の清掃、姉が土の清掃、石片付けでした。本日は外作業のみ。私が土の清掃、土の埋め戻し、土掘り姉が土の清掃、石片付けでした。

 残暑が厳しい毎日です。昼間の暑いときに猫サマをエアコンの効いた部屋につれていっていたら、最近では自分から

「暑いから涼しい行こう」

と言うようになりました。けっこう大人になって知恵がついてきたようです。

24年9月10日

 本日は外作業のみ。私が土の清掃、姉が土の清掃、石片付けでした。

 見る連続ドラマがとりあえず尽きたので、CDTVの録画を見ました。サザンが出ていて「ジャンヌ・ダルクによろしく」という歌を歌ってました。ジャンヌ・ダルクも人身御供みたいなもんじゃん? フランス国王に陥れられた、と思うわけです。でもって、パリ・オリンピックの開会式だかの映像が流れて

夜、セーヌ川で馬が女性騎士を乗せて走る

という演出があったらしい。だから、桑田君にはそれがジャンヌ・ダルクに見えたらしい。それとも、そういう解説があったのか?? と思ったわけですが、ともかくそれを見て

「げっ」

と思う。だって、いくらジャンヌでも、馬に乗って水の上を走ったりしないでしょ、と思う。ガリアで水妖である馬に乗って走るって言ったら

エポナ

でしょ、と思う@@。西洋では神話とか民間伝承で、馬はともかく水と関連があって、「水妖」扱いである。ケルピーとか。ポセイドーンとか。なんで「水妖?」と言われても困るわけですが、ともかく

東洋では水神の一種である龍は、馬と猪と蛇の合成獣だから

西欧では馬だけが何故か分離していても水神扱いされるのである。東アジアでは馬単独で水神扱いはないよね? 須佐之男はやや微妙だけど、と思う。てことで、中国の蚕馬を

マツケンサンサンバ1

と仮定すると、エポナというのは

マツケンサンサンバ2

に相当するみたいな、類話群なのである。謎な話ですが、ともかく、エポナは馬と一体化して豊穣をもたらす女神であって、西欧には蚕はいないから「蚕馬」にはならないんだけれども、麦の女神であったり、野菜の母女神であったりするところは

オオゲツヒメ

と同じなわけ。広く、植物などの豊穣の女神としては、東のハイヌウェレ、西のエポナってそんな感じである。しかも、三星堆遺跡では獣面神人像が「象牙」を持ってたんじゃないか、と推察されてましたが、これは西欧の

コルヌコピア(豊穣の角)

を意識しているのだと思う。で、コルヌコピアといったら、「月」あるいは「月のもたらす豊穣」で、女性の月経がもたらす豊穣と組み合わせて用いられるアイテムである。「ローセルの女神像」のように。馬には角がないけど、牛にはあるよ、ということで、ギリシャ神話には馬頭娘の変形である

デーメーテールとポセイドーンの神話(この神話のデーメーテルは文字通り馬頭の女神として現される-;)

だけでなくて、その牛版の

エウローペーとゼウスの神話

もある。西欧の人々には、「豊穣の父である獣」といったら、馬よりも牛の方が妥当だと考えられていたのかもしれないと思う。で、更にキリスト教に適当にかぶれてる日本の神話では

須佐之男が牛にも馬にもなる

ということで-;。ともかく、デーメーテール女神は、種をまく時期、収穫をする時期と、時間軸までもを含めて支配する豊穣の女神であるので、起源が太陰暦にまで遡る古い女神であれば、「月の女神」の要素の内包している。それに人間以外の動物はだいたい発情の時期も出産の時期も決まっているから。「月の女神」がそういう「時間」を取り仕切ると考えられたのも当然である。というとこで

「時間の流れと共に豊穣をもたらす女神」

である「原初月女神」ともいうべき存在は、西欧では「豊穣の女神」で、特に植物の成熟と収穫に関連するので、植物生育の基盤となる「大地の女神」としての性質が強くなって「地母神」としての方が有名になってしまうわけですが、土だけあっても季節がなければ植物は育たないので、月女神としての性質も持っていて当然なのである。でも、太陽暦が盛んになると、太陰暦の時間(月)の女神としての性質は重要ではなくなってしまうから大抵は消えてしまう。でもって、文明が進むにつれて、彼女のもたらす豊穣は「王権」にまで拡大されるわけで、その究極の形が

ネミの森の、馬神と金枝、である。

金の枝とは、月女神のディアーヌ女神のことで、馬は文字通り彼女を切り落として食らうが、そのおかげで王権の豊穣が生まれる。

まさに、女を食い物にしてローマ皇帝の永遠を手に入れよう

ということで。これが西欧の馬頭娘の究極の形といえると思いますが。「時間を司る月の女神」が殺された、といっても殺されたままでは困るので、

「月の神は男だった」と、時間の神を男に変えてしまった人たちもいるし

「殺された女神は月の女神とは別の神(娘神)だった」と、デーメーテールとプロセルピナ、サテネとハイヌウェレを分けてしまった人もいるし、

日本海沿岸の人々のように、月の女神は死んだけれども、娘の狭姫は生きていて母親の後を継いだ、とした人達もいたし

エポナのように、現世と冥界を行ったり来たりする女神、になって生きてるのか死んでるのか曖昧になった女神にしてしまった人達もいた

ということで。だから、三星堆遺跡で、獣面紋神が「コルヌコピア」といえる象牙を持っていたならば、この獣面紋神は月神としての性質も持っていて、月がもたらす豊穣を支配していた可能性もある。日本でいうところの「月夜見」である。

だから、

植物を殺して、それを収穫して、また次の時期に種をまいて増やす

という「月の神」の役割は、本来は女神のものだったと思われるわけです。デーメーテールやエポナ、それから旦那を収穫してしまうメソポタミアのニンフルサグの神話にその名残がみられます。一方、ひげが木である須佐之男、木の番人である中東のフンババ、死して植物に変化した后稷、ネミの森の「王」である馬神の姿の中にすら

かつては男が植物であった片鱗

がみられます。でも男が月神に変更されると、男神が「植物(女神)を殺す神」になってしまって、獣神として現されるようになるので、

「あれ? 須佐之男は植物である木の神なの? それとも牛とか馬なの?」

という整合性のない混沌としたことになってしまいました。これは全て「月の女神」をむりやり「月の男神」に書き換えてしまったから起きたことなのだと思うわけです。

 ということで、最近は動物愛護の精神が盛んで、「動物にも権利を!」みたいな時代じゃん? 人間に馬や牛を食べる権利があるなら、馬とか牛にも人間を食べる権利があって当然、というのが最近の西欧デモクラシーの思想かもしれない。となると

明治の馬頭娘は時代にそぐわないあるまじき思想

であって。セーヌ川を爆走する水妖とエポナは

馬に人間を食べる権利があって、馬の方が人間よりも偉いと思うほど人間は謙虚になって馬に食われなければならない

という最新の西欧式権利意識に基づく、半周回って超シュールな「民主主義」ならぬ「馬主主義」だ、馬券が一番大事、ってそういう妥当性のある演出だったのかもカモ?

と思ってしまったあたくしでした。ギャンブルが盛んになると馬主ももうかるし?? 馬券と馬権が人権よりも大事、と。最近のオリンピックってそんなもんかもなー、と逆に意味不明に納得してしまったあたくしでした-;;。(というか、オリンピックとかトトカルチョをやる人だけが楽しい、とかそういう祭りなんじゃないの? と思う偏見の強いあたくしでした-;。)

24年9月9日

 本日は買い物と外作業のみ。私が土の清掃、姉が土の清掃、石片付けでした。

 「笑うマトリョーシカ」の最終回を見ました。人気者の政治家である清家君を背後で操る真のハヌッセンとは・・・「存在しない」という衝撃の展開でした。でもって、道上女史に

「見くびられたくない」

と、いつも清家君を見ているマトリョーシカを並べながら熱く語る清家君だった・・・わけですが・・・。でも

「ハヌッセンは存在しない。」

と言いながら、何故清家君は「マトリョーシカ」を前にして、その中心にある小さな人形について語るのでしょうか? その人形も清家君自身ではないはずです。その姿はまるで、私には清家君が「ハヌッセンは存在しない」という芝居を続けながら、道上氏には「中心にいるハヌッセンを見抜いて欲しい。」と訴えているように見えました。ではドラマには出てこない「ハヌッセン」とは何のことなのか、「神話的」に見ていきましょう。だって清家君は私には諏訪神がモデルのように見えるからです。上社と下社の間で振り回される諏訪神は、室町時代にはかなり「須佐之男」と習合させられて、あんまり独自の神としては機能しなくなりました。

 ドラマの中では清家君の父親も、汚職事件のもみ消しとか、殺人教唆とか悪どいことをしてますが、基本的には主体性のない人でした。諏訪神の父神である大国主命も、地方や状況によって性質がかなり違って、実のところ主体性がほとんどない神です。確か

記紀神話の大国主命は、少彦名命の悪事を隠蔽して隠れ蓑になっている神である

と少し前に書いた記憶があります。少彦名命は東国では、「天神」として祀られていて、どうも我が家ではキリスト教に半分かぶれてあれこれ言い出す前は、

天神である少彦名命が祖神だった

と言っていた節があります。これがどういう神だったかというと、弥生時代の更埴の遺跡から、ひょうたんを祭祀に使った形跡が出土しています。ひょうたんといえば、ひしゃく、ひしゃくといえば「北斗七星」、そして更埴も金刺氏の拠点の一つです。ということで、少彦名命って何かというと、

中国で言うところの「天帝」あるいは(かつ)北斗星君

のことと思われます。日本の民間伝承では一寸法師で良いと思います。古代中国と日本で見られる「獣面紋」、日本でいうところの「須佐之男」あるいは(かつ)牛か馬か猿か熊などの獣神は、単独で描かれて

背後にいるハヌッセン

の存在が明らかにされていません。でも、良渚文化における獣面紋には、彼の目に触れている小人の存在が描かれています。良渚文化は男系の王権文化が台頭した最初の文化であり、獣面紋と小人は「王権の保護者」として重要な神なのです。獣面紋は最初の神の言葉を伝える中継ぎ的なシャーマンと、神に生け贄を捧げるシャーマンの2面性を持った神であり、代々の「王」を神格化したもの、ともいえなくもありません。古代中国の皇帝たちは、独裁的な専制君主であり、神と人々の中継ぎともなるシャーマンでした。彼は天帝の忠実な部下だったのです。そして、男系の理論では、皇帝とその跡取りだけが「特権階級」で、それ以外は誰でも蚕同然ですから、そうやって天帝の定めたことに従って人々を蚕のように管理するのも獣面紋の仕事でした。人々から見れば、いつ殺されて食べられてしまうか分からないわけですから、恐ろしい存在です。獣面紋はそうやって少彦名命の殺人教唆の実行犯になり、更に大国主命や諏訪神を隠れ蓑にして隠れているわけです。要は、誰も自分が

「殺人者」

になりたくないから、下っ端のものに嫌なことを実行させる、罪をなすりつける、とそういうことです。だから下っ端にヒトラー(仮)とかムッソリーニ(仮)とか東条(仮)とか何人もいて、それがあちこちで大量虐殺を引き起こしていても、「真の殺人者」は天帝である少彦名命のみ、そしてそれを命じる饕餮(須佐之男)は共犯者(というか幇助者)という立ち位置になります。

で、ドラマの清家君は、ふだんはおとなしい人なのだけれども、腹を立てると、母親を非業の死に追いやろうとするし、恋人を切るし、自分と一体も同然であった親友も切ってしまうと。でも、道上女史には自分を見抜いて欲しい、という。

 普段はおとなしいけれども、腹を立てると暴君、って、それは神話的には天若日子とアジスキタカヒコネじゃないですか。それを見ぬく道上女史は「下光比売命」なんじゃん? 旦那があんなさえない人でいいのか、その設定は?? と思うあたくしである-;。それはともかく、清家君は腹を立てて、アジスキタカヒコネすなわち須佐之男になっちゃった諏訪神であるらしい。

 でも、上社的には諏訪神の「後戸」にあるのは守屋山の物部守屋であるので。これは下社的諏訪神、でなきゃ善光寺的諏訪神の姿なわけです。善光寺も下社も金刺氏の管轄だから。だからさあ、母親に対して「見くびるな」とか「俺が一番だ」って思うのはいいですよ? 思うだけならさあ? と思う。だけど、本当に

「見くびるな」

って思って、母親を焼き殺して、その権力と財産を横領したの? それを正当化するために、子孫に「女なんか殺していい」って正当化させる世界を作らせようとした? それ本人から聞いたの? 霊媒師とか使って幽霊でも呼び出したの、翔ちゃん??

と思うわけで。100歩譲って母親との確執は「個人的なこと」といえても、とんでも理論で世界中に何千年も迷惑をかけてきたことは正さねばならないのではないの? と子孫のあたくしは思うわけです-;;。

 で、一方、父親が清家君の父親(大国主命)に殺されたことを知った守屋君というか、鈴木君は、清家君からは離れて、自分が真に行きたい道を妻と一緒に進むことになりました。というか、この場合は、鈴木君は物部一族の象徴であって、「殺された父親」というのが守屋のことなのだろう、とあたくしは感じました。守屋を殺したのは迹見 赤檮(とみ の いちい)だし、大和の迹見氏って出雲系の氏族じゃん? と思う。

 あとは、清家君が尊敬する「タケチ先生」というのは、まあ名前からしてちょっと変則的ですが高市皇子のことをさすのかなあ、と思います。彼の登場はリップサービスかも? と思う。それを殺した性悪ミワコちゃんは、たいがい八坂刀売、ミワコちゃんに似た性格だけど悲嘆に暮れるママは大宜都比売であろうと思います。道上女史は下光比売命でもあるけれども、物部系氏族の願いとしては天道姫も入ってるのだと思う。

 かくして、守屋・鈴木君は、なんか性格的に意味不明な清家君から離れて、自分の理想を目指すことになりました。「これ大事なところだから」と言われる気がするわけですが。正直

「田舎にひっこんでおとなしく暮らせば良かったのに。」

と思ったあたくしです-;。色々な前途は長いなーー;;。

 で、あと、あれこれ書いてもあんまり報われない道上女史ですが、それでも頑張っているわけで。あたくしも神話とか民話のことはあれこれ書きますが、まあ、報われていないかも? しれません?? というか、龍と女神についてあれこれ書いたら

買い物に出かけたときに、龍と女神の絵が描かれているデコトラがこれみよがしに周囲をウロウロしていました@@

「懲りてねーなー」と思うというか、報われるとか報われないじゃなくて、書いたことにこういう反応はしこたまございます。報い? といえば報いなのかもしれませんが-;。

 ということで、須佐之男化した清家君の真の黒幕は少彦名命だったのでした。今日はあたくしは雅治君のビデオを見ながら日記を書いてみました。

24年9月8日

 本日は外作業のみ。私が土の清掃、土の埋め戻し、土掘り、姉が土の清掃、石片付けでした。

 テレビは昨夜は「A studio+」の録画など、今日の昼は「ニノさん」の録画を見ました。

24年9月8日

 で、昨日は安室ちゃんのMVを見ながらあれこれ書いていたわけですが。今日は遙か昔の「音楽空間アンモナイト」という歌番組の歌の部分だけを集めた個人編集のDVDを見てるわけです。てっぺいちゃんがMCだったテレ東の番組やね。

 で、犀龍と泉小太郎が「八坂刀売(大宜都比売)と彦神別神(御歳神)」の民間伝承化させられた姿であるならば、泉小太郎の父親とは誰か? と問われる気がするわけで。それは「須坂の黒龍」だったとうろ覚えで思うわけで。では、その黒龍が須佐之男のこと、と思う。それで? 須坂?? と思うと微妙にため息が出るわけですが。

 昔、馬刺しを食べ損ねたとき、あたくしは元彼に黙って名古屋に米米の「OPERA BLUE」を見に行っていました。その時に始めててっぺいちゃんを生で見て、しかも2mにも満たない至近距離であったわけで。しかも目まで合っちゃったりして。そして、それが一人で名古屋へ行った初であって。その後中京方面は何度も足を運んで、ライブもせっせと見に行ったし、しまいには真清田、大縣、熱田、猿投、謁播と尾張物部氏のそうそうたる神社を回ったわけですが。元彼とはとっくに、というか当然別れてしまったわけですが、結局てっぺいちゃんとの縁はまだ続いてるよー、とアンモナイトを見ながら思ったあたくしでした-;。

 それから、昔「僕の地球を守って」という少女漫画があって。その中に木蓮というヒロインがいて、紫苑というダメ男にレイプされてしまったわけですが、木蓮の方はそんなダメ男が、結婚したいほど好きだった、という話である-;。(我ながらすごい要約な気がするけれども、間違ってないよね???-;)これについて、

「今ならどう思うか」

と聞かれる気がするわけでー;。さあ、私は木蓮じゃないからねえ。としか言いようがない-;。むしろ、人を植物に例えること、登場人物が植物の名前である設定が

「お前も植物のように黙っておけ(余計な口をきくな)」

という脅しのようにも感じられる、と今なら言いますが。でも、恋愛っていくら「純愛」といってもパワーゲームみたいなところがあるじゃないですか。だから、木蓮がいくらもてたとしても、紫苑よりも彼女の心をつかまえられる男がいなかったら、それは仕方がないんじゃないですか? レイプされていようが、どんなに精神的に傷つけられていようが

木蓮にだって男を選ぶ権利はあるんだし。いくら見る目がなくても-;。

としか言えない(苦笑)。紫苑に勝てるだけの魅力を持ってなかった他の男性にも責任がございます。みんながみんなてっぺいちゃんみたいに魅力ある男だったらさあ? 木蓮だって紫苑に見向きもしなかったかも?? と思う-;。っていうと、誰か他の殿方の古傷をえぐることになるのかもしれませんが-;。

 ともかく、恋愛とは二人の問題なのだから、木蓮と紫苑が彼らのことを彼らだけで解決できているのなら、他人があれこれ言う権利は誰にもないと思う。

 でも、もし、木蓮と紫苑の間に子供がいて、その子供が母親を焼き殺して、しかも紫苑がそれをそそのかすような男であったとしたら? それはそうなった場合には子供も紫苑を木蓮を殺したことについて、社会的に責任を取らなければいけない、と思う。なぜなら、社会そのものがそれを認めるような社会であってはいけないからである。

 父系の文化の歪みは、一族の指導者的立場にあった女性を殺して、身内の男(おそらく息子)がその地位を奪ったことに始まる。その事件を正当化するための父系でもあって、子孫は正当化するために、泉小太郎だの羿だのの神話を作り続けていた。でも、専制君主制のもたらす狂気と貧困と差別を解消するためには、一番最初に戻って

母殺しの息子の罪を断罪しないといけない、母たる嫦娥の権威を回復させないといけない

でないと、差別されて食い物にされる女性達の悲劇は、馬鹿な息子の起こした「母殺し」を正当化するために

「女なんて殺してもいいんだ」

という理論を押し通そうとする息子の子孫の都合のためだけに、差別され殺され続けることになる。

と強い確信を持ったイエス・キリストの登場によって、どうなってるんですかね? なんか、米が流通しなくなったんですけど?? と思うあたくしである。私の得意分野は

「あんまり怖くないオカルト」

でもあるわけで、返目神社よりは、社子神社であれこれあって、要はぶっちゃけ、そこで

「オタマジャクシの形をした幽霊」

を1匹拾ってきたわけですが。こっちの方が理論的ではない? 変な体験だったわけですが-;。ともかく、てっぺいちゃんを見ると、どうしても可哀想な嫦娥娘娘のことに触れねば、と思う。蚕馬の伝承の歴史は古く、台湾の神話にすら「織り姫殺し」の話が出てくるのですが、何故かそれよりも新しい新羅の伝承に、輝かしい母女神である龍女の娑蘇婦人は登場する。女性の権威が地に落ちているはずの時代に何故? と思う。

 私は、この伝承の存在こそが、極東アジアにおけるイエス・キリストの思想の現れだと思っています。イエスの思想に共感した嫦娥娘娘の子孫達が、彼女の権威を回復させるために、「こうであってこそ正しい王家の神話である」というものを創造したのが、新羅の王家の始祖神話であると思う。偉大な母女神の神話は、あるはずだった姿、あるべき姿に戻して、父系文化のもたらす弊害を元から解消していかねばならない、世界のために、ということで。新羅の王家はイエスの思想に賛同し、尾張物部氏も可能な限り理想をかなえようとした。でも、その上の腐ったのはさあ??? 明治になってもさあ??? と思うあたくしである-;。可哀想な嫦娥娘娘、可哀想な母。でも、世の中は彼女に責任のない、彼女のささやかな欠点を世界の終わりのように言い立てて、殺戮するようなそんな世界であってはならないのです。だいたい欠点の全然ない人間なんていないのだから。