24年10月22日

 さて、「死んだ太陽乙女」であるハイヌウェレが、なんで「芋の母」になってしまったか、という話。ハイヌウェレは岩戸というか、穴の中に埋められました。そこは「冥界」です。冥界には、先に殺されたはずの雉雷神がいます。

 太陽乙女が鶏英雄に助け出されて、鶏英雄と結婚する場合には、それは明るいところの話、といえます。太陽が外に出てきたのだから昼間の話です。

 だけど、殺されてしまった月乙女達は、結婚しません。昼の世界では、です。死んじゃったから結婚できないし。だったら、鶏英雄の話とは逆に、冥界で殺された雉雷神と結婚させてしまえばいいじゃん、ということになります。これが大問題になります。だって、雉雷神は雨水の神様ですから、水神ということで河伯になって、毎年花嫁を求めるようになりました。だから、人々は毎年河伯に新しい太陽女神を嫁がせねばならなくなりました。要するに

「鶏英雄と太陽乙女の結婚」

を逆にひっくり返したら

「雉雷神と月乙女の冥界婚」

になってしまって、月乙女は雉雷神の繁栄のために毎年殺されることになったのです。要に、この「ひっくり返し神話」は人身御供を正当化するための神話なのです。でも、そのおかげでメソポタミアのスドゥはレイプ魔のエンリルに従って黄泉の国に行かなければならなかった。苗族式にいえば、

追い払われ殺された狼の妻として月乙女達は改めて殺される羽目になった

ということになります。ミーノータウロスは黄泉の迷宮の中で人身御供を待っていました。大渓文化の城頭山遺跡では、ウシの下顎骨が人骨と同時に埋葬されていました。頭だけの牛って中原では饕餮のことです。要は蚩尤のことでもある。蚩尤も牛ですし。牛の頭と人間を(女性であるか否かは分かりませんが)共に埋めて、彼らの結合から生まれる豊穣を求めたのです。大渓文化の時代には、もう雉雷神と月乙女は殺されてしまっていて、彼らの神話が、たぶん稲作の豊穣の祭祀に使われるようになってたのです。これがやがて沿岸部から太平洋に乗り出していった人達と共に各地に運ばれて、インドネシアでハイヌウェレに変化して、「米の母」ではなくて「芋の母」へと変化しました。ニューギニアのマヨ祭祀というお祭りでは、ココヤシに扮した男性達が若い娘を犯し殺して食べ、ココヤシの根元に埋めてしまう祭祀をしていたそうな。ココヤシとは、ニューギニアの「楓」であって、死んだ雉神が変化したものなのです。死んだ雉エンリル蚩尤は冥界で妻と結合し、これを食い殺して、新たなココヤシとして再生するわけです。若者達は先祖の「死んだ雉エンリル蚩尤」に扮装して、月乙女を食べてしまうのです。現代だって、子孫の若者が死んだ先祖に扮して「トリックオアトリート」ってやるじゃないですか。まんま同じことで、「幽霊に祟られるか、月乙女を差し出すか」って言ってるわけです。お菓子が月乙女あったら、それは芋のハイヌウェレよりも価値として高いの? それとも安いの? とあたくしは考えてしまいます。

 一方、「死んだ雉エンリル蚩尤」は鳥でもあるから、鳥にも餌をやらないといけません。鳥は芋虫を食べるよねえ? だから、芋虫に見立てて、月乙女を殺して死体を楓の木にかけることにしました。そうしたら月乙女は楓の木と一体化できるし、芋虫の子供は芋虫で、いつか蝶になるから、その子孫が人間の子供達、ということになります。そうして、乙女を殺して死体を楓の木にかけることで、人々の結婚の豊穣を願ったりしてませんでしょうか? これも一応冥界婚で結婚でしょう? となります。こういう考え方が中原では

乙女を殺して死体を桑の木にかける

という祭祀になって、絹で金儲けする豊穣を願うようになりました。この場合、乙女を食うのは牛ではなくて馬です。どっちだって思想としては同じです。ちなみに、飛鳥時代の日本ではタチバナやイヌザンショウにつくカイコに似た虫(アゲハチョウ、一説にはシンジュサンの幼虫)を「常世神である」と称し、「それを祀れば貧しい者は富み、老いた人は若返る」と吹聴して金儲けした人がいました。大生部多という人で、おそらく我が家の親戚筋と思われます。この芋虫信仰はこの後も続いて平安時代くらいまでやっていました。身分のヒエラルキーが厳しい我が家系で、誰かがこういうことを勝手にやっていたとは思われないので、まあまあ飛鳥時代くらいに生きてたあたくしの直系先祖がやらかしてくれたんだろうなあ、くらいに思います。お偉いさん、と思われるので。中原では「馬頭娘」っていったら、もう完全に金儲けのネタ化してるのでは? と思うわけですが、それと同時に

「金儲けも兼ねて若い娘の人身御供を正当化する」

という行為が強力に続けられていた、といえます。・・・だから、「馬を2頭に増やすんじゃねーよ!」とリベラリストなあたくしはそうなるわけです。

 だから、本当に真面目に、苗族の方々は蝶と楓の木の子孫ではなく、太陽女神と鶏英雄の子孫であることを誇り、祭祀を昼間にやられるべき、と思うのです。夜の闇の中で行う祭祀は悪魔の祭だからです。頭に飾るのはもちろん「雌鶏帽」なのです。虎の皮を被ったらドゥルガー女神みたいになってしまって怖すぎますからね-;。

マヨ祭儀についてはこちらを参考にさせていただきました。
与論島クオリア、ハイヌウェレ神話とマヨ祭儀

24年10月22日

 本日は外作業のみ。私は土の清掃、土の埋め戻し、土掘り、姉は土の清掃、石片付けでした。

 ともかく、毎日忙しいです。

24年10月21日2

 そういえば、日本には「かぐや姫」という話があります。竹の中から出てきた女の子が竹取の翁に育てられて、色々な貴公子や帝に求婚されますが、月に帰ってしまう、という話です。「月の女神」になる、というのは潜在的に「死者になる」ということを示します。太陽が死んで月になる、とされているからです。かぐや姫は

太陽女神が死んで(あるいは罰を受けて)竹という岩戸に閉じ込められて死んで、月の女神になった

とそういう話です。これに似てるのがハイヌウェレ神話です。ハイヌウェレはアメタという養父に育てられますが、殺されてしまい、彼女が死ぬと月の女神が人々の間から去ってしまいます。ではアメタとか、竹取の翁って何者? となります。

 竹取の翁とは、竹を切って竹細工を作って生計を立てている老人のことですから、木工芸をやる人、といえます。木工芸の神っていったら、五十猛です。・・・それってほぼ「我が家の祖神」では?? と思う。ハイヌウェレの父親は「狩人」とされていますが、娘を助けるわけではない、というか

娘を岩戸から蘇生させる

のではなくて、

芋に変えてしまう

わけで、ハイヌウェレ神話もまた、「歪んだ岩戸神話」といえます。でも、それが「芋の母」の神話として非常に広い地域に広がっているのでは?? と思います。だから「かぐや姫」も「岩戸神話」の一種なのです。籠もるのが「竹の中」なのですけれども。でも彼女は死んで、月の女神として再生してしまったので、結婚もせず、ということなのです。