24年10月18日

 今日は「好きな漫画」と「あまり好きでない漫画」について書きたいと思う。

 「え、社内システム全てワンオペしている私を解雇ですか?」という漫画があります。要約すると、社内システムを一人で管理しているような優秀なエンジニアが社長のわがままと偏見で解雇されて、心機一転SE専門の専門学校の講師になって、迷えるSEを救う、という話だと思います。途中までしか読んでないけど。

 で、客である「迷えるSE」とは、社内でハラスメントを受けていたり、SEの卵だけどプログラミングの学び方が分からなかったり、とそんな感じである。もちろん彼らの個々の悩みを解決してあげるのだから、善良な内容というか、根っから悪い人はまあまあ出てこない漫画である。だけど、ハラスメント的問題とか、病気とかまでいかなくても体質的な問題とか、社会的な慣習的な問題とかって、結局は

個人の問題でもあるけれども社会的な問題

でもあるわけじゃないですか。特に病気や体質的な問題は、それに対して理解ある社会であるかないかで、当事者にかかるストレスは大きく異なるはず。だけど、そういう諸問題を全部

「個人の問題」

ということにして、たまたま出会った個人だけ救ってあげればいいでしょ、それですべてハッピーでしょ、っていう内容の漫画はですねえ、どうなのかなあ? って思うわけです。日本は困っている人に対して、「自己責任」で片付けたがって社会的なセーフティーネットが不足しがちなんて言われますけれども、

「個人の問題」

だけ片付ければいいや、っていうのは、ひっくり返せば、「弱者に対する社会的なセーフティーネットがなくてもいいや」っていう理論の正当化する理屈になりやしませんかねえ? もちろん漫画は娯楽作品なんだから、労働組合とか労働局とか、法律を変えるために政治家に陳情とか、警察に相談とか、そういう深刻なことを描けとは言いませんけどもさあ? 「個人の問題」だけで全てが片付いていく内容に違和感を感じるわけです。白土三平の漫画みたいに「一揆だ、一揆だーーー」ってなればいいわけでもないんですけれども-;。というわけで、これは苦手な漫画なので、途中で読むのをやめました。

「大学の講義を寝ないで真面目に受けていたのが良いこと。」

ってあった時点で。それは低血圧症で午前中起きているのが辛い人、微妙な耐糖能異常があって食後意識を保っているのが辛い人を、当人が悪くもないのに攻撃する内容であって、許せない。講義に寝てて不真面目と決めつけるのは、それは偏見であり、れっきとしたハラスメントであって、そのようなことを述べる教官は社会的に糾弾されるべき、と、低血圧症と耐糖能異常をダブルで持ってるあたくしはそう思うからです。

 でもって、「苗族民話集」という本を持っていますので、もうちょっと詳しく読んでみました。そうしたら、なんで雉が悪者なのかが分かってきました。苗族の伝承は、日本神話との類似点が多いのです。でも、当然同じ中国内の漢民族の神話とも類似点は多いです。どうしてかというと、どちらも稲作文化だからではなくて、

縄文日本に伝播した世界樹(饕餮)信仰が大渓文化のものに近かったから

だと思います。でも、長江型の饕餮信仰だけでなくて、黄河型の仰韶の蛙饕餮も入ってきていますので、もしかしたら仰韶の饕餮信仰も蛙饕餮は別として内容は長江型にかなり類似したものだったのかもしれません。

 ともかく古事記を読むと、バラバラであった各氏族の伝承を集めて、なんとか誰もが納得する「歴史書」という体裁を作るために編纂者が色々なエピソードを集めて、整合性がつくように一つに纏めて、その作業が一番大変だったろうな、と編纂者達の苦労を強く感じる

わけですが、苗族民話集を読むと

 一つの出来事を決して連続した一つの歴史と信仰として語れない悲しさと苦悩

を感じる。でも、大渓文化の段階ですでに北斗信仰があったこと。北斗の神に織り姫を人身御供に捧げていたこと.虎信仰、雉信仰、太陽信仰を組み合わせた信仰があり、そこでも「婚姻」の形を取る人身御供があったこと、これが「悪いもの」として倒されたにも関わらず、結局「ネミの森」式に「先代の森の王(怪物)を倒した者が新たな森の王(怪物)」となるように改変されてしまったこと、そしてそれに伴い雉が鶏に変えられ、良渚で更に鶏が烏に変えられてしまったこと、そしてそういったものが全て世界では「悪しきもの」とされてしまったとしても、人々には自分たちが正しいと信じてきた先祖や神々に対する敬意を保たずにはいられない敬虔さと悲しさがあること。その悲しさは、蛙饕餮を「悪しきもの」として失ってもなお、その上位にあるミサクチ様への信仰を失うことができなかった縄文日本人の悲しさに通じること。

 そういういろんなことを感じた気がしました。確かアメリカでは、黒人奴隷を監督し押さえ込むために、混血奴隷を用いた、とそういう歴史があったように思います。古代において、

母系社会を押さえ込むために、父系の氏族が混血女性を「太陽女神」の代理人の地位につけて、人身御供を捧げさせたり、搾取をさせていた

のだと思います。だって、「父」という字の元は、手にムチを持つ父系の略奪者なんじゃないの? と思うあたくしである-;。だから、子孫が祖先を思い、祀るとしても一筋縄ではいかない。父親は略奪者であり、母親はレイプ被害者であり、両者の間に愛情も暖かい家庭もないからで、子孫はどちらかを敬えばどちらかを馬鹿にするしかないわけです。

 そして、太陽女神の兄弟達を「鳥神」とすれば、彼らは監督官でもあるし、姉妹達が母親の氏族につかないようにする見張りでもある。だから、個人として誰か鳥神に失態があって、処罰を受ければ、別の誰かが新たな鳥神の地位につくしかないわけです。そうして、鳥神の地位が雉から鶏、烏へと変化しても、鳥神が「搾取の元凶」であることは変わらないわけです。だから、

人身御供を求める太陽女神

なんて、結局搾取の象徴でしかないのに、母親であるから人々は「母」として慕うしかないのです。でも、彼らの上位に来るのは、結局は

上帝

じゃん? となる。織り姫を食らう「馬」は本当は七頭いたの? 現代水内郡の「2頭の馬」ですら数が多すぎるのに、と思うあたくしである。でもあたくしにとっては、この織り姫食いの「7」が苗族の文化の中に存在したか否かがとても重要であり、すでに大渓文化の中に「上帝」がうごめいていことを知って、ため息が出た今日だったのでした。

24年10月18日

 さて、射日神話と招日神話ですが。雷文を持つ鶏雷神のことを語るには、招日神話のことを語らないといけません。なぜなら、長江文明、特に大渓文化の生きた化石といえるようなミャオ族の神話や文化は、長江文明の神話や文化を理解する上で非常に重要だと思うからです。鶏もその辺りが原産ですし。

 ミャオ族の射日神話は、複数の太陽が射殺されて1つしか残らなかったという「射日パート」と、鶏が残った太陽を呼び出したという「招日パート」に分かれています。で、これが羿神話の原型だと私は考えますが、黄河文明では

「大中国の神話に鶏なんかお呼びではない。」

と考えられたかどうかは知りませんが、鶏さんは削除されてしまいました。でも羿を罰した帝俊は鶏雷神の上司も同然ですから、まあ「同じようなもの」といえます。でも、太陽に関連して「鳥」がいるという伝承は黄河文明にも伝わりました。それが「三足烏」です。羿が射たのはこの「烏」であると言われています。

 でもって、良渚文化(紀元前3500年ころから紀元前2200年ころ)では「太陽を背負って飛ぶ鳥」の玉製品が出土していますので、鳥と太陽は「別のもの」といえます。鳥は太陽の乗り物、といえるかもしれません。河姆渡でも鳥が太陽を抱えているけど、鳥と太陽は「別のもの」で、「鳥が太陽である」とは表現されていません。孔子さま(紀元前5世紀くらい)は「太陽に住んでいる鳥は日の光を隠す」と言っています。楚辞は後漢に成立したとwikipediaにありますので、普通に考えれば、孔子様の時代から後漢までの500年くらいの間に、

太陽と太陽に住む鳥が一塊にされてしまって、烏が太陽にされてしまった

という改変が加えられた、のだと思います。別に著作権なんてない時代なので、原作がどうだったかなんて、誰も気にしませんし。烏は三星堆遺跡の扶桑樹にある通り、

「木に属するもの」

であったはずなのに。一方、「複数の太陽が射落とされた」という話は古くからありました。ミャオ族の神話にあるのだから、大渓文化(紀元前5000年頃 – 紀元前3000年頃)にはもう存在していたのです。また、これとは別にミャオ族には、「ラオタンのトラ退治」という話があって、これは「英雄が人食い虎」を刀で倒した、という話です。饕餮の構成要素の一つに「獣」がありますので、虎がいても不思議ではありません。中国では白虎といって虎も神格化されます。で、韓国には「猟師の息子の仇討」という、人食い虎を弓で射て殺す話があります。で、ナナーイには「勇敢なメルゲーン」という英雄が人をさらう巨人などを退治する話があります。饕餮の構成要素の一つは「巨人(ギリシャで言うところのティターン)」ですし、鳥もその一部になりますから、要は

羿神話というのは、「怪物退治」の神話と「射日神話」を合成させてしまったもので、本来羿が射たのは怪物の化身であった烏だった

と言えることになると思います。こうすることで、本来、太陽とは別の存在であった烏を、「太陽と同じもの」に書き換えてしまったのです。そして烏というのは、

「太陽に関連する鳥」

ということで、古くは鶏とほぼ同じ機能を持っていたと思います。なぜならミャオ族の鶏は太陽を呼び出せるし、新羅の烏は太陽を出し入れできるからです。そして、

「鳥が太陽を呼び出せる」

という神話的機能は、日本の「アマテラスの岩戸隠れ」へと繋がるのです。岩戸隠れは招日神話の一種です。黄河文明の羿神話では「招日神話」は削除されている、といえます。

 でも、日本の神話はそれとは逆で、招日神話は明確にありますが、明確な射日神話がありません。そもそも太陽は最初からアマテラス1柱のみで、複数であったこともないのです。日本の招日神話に先立つのは、「兄弟姉妹であった他の太陽の死」ではなくて、「アマテラスの兄弟であった須佐之男の追放」です。天界からの神の追放は「死」も同然かもしれません。でも、須佐之男は誰かに退治されたわけではありません。アマテラスを岩戸から引き出すのはタヂカラオ他ですが、これは単に「男」といってるだけで、他に英雄的な行為をしているわけでもありません。須佐之男がアマテラスの正しい仕事を妨害した「孔子的烏」であったとしても、

「それを退治した」

という神話が非常に希薄で曖昧なのです。須佐之男の子孫を自称したいお偉いさんがいたからねえ、と思うわけで、神話なんてそんなご都合主義の改変なんていくらでもあります。

 で、日本の神話には「隠された射日神話」がもう一つあるわけで。それが「アメノワカヒコ神話」です。地上を征服するために天からやってきたアメノワカヒコは仕事をさぼって、催促にきた雉も射殺してしまったので、天罰を受けて殺されてしまいました。羿神話の羿も烏を射殺したことで罰を受けますが、アメノワカヒコは雉を射殺して罰を受けます。で、アメノワカヒコは雷神性質を持つアジスキタカヒコネに生まれ変わります。日本の神話では、招日するはずの鳥神を饕餮的雷神が殺してしまいます。良渚文化では

「蹴爪のある神」

といったら100%鶏雷神だって私は思いますが、日本ではこれが「雉」に変換されます。雉にも蹴爪があるから。でもって、これが戦国時代くらいの仁科氏あたりになると「ヤマドリ」にも変換されるように思います。もう改変なんて、「なんでもあり」だから-;。でもって、更にあたくしの地元である信州新町では

「雉も鳴かずば」

というふるってる民話があるわけで。雉が、とある娘とリンクしていて、雉が猟師に撃たれて死ぬと、娘が「雉も鳴かずば打たれまい」といったという話です。この猟師というのが、アメノワカヒコのことであるとすると、鳥神とリンクしている娘は「太陽女神」だと思いますが、呼び出す鳥神がいなかったら、太陽はいつまでも出てこれないよねえ?? と思う。しかも、太陽自らも「沈黙」を選んで出ないことを選択する、という話である。そして、娘が自らの生存のために親を犠牲する、という点は、農耕文化ではなく遊牧民の文化に近いという気がするわけです。騎馬遊牧民が夜間に略奪や強盗行為を行うのであれば、太陽はむしろ出てこないで黙っててくれた方が好都合、ということで。射日神話と羿神話には、こういう意味があると思う。

遊牧民の王(上帝) > 中間管理職(鳥) > 太陽(と太陽信仰の民、要は農耕民)

という身分制度があり、「鳥」に定められた者は、太陽(と太陽信仰の民)を、余計なことを言わないように管理せねばならない。管理できなければ、太陽(と太陽信仰の民)と共に死ね。奴隷階級の太陽なんて、1個あれば充分なんだからーーー。

と、これが中国からやってきた、騎馬民族の子孫であるあたくしが、先祖の思考回路なんてこんなもんなんだろーなー、と思う「意味」なわけです。日本に稲作を持ち込んでも、お偉いさん達は馬を飼って軍馬を育ててました。水内郡には「牧」に関する地名があちこちにあります。「雉も鳴かずば打たれまい」とは、射日も招日も飛び越えて

「余計なことを言ったら殺す」

っていう脅迫そのものだなあ、と思う。その一方で

「母親は息子のための犠牲になれ」

っていう泉小太郎があるわけだから。2つ併せたら、ただただ

「女は余計なことを言わず、誰かのための犠牲になれ。でなければ殺す。」

ってそういう意味になるのでは?? と思ったあたくしでした。これで蚕馬も好きとくるから、女を殺すことばっかり好きなんじゃん?? と思うわけですが-;。