あと、良渚文化の、中国人が述べる「太陽神」には、指が3本の他に、「蹴爪」というものがついています。・・・雷文と蹴爪で、まんま鶏雷神・・・と思うあたくしである。まあ架空の鳥には違いがないので、良渚では烏や鴨にも蹴爪がついているのかもしれませんが。
古事記、書紀、そして伊勢神宮の式年遷宮でも、太陽女神を引き出したり、動かしたりする前に、鶏の鳴き声である「カケコー」を唱えます。しかも午後8時の暗闇の中で、です。鶏は暗闇の中から太陽を引き出す機能を持っている、と考えられており、その発祥は長江文明か、それよりも古い時代の思想といえます。でも、そのあたりでは鶏は雷神であって、太陽神ではないんじゃん? 今でもそうなんじゃん?? と思う。だから、伊勢神宮も、「太陽信仰の神社」みたいにみせかけているけれども、本質的には
鶏雷神の力を使って太陽を操ろう信仰
の神社なのである。それを「太陽信仰」って言う?? と思うあたくしである。神を人間の好き勝手に操ろうとするのは、不敬っていうのではないのですかねえ? 特に現代的な一神教の方達、すなわちムスリムとかキリスト教を真面目に信じている人達に
「人間が神を操ろうとすることは正しい信仰なのか?」
って真面目に聞いてみ? と思うわけで。そして、良渚や伊勢の場合、むしろ頼みにしているのは、太陽の力ではなくて、鶏雷神の力なんじゃん? と思う。雷神は太陽女神の臣下なのか? それとも主人なのか? となるわけです。そもそも良渚では雷神の上に、更に上帝がいるんじゃないの? 中国だし、と思うので、太陽信仰どころか、
「太陽なんて転がる玉」
程度の扱いでしかない、と思うわけです。ということは、伊勢神宮の太陽女神の扱いも、本質的にはその程度なわけです。でもって、中国の「上帝」は日本では少彦名命だから-;。特に、古代では、お手盛りで
「自分たちの先祖は少彦名命(北極星)だ」
って言ってた人達は、単なる燃える玉の太陽が先祖だと名乗る人達のこととか、よっぽど下に見てたんだろうなーーー、自分たちは「王氏」で、表向きの「大王家」は「弟の家系」だものねえ?? 戦争に負けそうになったら、王氏の拠点の一つに大本営を移せっていうくらいに威張っていたんだよねえ? と思います。これいつの時代の話だっけ?? と思うあたくしである-;。
そして、三星堆遺跡の巨人神を、殷周の青銅器と結びつけるのに、敢えて良渚との関連を述べるのを避けるのは、良渚の「鶏雷神」を「太陽神」といってごまかしたいからなんだろうなーー、と余談的に思うわけです。三星堆遺跡の巨人神は三日月型の象牙を持っていたと思われるので、それは「月神」であることを暗示しています。三星堆遺跡の巨人神と殷周の饕餮紋が同じもので「月神」だとすると、獣面紋は、黄河文明と三星堆遺跡では「月神」、良渚では「太陽神」ということになってしまって、三本足の蛙である嫦娥娘娘は考古学の上から完全に「女神」の地位を剥奪されてしまう。伝承学なんてのは「子供が楽しむおとぎ話」みたいなところに追いやられてしまう。嫦娥娘娘の伝承は、人類の歴史にとって人身御供の悲惨な歴史と関連する重要な伝承であって、それを意図的にねじ曲げることは、犠牲になった人々に対する冒涜でしかない、とあたくしは思う。
しかも、古代中国の宗教観はそのまま日本古代の宗教観に連続してつながっているので。本家本元の長江文明の思想を変に改変されると、日本の伝承学者が迷惑なのーーー、と思うわけです。