つまり、こういうことだと思う。
昔、祝融という王がいました。姉の名前も祝融姫と言いました。二人とも火を祀る一族の王族だったからです。でも、祝融は悪い王だったので、姉を閉じ込めて人々を生け贄にしては苦しめました。共工と言う若者が、祝融を倒し、祝融姫を助け出して結婚し、新たな王になりました。
時が流れて、祝融姫と共工との間には、饕餮という息子が生まれました。怠け者で悪知恵だけが優れた息子です。彼は両親と仲が悪かったので、父親を殺し、母親を焼き殺しました。そして、特に姉妹達が自分と権力を争うことを恐れたので、親に殉死させてしまいました。生き残った者も厳しく監視したのです。
子孫達は強殺された共工は偉大な父であったけれども、強殺されたから祟り神の雷神になった、と信じました。日本の管公と同じことです。でも、その上にも同じく祟り神になった祝融王がいます。祝融王の一族もまた偉大な一族でした。だから、子孫達は祝融王と共工王を二段に重ねた紋を「自分たちの紋」とすることにしました。偉大な二人の王の子孫であることを誇るためです。
でも、共工王が祝融王を倒して王権を奪った。となるとそれはそれで体裁が悪い話です。父親を殺した饕餮王も体裁が悪い存在です。だから、子孫達は、「火の一族」ではない婿の共工王を悪者にすることにして、
饕餮王が共工という怪物を倒した。そして怪物を倒した饕餮王は、「火の一族の王」を意味する祝融に改名しました。そして、殺されてしまった祝融王を炎帝と呼ぶことにしました。
一方、祝融姫はつまんない男を婿にして、一族に迷惑をかけた姫、ということになって、一族は女性というものを忌み嫌うようになりました。だから、女は年取って寡婦になったら焼き殺して夫に殉死させてしまえ、ということになりました。若い娘達も邪魔なのがいたら、河に流したり、土に埋めて殺してしまえ、となりました。でも、母親を焼き殺すのはあんまりだ、ということになったので、年取った女は「女性達を厳しく監督させる」ことにして生かしておくことにしました。だから、中国では姑は若い嫁を厳しく監督して虐めるようになりました。ちょっとでも邪魔になるような嫁だったら殺さねばならないし。
だから、子孫達は、「炎帝と共工を重ねた祟り神紋」のことは、共工王にちなんで、「共工紋」と言っていました。でも、共工を「悪い水神」として悪者にしてからは、「共工紋」とは呼べないので、共工を殺した息子の饕餮王にちなんで、「饕餮紋」と呼ぶようにしました。だから、良渚の「獣面紋」は「共工紋」あるいは「黄帝紋」と呼ぶべきだけれども、龍山あたりではもう「饕餮文」になってたんだと思います。
そして、子孫達は偉大な饕餮王の子孫であることを忘れないために、祝融姫と共工王をかたどった人形を作って、毎年焼く、という祭祀を行うようになりました。子孫ではない人達には、王達の政治として、「役に立たなくなった母親を焼き殺せ」とか、「余計な娘を川の神(祟り神)に捧げろ」と言ってどんどん殺させました。だって、そうしたら戦争を起こさなくても敵を弱体化させられるから。
「親を焼き殺した記念の祭」って今でもやってるのかな? と思います。きっと、饕餮王にちなんで「どんど焼き」って言ってるのではと思います。
・・・なんで、こう思うんだろうって? イランの共工であるザッハークを倒したフェリドゥーンは、アヴェスターでは「スラエータオナ (Thraetaona / Θraētaona) 」と呼ばれている。それはT音が二つ重なる「饕餮」の名である。饕餮って、「親を焼き殺した」と評判の祝融のことなんじゃないでしょうか、と思うようになるわけです。「どんど焼き」って、「饕餮祝融」って言ってるも同然の言葉です。
そして、そうなれば話は早いわけですが、デーヴァと対立したアスラとは、アグニ(アガメムノーン)と対立したアキレウスのこと、と言うしかないわけで。それが、黄帝の「名前」です。そーゆー名前だったんだ、と思った(たぶん)子孫のあたくしです-;。「火」っていったら、炎帝のことを指そうが、祝融のことを指そうが、意味することは「アグニ」しかないのです。
ちなみに、「アスラ」というのは「蛙トーテム」のことだと思います。だから、黄帝信仰の強かった仰韶の蛙饕餮とか、朝鮮の金蛙王の中にその姿が残ってるのだと思います。でも、日本の縄文八ヶ岳の蛙饕餮は、「饕餮」と呼ばれていたと思います。一番古い文献では、ダイダラボッチと思われるものを「タフト坊」と呼んでいます。でも、日本語というのは「gh」とか「v」で表される、はっきりと発音しない「フ」とか「ブ(ヴ)」」の音はほぼ使わないので。「タフト」という言葉は「ダイダラ」という言葉よりは「タオティー」という中国語読みに近い言葉だと思うのです。だから、「タフト坊」と書いた人は、漢字を書ける教養のある人で、「饕餮」のことを知っていたから、そのつもりで「タフト坊」と書いているのだと思うわけ。でも一般的な日本の庶民は漢字も書けなかったろうし、饕餮のことは知らない人がほとんどだったと思うので、先祖から呼んでいたように、巨人のことをただ「ダイダラボッチ」と呼んでいたのだと思うのです。「ボッチ(坊)」という言葉も縄文時代からある古い言葉なのではないでしょうか。
それから、アムリタ(不老不死の薬)の化身である牛女神のカーマデーヌは、「不老不死の薬」の女神であれば、どう見ても西王母なので。炎帝が牛魔王であれば、その一族の姫は「牛姫」に決まっているわけです。だから、西王母は少なくとも虎と牛のトーテムを持っていたはずなのに、虎は残っているけれども、牛が削除されて「炎帝の一族の女神」だったことも消されているわけです。だから炎黄神話には、「牛西王母」が元は重要な役割で存在していたはずなのに消されてしまっているのです。で、カーマデーヌが子音からみて、クリームヒルトと同じだとすると、彼女は
「不老不死の薬」を持っていたのに死んでしまう女神
ということになります。中国では、そういった女神は嫦娥しかいません。「不老不死で権威ある大女神」と「死んでしまう女神」が一つの存在として共存可能なのか? というと、無理矢理頑張って作った神話が
「イナンナの冥界下り」
であって、イナンナは不死の女神のはずなのに、何故か自分から冥界に行く、と変えられてしまいます。でも、夫であるドゥムジを身代わりにして冥界から抜け出すことにして、神話上では無理矢理やりくりして、「不老不死で権威ある大女神」と「死んでしまう女神」を表現しています。
だから、嫦娥は「消されてしまった牛西王母」から枝分かれした「死んでしまう女神」なのです。夫の羿は天狗も同然の「太陽烏」を退治したわけだから、彼が火の牛魔王を退治した黄帝なのです。