本日は昼間雨が降ったため、外作業は午前中に1時間ほど行っただけでした。私は土の清掃、姉は石片付けと土の清掃でした。
テレビは昨夜は「Mステ」、今日の昼は「ビリオンスクール」を見ました。
「ビリオンスクール」は主人公のカガミ君の名前がずっと気になっていて。各神とは「鏡」にも通じる名前だと思っていたのですが、では主人公は「誰の鏡」なのだろうか、と思って。で、物語が進むにつれて明らかになったことですが、主人公は子供の頃、学校でいじめられていて、それが原因で校舎の屋上から転落したことがあり、そのせいかその時期の前後の記憶がない、とのことで。でも、その件が原因なのか、割と弱者に親切で正義感が強いわけです。記憶はないけれども。
ということで、神話的には「転落」といえば、木曽の下光比売命(高照姫命)です。でもって、最近のトレンドとしては「記憶喪失のイエス・キリスト」ということで-;;。そっか、カガミ君は
「記憶喪失のイエス・キリスト」の鏡
なのかも、と思う。でもって、難題を吹きかけられては「解雇」をちらつかされるわけですが、終盤で教頭が黒板に
「カイコ」
とカタカナで書いているのを見て、ぞっとするわけで。「解雇」とは「蚕」にも通じる言葉のように思う。イエス・キリストであるところの鏡君が蚕なら、まさにイエス・キリストとは蚕のこと・・・@@。
善光寺神話ではオオゲツヒメは「蚕の母」(ということは須佐之男が暗に「蚕の父」)とされているわけですが、原作の馬頭娘では娘が死んで蚕に変じるわけで、蚕が子供なわけではない。そして中国とかで蚕神として祀られていたのは女神ですから、長野でも「蚕神」として祀られているのは、東北のオシラサマと同様、女神であって、オオゲツヒメであることが相応しいと思うのです。だからオオゲツヒメを祀っている神社は少数であるとしても、「蚕神」がオオゲツヒメだとすると、オオゲツヒメを祀っている神社は善光寺平にかなりあると思うのです。諏訪系の神社ばっかりに見えて、隠れた祭神としてオオゲツヒメが重要なのです。
そして、更に困ったことに、松本に行くと「蚕の母」として祀られるのは八坂刀売とコノハナサクヤビメになるわけです。これにオオゲツヒメを加えたものが「同じ神」になって、「蚕の母」になってしまうし、当然みんな潜在的に死んで蚕を発生させていると思われます。コノハナサクヤビメは山梨では「織り姫」としても現されますから、一般的に
織り姫は蚕神でもあり、死んで豊穣をもたらすハイヌウェレ的な女神でもある
ということになります。で、ハイヌウェレの神話に蚕なんて当然登場しませんが、グローバル的にハイヌウェレ的な神話なんていくらでも存在しますので。例えばギリシア神話のメドゥーサ退治とか、メソポタミアのスドゥ神話、インドのサティ神話と、「殺されて利益をもたらす女性(女神)」の話なんていくらでもある。ということは、
ハイヌウェレ的な「死んで豊穣をもたらす女神」の神話
が広く一般的にあって、馬頭嬢は特にそれが「馬と蚕」の特化された話だと思うわけです。ということは、
ユダヤ人の思想家(宗教家)であったイエス・キリストが死んで、身内でもないローマ人にキリスト教のお布施という豊穣をもたらす
という神話というか現実も、馬頭娘に近い思想だよねえ? と思う。そのイエス・キリストを更に聖徳太子とか蚕と習合させて、そのあがりを吸い上げようとしてるのは・・・誰だったっけな??
と思わず水内郡を見回してしまうわけですが。「馬頭嬢」とは、他人(あるいは娘とか身内)を殺して財産や利益を得ることを正当化する神話で、まさにその対称に選ばれた者のことである、とそーゆーことですか? と思う。なぜ鏡君は、他人の「家族の絆」を守ることになると、AIの判断も仰がずに必死になってしまうのでしょう? 彼が記憶を失った中に、大切な家族の絆を失った辛い記憶があるから?? もし、私がダビデの家系のイエス・キリストであったならば、
記憶が失われてしまっても尚、深い後悔と悲しみの中にある記憶とは「アブロサムの死」
であると思う。彼が失ってしまった「家族の絆」とは。
で、もう一つ。昨日は日テレで「ラピュタ」が放送されていて。「マトリョーシカ」でも「ビリオン」でも番宣にラピュタの台詞が登場して、局の枠を越えた「ラピュタ祭り」が展開されていたわけですが。これも前例がないことである。でもって、ラピュタの好きな台詞アンケートとかもあって盛り上がったらしい。私の好きな台詞は単純明快に
「必ず君を助ける」
というパズーの台詞です。女の子はやはりこれが憧れというか、自分で穴を掘れ、とか本音では嫌に決まってるでしょうが-;、と思います-;;。