24年6月29日

 本日は外作業のみ。スズメさんたちの子育ては第2陣が目立つようになりました。が、第1陣よりも更に自立心の強い子が多くて、

「まだ親に養ってもらった方がいいんじゃないの?」

と思われるような小さな子がパン屑に突進してきます。

「親はどこへ行った?」

ってこちらが少し心配になるくらいです-;。

24年6月27日

 本日は外作業のみ。梅雨になって湿度が上がり、気圧が下がり、で疲れます。姉と工事のこれからについてあれこれ話しました。

 それからレンズをあれこれ買ったので、カメラ修行をしています。AF-SのつくGレンズならはっきりしゃっきり写ります。

DSC_0030
nikond70
AF-S DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6G VR

24年6月24日

 本日は午前中草刈り、草むしり、午後は外作業でした。

 須佐之男と聖徳太子が習合したものを祀るのを、「須佐之男型太子信仰」というとします。聖徳太子は木工の神でもある、というのが良くある太子信仰ですので、この場合の須佐之男は「五十猛神」の性質も含んでいます。五十猛神は木工芸の神だからです。で、諏訪神の子神といわれる「彦神別神」が五十猛神のことだとしますと、その親神は須佐之男ということになります。ということは

諏訪神とは須佐之男のことである

となってしまいます。そうだとすると、こんな神話ができそうです。

須佐之男は天界を追放されるか、あるいは派遣されるかして地上にやってきました。最初は悪竜を退治したり、天照大御神に地上の穀物などを献上したりしますが、そのうちに高天原の地上征服の理念を忘れて、国津神に味方するようになりました。そのため、須佐之男は謀反の罪に問われて、殺されるか、あるいは更に追放されるかしました。地上の人々から見れば、良い神がやって来てくれたのに、結局彼は「謀反の罪」で殺されてしまう(場合によっては)悪人だったのです。

このような神話にすると、「地上にやってきて竜退治をするような良い神となった」という部分が須佐之男パートで、「天界のやり方に反対して謀反の罪を問われた」という部分が諏訪神パートになります。2つの別々の神々の神話が一つになってまとまってしまいました。で、これを原本にして、あとは都合の良いように神話を書き換えれば良いのです。例えば、鎌倉時代には「竜退治」のエピソードがあったのに、それが邪魔になったから室町時代には削除してしまうとか。別の例では、須佐之男を最初から「地上の王」にして、3人兄弟の末子という設定にして「苦労して別世界をさまよったけれども、しまいには諏訪の王になった」という話にすり替えてしまうとか。そうやって書き換えているうちに、元々のネタが

須佐之男と諏訪神を習合させるための合成神話だった

ことが分からなくなるまで変形させられてしまうこともあり得ると思います。なぜ、こう書くかというと、長野県の周辺には

「良い人だったけれども、謀反の罪で殺された先祖がいる。」

という話がゴロゴロしているわけで、私はこれを

「八面大王型説話」

と呼んでいるわけですが、奥飛騨の両面宿儺、山梨の神話、上野の多胡羊太夫、そして信濃の八面大王とあるわけです。八面大王の伝説はけっこう新しいものの気がするわけですが、多胡羊太夫なんかはかなり古い伝承です。しかも、両面宿儺と羊太夫は五十猛神の信仰と近接してる。八面大王は安曇野の伝承ですが、彦神別神が五十猛神のことだとすると、近くに信州新町の水内神社があります。要するに、これらの伝承は

須佐之男型諏訪神

の合成神話を民間伝承化させたものであり、五十猛神を名前をちょっとだけ変えて祖神としている人々、すなわち北信濃の金刺氏が作ったものではないのか、ということになります。要は諏訪神を須佐之男化するのに力を尽くしたのが、北信濃の金刺氏で、たいていの北信濃の「諏訪神社」の諏訪神は須佐之男がなりすましているもの、といえるのかもしれません。そして、諏訪の歴史とは、上社諏訪氏の力が弱まる時に、こうやって神話を書き換えようとする歴史であった、ともいえるのかもしれません。

 一方、上社の方は、祭神を諏訪神と守屋の神に分けて、そしてともかく古来からの祭祀を、守屋の名前の元にかたくなに守ることこそが最優先である、としてきたように思います。だから、上層部の祭祀は変わるかもしれないけれども、庶民の祭りと神は「ミサクチ様」であり、上の方の神話は自分たちと何か関係がある? という状態で続けられてきたし、神長官家の役割も古い祭祀を続けること、であったように思います。そして現代では茅野の尖石縄文考古館と富士見の井戸尻考古館が、縄文時代の祭祀を伺わせる土器を大量に保有しており、ともかく、古い祭祀と文化をかたくなに守ることこそが、上社に関連する人々の最重要事項である、現代でもそうである、と言わんばかりな気がします。似たように古い祭祀にかたくなにしがみついてきた神社を2つばかり知っている気がするわけで、それは三重の多度大社と愛知の国府宮です。でも私が行ったら、多度大社は馬に過酷であった神事を変えました。国府宮は女人禁制の祭祀を変えました。あらあら、と思います。

 というわけで、上社は本殿に須佐之男化した諏訪神を置く一方、真の祭神、というよりも「信仰を守るよりどころ」としての守屋を真のご神体としているように思います。

 一方、金刺関連は「末子流譚」といえる甲賀三郎神話を作り上げました。これは単純に応神天皇(八幡神)を諏訪神と習合させる目的であったと思います。で、しまいに善光寺の彦神別神も八幡信仰に置き換えられることになります。となると、八幡神は須佐之男化諏訪神ということで、

八幡神も須佐之男である

ということになります。しかも応神天皇のままだと強力な母神である神宮皇后の威光が避けられませんが、甲賀三郎になると「おっかさんは誰とも分からず」ということになって、「母系の影響」というものを強力に排除できます。だから、甲賀三郎神話とは、そのようなことを目的とした神話である、と言わざるを得ません。善光寺の信仰と連動している匂いがしますので、当然神話の成立には北信濃の金刺氏の影響が感じられるわけです。

24年6月23日

 梅雨です。朝から雨が降っているので外作業はお休みです。そして買い出しに行ってきました。久しぶりにのんびりしています。

 カメラ修行を始めたので、レンズのファームウェアのバージョンアップをしました。lumix gf2は使い方を覚えれば、便利機能もあって楽しく使えそうです。でも、マニュアルで露出とか絞りとか、用語だけで目が回っている感じです;。印刷したときに普通に綺麗な絵が撮れるのはgf2です。ただ、「一眼は一眼」なので。どんな仕様のカメラであっても、はっきりしっかり写る気がします。

 少し諏訪信仰の勉強をしようと思って、「諏訪信仰の変遷」という本を買ってみました。が、普段は忙しくてあまり読む暇がありません-;。まださわりを読んだだけで、「諏訪大明神絵詞」は円忠のバイアスが入っている。それ以前の諏訪信仰は云々というあたりです。

 諏訪信仰というよりも、長野県周辺の「なんちゃって信仰」を見るときに、「名前がちょっと違うものは、違うものなのか、それとも同じものなのか。」という問題に必ずぶち当たります。有名な一例として、山岳修験道で

「修行僧は修行を積めば死後天狗になれる。」

という説があります。人が死んだら仏になるのが仏教であるならば、天狗になっちゃダメじゃん、お釈迦サマが天狗なんて知っていたはずがない!!! はずなのに、何故かこれが仏教扱いになっていて、

「なんちゃって仏教」

としか思えない様相だったりします。天狗と仏では言葉的にはだいぶ違いますが、イメージとしてはどちらも天上界の存在であったり、色々と人間を越えた優位な性質や地位を持っていたりする点は共通点です。だから、いつから「仏法の神々」の中に「天狗」が混じり込んで、同じモノみたいな顔をし出したのかは明らかではありませんが、でも正式なお釈迦様の仏教から見たら、どうみても「天狗」なんて仏様を真似ただけの

「なんちゃって仏教」

としか言えないでしょ。孫悟空ですら仏教の神というには危ういのにーーー、と思う。天狗は仏と同じなの? それとも違うの? 孫悟空もそうだけれどもさあ?? と思うわけです。

 で、室町前の正規に近いと思われる諏訪信仰を見ると

「諏訪の神とは天竺の王で、守屋に謀反を起こされ、他国に逃げて悪竜退治をした。」

とあるわけです。そもそもインドに「守屋」なんて日本風の名前の人がいたの? となるわけで、そもそも円忠のバイアスもあるけれども、鎌倉時代の「縁起」もいろんな意味で「露骨」であると思う。

「守屋」というものが謀反を起こした、というと「物部守屋と聖徳太子・蘇我氏との対立」を連想させるわけで、この「連想ゲーム」からいくと、「天竺の王」とは聖徳太子に類似しているわけです。で、他国に逃げて悪竜を退治するところは須佐之男に類似している。すなわち、須佐之男と聖徳太子を習合させたものが「諏訪の神」であると言っているわけです。「守屋」というキーワードはあくまでも連想的に、「須佐之男と聖徳太子を習合させる」という意味を持つように思う。

 でも、上社のご神体は守屋山ですので、守屋が悪者である、とすると、そもそも縁起と祭祀の間に乖離ができてしまいます。ご神体が悪者で、神様はご神体とは違うものなの? となってしまいます。そこで、つじつま合わせであるかのように、諏訪に侵入した諏訪の神が「守屋の神」を倒した、という伝承があるわけで、そこまでいくと現実の聖徳太子・物部守屋との対立の歴史から伝承がかけ離れてしまいすぎて、連想ができなくなってしまうわけですが、ともかく、上社には「二重の信仰、二重の祭神」があって、本殿に聖徳太子+須佐之男、神体山に悪者・守屋が存在するわけです。で、鎌倉時代までは露骨にそのような構造だったわけですが、室町以降、「諏訪の王」の竜退治を割愛したりして、諏訪の神から聖徳太子+須佐之男の影を隠すように縁起や神話が再構成されるようになっていくわけで、これこそが「円忠のバイアス」といえると思いますが、円忠の前にだって何らかのバイアスが存在していて、それが更に酷くなったのが円忠版といえます。

 なんだかんだ言って、非常に興味深いのですが、上社は後戸に守屋、本殿に聖徳太子+神(須佐之男)、善光寺は後戸に聖徳太子+神(須佐之男あるいはその子神である五十猛か?)、本殿に守屋がいて、上社と善光寺で配置が逆になっているわけです。この五十猛神は、建五百建命(科野国造、金刺氏の祖)と非常に名前が似ていまして、ここでも

「同じなのか、違うのか」

という問題が出てくるわけですが、これを「同じもの」とすると、諏訪氏の上社では守屋を上位に置き、金刺氏の善光寺では聖徳太子+神(須佐之男)を上位に置いている、というように見えます。物部守屋は仏教の伝来に反対し、古くからの神々の祀りを守ろうとしました。諏訪大社上社でも縄文系の古い祭祀は大切にされ、守られてきました。一方聖徳太子の仏教は天狗が跋扈し、治水と称して人身御供を求めるような

「なんちゃって仏教」

ですので。円忠の後ろにいたのも、金刺氏とか善光寺に近い筋のもので、相当に有力なものだったのではないのですかね。でなければ、北信濃だけで豪族の優位性が認められて、正規の幕府軍を追い払ってもとがめられない大塔合戦なんて成立するわけないでしょ。義満は義満で強権で有名な将軍なんだから、と思うわけです。

ということで、北信濃にしかいない「彦神別神」とは「五十猛+聖徳太子」のことであるらしい。これが後に「八幡」に置き換わるわけですから、「八幡」とは「五十猛」のことである、と述べているも同然です。すなわち、新羅に下って日本にやってきた応神天皇を五十猛と同じもの、と言いたいわけだ。こうして、皇室との強力な「血のつながり」を常に常に「暗に強く主張する」金刺氏である。なんか、大声では言いたくないらしいです。

 ということで、カメラのレンズを買って、ここまでものが見えるようになりましたとさ。私は常々、聖徳太子と須佐之男の習合の伝承を知りたいと思っていたのですが、ようやく一つ見つけたように思います。

 今日の昼は先週の「ニノさん」の録画を見ました。

24年6月16日

 本日は外作業のみ。最近は暑い日が多いので温度計に気をつけています。それからウォークマンがダメになったので購入したMP3プレイヤーにようやく曲を入れて聴き始めました。

 昨日の夜は「夜会」の録画、今日の昼は「東京タワー」の録画を見ました。