23年11月5日

 本日は外作業と買い物。母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃でした。

 昨日は一般道を通って岡崎まで行ってみよう、ということで高速を飯田山本で降りて、国道153号線を南下し、足助から三河方面へ向かって進みました。参拝は和合神明社、(出雲系神社)、素戔嗚尊神社、岡崎天満宮、犬尾神社、糟目犬頭神社、比蘇天神社でした。足助から南下する国道は、ごく一部ですがセンターラインがなくすれ違いが難しい箇所があり、微妙に「酷道」がかっていました。和合は龍とか民間伝承の里でもあるらしく、時間に余裕があれば、いつかゆっくり尋ねてみたい、と思いましたし、うちの田舎の伝承と比較研究したら、それだけで興味深い考察ができるのではないか、と思いました。奥三河には加茂という地名もあることですし、同族の匂いがぷんぷんする感じである-;。

 で、岡崎周辺は個人的には面白く感じたのですが、山を降りてくると、山なのにいつの間にか高速(新東名)が見えてるし、いつの間には里的農村から市街地に入っている、みたいな。なんでも、すぐに景色が変わってしまう気がして。

 素戔嗚尊神社、丁度新東名が見える位置、そして川(乙川)の脇にある神社で、名前は素戔嗚尊神社なのですけれども、須佐之男のことは「素戔烏」と立て札にあって、どん引きする、というか、

素戔烏って、カラスなんですかね?

と思う。神話世界ではカラスといえば、八咫烏ですし、八咫烏といえば賀茂建角身命である。また、八咫烏といえば熊野であり、現在では熊野といえば須佐之男がその祭神の一角でもある。素戔烏がカラスであって、しかも熊野に関係する神でもあるとなれば、素戔烏そのものが八咫烏あるいはカラス達の頭領という位置につけるように意図されてつけられた「素戔烏」という名と思われる。だけど、

素戔烏が八咫烏であれば、素戔烏は賀茂建角身命でもある。

ということになるよねえ? 妻の明らかでない賀茂建角身命の「妻」とは誰のことを想定しているのか、といつも思うわけですが。それと同時に、賀茂系氏族の一派には、「須佐之を祖神扱い」にする集団がいるわけで、その根拠はどこにあるのか? と、いつも不思議に思っていたわけですが、

素戔烏とは賀茂建角身命のことである。

となれば、「そりゃまあそうだ」ということになる。「須佐之男を祖神扱い」とは、例えば長野市界隈では

「少彦名命が祖神である」というような伝承が1箇所だけある。この場合の少彦名命とは、大国主命の従神扱いの少彦名命ではなく、元は開拓神であり、日本武尊のような征服伝説も伴っていたものと思われ、「天神」として扱われる。このような「少彦名命信仰」は関東西部にもところどころに見られる。でも、長野市付近には少彦名命を天神とする神社はほとんどないので、これが一番古い形の「祖神」なのだと思う。

 次に目立つのは、「祖神」とは言わないけれども、五十猛がちょいちょい祀られていることで、五十猛神が祖神となれば、その父神は須佐之男とされているので、須佐之男が祖神扱いされるのは妥当といえる。でも、更埴(千曲市)の須須岐水神社では、これを「武五百建命」と書き換えて、初代信濃国造とし、神武天皇の子とされる神八井耳命の子孫とし、須佐之男ではなく、天皇家の系譜に結びつけている。でも、五十猛信仰は奥飛騨にあり、現代の足立区付近にあったと思われ、横浜にも杉山という言葉に対する古い信仰がちょいちょいあるので、紀州初の賀茂系氏族の(おそらく)祖神としての神として古くは存在していたものと思われる。長野市界隈は、弥生時代にお偉いさん達の先祖が入植して以来、権力の変動がないので有名な地域なので。祖神が、少彦名命から五十猛神、そして武五百建命へと変化しているのは、子孫と称する人が変わっているのではなくて、あくまでもお偉いさん一族が、その時々の都合に合わせて、先祖を変えているだけなんである。でもって、五十猛神とそれに伴う「丹生」という地名的な言葉を消してしまった辺りで、自分たちの「賀茂臭」を消し去ってしまって、単に「多氏」と名乗るようになるわけです。

 でも、多氏の先祖が五十猛神であって、須佐之男が賀茂建角身命ということになれば、多氏の先祖は須佐之男であって、多氏だらけの長野市界隈で五十猛神と須佐之男に対する信仰があれば、それは「賀茂臭」を消した賀茂氏の一派の信仰、ということで整合性がとれる、ということになる。それと共に、少彦名命にも疫神としての性質があるので、その性質が須佐之男にも受け継がれた、となれば津島的な疫神須佐之男信仰は、その起源としては賀茂の疫神少彦名命信仰が考えられても不思議ではない。

 で、長野市には「尾張部」という神社があり、尾張国あるいは尾張一族との繋がりも示唆されるわけです。この神社は平安時代に尾張国から入植した人達が作ったというような由来が語られているわけですが、あたくしは個人的には起源はもっと古いと思っています。何故なら、微妙な「山賊を退治した」という主旨の東征伝説が残っているからで、これはおそらく、隣地区で語られる少彦名命の開拓伝説と対をなす「同じもの」を指す逸話と考えるからです。しかも、尾張部って長野でも水害が起きる可能性が限りなく低い一等地なので。そういう土地でかつ稲作ができる平らな地域となれば、弥生の早々に人が入植して開拓した、と考えるのが普通であると思う。元々、そこに住んでいた縄文系の人々は

「住んでいるだけで山賊」

ってことで、全員殺して川に流してしまったのだと思う。多分。・・・根性が悪くて腐ってるうちの先祖に他に何かする能があったとも思えないですからして。だいたい自分たちは、人の死体を食う烏の子孫だなんて名乗るかね、ふつー、と思うあたくしである。

 ということで、自分たちが賀茂の烏の子孫のはずが、なんで須佐之男も暗に先祖扱いするのか、という謎が岡崎で解ける@@。そもそも

須佐之男が八咫烏

なのである。しかも、そういう字を宛てている神社なんてそこだけだし、となる。しかも乙川という川が近くに流れている。乙姫とか常世信仰の匂いがするような気がする。

 でもって、奥三河の山の中での怪奇現象・・・・

「そもそも豊臣秀吉って人たらし、と言われるような人好きのする見てくれの人だったわけでしょ。雰囲気が。でもその一方で朝鮮の役を起こしたりして、人を虐殺することもなんとも思わないような人物でもあった。中国の神話で語られる啓というのも、そういう人物だったんじゃないの?」

と言われる気がしたわけです。でもって

「秀吉の息子の豊臣秀頼は「聖徳太子の生まれ変わり」と言われたりしてる。秀頼が聖徳太子の生まれ変わりであるならば、啓と聖徳太子は秀吉と秀頼であったときに、親子として一緒に暮らしていた時があって、互いに既知の仲なんじゃないの?」

と言われる気がするわけで@@。

・・・・今アマテラスと蛇の兄さんは、どっかの前世とやらで夫婦だったから、今でも夫婦だし、既知の仲だと思って当然・・・ってそう思う向きが世間にはあるような気がしてならない・・・ミタゾノとか?? と思うわけですが-;。

 それと同じで、今スサノーと啓もどっかの前世で親子であって、既知の仲だとみんな思ってる? とゆーか、その2名の接点をずっと探してたんだけど?? と思う@@。奥三河でなんか変なことを言われる気がする@@。

 でもって、岡崎につくと昼である。お昼を食べて、「どこから回ろうかな-」と思って地図を見たら、犬尾神社と糟目犬頭神社に特に印がついていて。犬をばらして怨霊化して使役するなんて、八面大王みたいだし。しかも、犬を怨霊化するというのは、東国に拡がる山犬信仰(狼信仰)とも関連するし、「死んだ犬」を祀るのは信濃の早太郎伝説にもつながるし。しかも、日本的には「悪い神」を退治して、非業の死を遂げた者は、自分も悪い神になって人身御供を求めるようになるので、ともかく人身御供を求めるような「犬神」は迷惑だし、先祖の槃瓠サマを愚弄するものであろう、と思うので最優先して行く。そうしたら、糟目犬頭神社に

犬の首とは、新田義貞の家臣が義貞の首を公然と弔うために述べた方便であろう

というようなことが書いてあった。要は、「犬の首」とは「義貞の首」ということらしくて。まあ、それはそうかもしれない、と思います。でも、対になる「犬尾神社」があるということは、義貞公とは別に犬を怨霊化する犬神信仰があったのではないか、と思う。義貞公自身は人格者で良い人なのだけれども、非業の死を遂げた、ということで、群馬でも会ったし、けっこうあちこちで見る名である。

 で、岡崎と言えば、徳川家康であり、家康といえば、新田義貞が先祖である、と主張した人である。で、当然義貞公の首が埋まっている、という糟目犬頭神社は大切にしたと思うわけで、拝殿に徳川の紋があったわけですが。でも、家康は「葵の紋」であるからして、賀茂の一族の者であるし、「犬の頭」を義貞公に引っかけて、敢えて先祖として祀るのは、暗に遠い先祖の犬の槃瓠サマを祀っているともいえるのではないか、とああたくしは思ったわけで。みんな、自分がどこの誰の子孫かはけっこう知っているものである。であればこそ、ますます槃瓠サマに「犬の怨霊化」の呪いをかけるわけにはいきますまい? ということで心して参拝したわけですが。帰りにその界隈から出られなくなって、3回も犬頭神社に行ってしまって@@。兄さん達に

「動物霊の扱いに慣れてないから、振り回されてるね。」

と言われる気がするわけで@@。烏とか犬とか、岡崎は動物霊の集まるところですか@@、と思う。敢えて「行け」と言われる重要な地であることが分かる気がしました-;。