昨日は岐阜落合城址、馬籠熊野神社、茅野御座石神社、宮の前子之社、下坂子之社、白山宮、柏原神社を参拝してきました。御霊と怨霊と呪いまみれな感じ-;。
前回中津川に行った時に、帰りに恵那山トンネルを走っていると、なんだか知らない人が話しかけてくる気がするので、「何か見逃していることがあるのかな?」とは思っていたわけですが、ともかく家に帰って調べたら、義仲の家臣の落合五朗という人が城を構えていたらしい。なので、行く。しかも馬籠には義仲の妹である宮菊姫という女性が縁があるらしいので馬籠にも行く。で、峠には熊野神社もある。で、落合五郎さんを拾ったあと、馬籠に向かったわけです。
だいたい恵那神社で「神坂」とは、「イザナギとイザナミの2神が越えた坂」という意味があると知ったわけですが、神坂峠にある神坂神社って海神を祀っていて、イザナギもイザナミでもないのは変じゃない? と思う。碓井峠の例もあるし、この2神を「境界神」として境界に祀ってもおかしくはない、と思う。まして神坂はこの2神に関係のある土地だから。で、馬籠で宮菊姫にゆかりのものはちょっと見つけられなかったわけですが。そうしたら「熊野神社へ行こう。怨霊はたいていそこにいる。」と言われる気がするわけで@@。
で、「義仲と妹」ってどういう意味を持つのだろう? と思う。そうしたら「イザナギとイザナミは兄妹でもあるでしょ。宮菊姫はイザナギとしての義仲に併せて、イザナミになぞらえられているし、名前から菊理姫にもなぞらえられている。要は、イザナミと菊理姫は元々一体のものであって、「同じもの」として考えることができることを示している。」と言われる気がするわけで@@。というか、その2つは「別のもの」として考えることもできるし、どっちでも都合の良い方にスイッチを入れることができるんだねえ?? と思う。というか、義仲が「須佐之男」の名前を持っていたとして、その妹が「イザナミ」の名前を持っていたのなら、義仲が「イザナギ」の名前も持っているということ?? と思う@@。というか、その2人の兄妹は、「どっちも生まれ変わる性質」を持ってるんだ? と思う@@。
というわけで、誰が「イザナギ」なのか、ということを突きつけられる気がする。境界の神社はへんなもの隠してるしなーーー、と思いつつ、帰途につく。
で、朝早く出かけたので、19号線をとことこと北上して、お昼には塩尻につく。このまま帰るのもなんだし、ということで、茅野から152号線、古い「大門街道」という道をたどってみることにする。(ちなみに中山道は国道142号線の方-;)
で、白山宮。元々神仏習合の場で、仏教色の方が強いのだけれども、なぜか神社で、ご神体が千手観音だそうで。本地垂迹では菊理姫は十一面観音であって、千手観音はイザナミの方なのですが。どうも、千手観音を白山の菊理姫とつなげることで、イザナミと菊理姫の一体化も画策する呪法の神社か? と思ってしまう。こちらの昔の仁王さんは茅野の善光寺にあるらしい。
子之神社系。「子」のつく神といえば、一般的には「子(ね)」と読むことから「ネズミの大国主命」が相当するように思うわけですが、どうも諏訪全体では、「子之神」を建御名方富命に結びつける傾向もあるらしい。でも、もっと全体としては水神扱いだよねえ? と思う。水神で上流から流れてくる神なら、疫神で祟り神になるわけですが-;。
柏原神社。主祭神は諏訪神で、天照大御神も祀られていて、武田信玄が戦勝祈願をしたりしたこともあるらしい。で、現在は駒形社も併合さえているらしい。元は神仏習合の神社らしくて、境内に仏像と神馬の像が並んでいるようなシュールな神社さんであって。で、蚕の豊穣を天照大御神に願って、村人が祀っていたりもしたらしい。他に八千矛神も祀っているらしい? そして、こちらの諏訪神は軍神としての逸話が多いというか、強調されているそうで。
・・・・というか、「天照大御神に蚕の豊穣を願うあたりで、すでに馬頭娘すなわち「殺される女神」扱いでは?」と思う。しかも、「駒形社」ってゆったらさあ? 駒形岳駒弓なんじゃないの、それ? 善光寺そのものじゃん? と思う。そこに「八千矛神」が絡む、ということは、八千矛神が馬で、望月の駒でもあるってことだよねえ? と思う。で、馬ってゆったら須佐之男じゃん? となる。要は、そこは八千矛神と須佐之を習合させて、天照大御神を食い殺す軍神に仕立て上げろ、ってそういう主旨の呪法がかけられてないかい? と思う。しかも、善光寺では、その「八千矛神」が彦神別神を経て、八幡神へと変遷している。すなわち、善光寺式の「習合主義」には3つの呪術が込められているように思う。
一つは「天照大御神と「殺される女神」の習合」である。これによって天照大御神は「殺される女神」とされてしまう。要は、善光寺の裏で祀っている「大宜都比売」とは善光寺式には「天照大御神」のことに他ならないわけだ。そして、そのために日本神話の正式な書から「月の女神」は削除されているし、有力な「天の女神」も属性が曖昧にされて「月の女神」とも「太陽女神」とも言われない。特にそういう曖昧な性質が顕著なのは出雲の下光比売命であって、この女神は太陽女神とも月女神とも星女神ともとれる名前だけれども、その性質は明確にされず、名前を聞いた人が勝手に解釈できるようになっている。
二つめの呪術は軍神である「八千矛神」と須佐之男の習合である。「八千矛神」はトランプのジョーカーみたいな性質で、「軍神」であるというのみの神であるように感じる。だから、大国主命でも諏訪神でも須佐之男でもイザナギでも、「軍神」としての性質を持つ神と組み合わせて一体化させることで、どの神でも「八千矛神である」といえるようにしている。要するに、下光比売命と同じで名前を聞いた人が勝手に解釈できる神である。で、これが大門街道から善光寺に至る馬神信仰圏の中で、「八幡=彦神別神=諏訪神=大国主命=須佐之男」を結合させる役割を果たしていて、誰も彼もが女神を食い物にする「男の馬神」に変換されているように思う。この場合、食い物にされるのは天照大御神である。
三つめの呪術はイザナミと菊理姫の習合である。
で、これが善光寺式の「馬と女神」の信仰の実態であるならば、善光寺とは須佐之男という馬とか鹿に天照大御神を食い殺させよう、というそーゆー主旨のお寺なんすかねえ? 駒形岳駒弓ってゆったら「善光寺の奥の院」だし、そのための彦神別神であるならば、そういう習合主義は多氏が強く関連しているし、関連している多氏ってどこにいるのかねえ? 水内大社のあるとことかねえ? と思う。
飛鳥には大和神社ってあって、「八千矛神」を祀る。この神が「天照大御神を食い殺す神」であるならば、纏向から天照大御神を追い出した後に八千矛神を配すことは、「天照大御神が戻ってこないように」という呪法でもあるように思う。だって、戻ったら食い殺されてしまうじゃん? だから、「須佐之男が天照大御神を食い殺してしまうように。」という呪いは善光寺を中心に広く深く潜伏しているけれども、その始まりは飛鳥の地に、大和にあるのだと思う。
というわけで、落合五朗を連れて諏訪に行ったら、なんだか「落合五朗が諏訪に戻ってきた」とざわつかれたような-;。信濃国の修験道の深淵に触れた気がした一日でした。