本日は外作業のみ。母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、私は土の清掃でした。
今日の昼は「ブンブブーン」の録画を見ました。
本日は外作業のみ。母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、私は土の清掃でした。
今日の昼は「ブンブブーン」の録画を見ました。
本日は雨が降ったので、近間に出かけよう、ということで佐久英多神社、上田安曽神社、塩野神社を参拝してきました。県内は式内社の参拝し残しを回る、ということで、神社巡りも佳境となっています。東海では須佐之男のことを「進雄」という漢字で書くことが多くて、最近ではそれは「津島信仰」の須佐之男のことを指すのではないか、と思うようになりました。
新城市の富永神社は長篠の合戦の翌年に領主であった奥平氏が平井郷の産土神であった天一天王社を勧請したもので、「牛頭天王若宮」と称されことに始まる、とのこと。須佐之男信仰に関する「若宮」には2種類あって、一つは「イザナギの子である須佐之男」のことを指す場合と、津島信仰の場合には尹良親王を指す場合があるわけです。津島神社で「若宮」って言ったら「尹良親王」なのですね。だから、富永神社は「天一天王」を祭神とすれば須佐之男を祀っているのだけれども、「午頭天王の若宮」を祭神とすれば古くは尹良親王が祭神であったか、祭神が尹良親王と須佐之男を習合させたものであった可能性が高いと思うわけです。で、尹良親王は「戦いに敗れて非業の死を遂げた怨霊(御霊)」であるわけですから、「津島の須佐之男」とは「天照大御神と戦って地上に追放された(=非業の死を遂げた)怨霊」として取り扱われており、「祟って疫病をばらまく疫神」であるから逆に疫病を操る神=疫病を鎮めることもできる神、とされたのだと思います。津島神社の創建は平安末期であるようなので、室町時代の人とされる尹良親王は後付けで津島信仰に取り込まれたのだとしても、「怨霊としての須佐之男(進雄)信仰」は平安末期には確立していたのだと思います。で、富永神社の祭りののぼりにも須佐之男のことを東海らしく「進雄」って書いてあったわけです。「進雄」というのは、もしかして須佐之男のことでもあり、尹良親王のことでもあるのか? と思う。
で、佐久へ行ったら英多神社に「進雄神社」という末社があって。東海と同じ書き方をしてる。津島信仰だー、と思う。進雄君が尹良親王のことでもあるならば、最近はどこへ行っても進雄君としか関わってないし-;、とも思うし、「熱田、三河、南信、諏訪、佐久、(そして秩父)」へと人の流れと文化は続いていたんだなあ、とも思う。そして、この道の流れこそが弥生の「東征」の文化であると思うのです。(ちなみに富永神社の山神社にはこれも東海っぽく、最近のものではあるけれども狛狼が奉納されていました。狛狼の文化も長野県にちょっとだけあって、秩父、埼玉西部へと続いて、連続性のある文化である。)
で、佐久へ行って言われたことはただ一つ。「西洋医学とは、普通の人の状態を「正常」とみなして、それとは異なる状態を「病気」として取り扱うものである。だから、病気は原因では現すことができない。例えば感染症で具合が悪いものも「病気」だし、酒や薬物で意識が朦朧としたりすることも「病気」である。西洋で疫病を流行らせる神はアポローン・ヘリオスという太陽神であって、ネズミの姿で現される。それを癒やすのはアスクレピオースという医者神であるけれども、この神はアポローンの息子とされているので、アポローンから枝分かれしたもので、元はアポローンと同じものだったと思われる。一方、薬物による意識への作用を司るのは酒神であるディオニューソスである。要するに、アポローンとディニューソスは共に人々に病気をもたらす神であり、元は「同じ神」であったものが2つに別れた、といえる。要はアポローンとディオニューソスとアスクレピオースは「同じ神」であり、「息子神」でもある。メソポタミアの神話ではネルガルあるいはマルドゥクと同じものであって、ネルガルやマルドゥクは「アポローン・ディオニューソス・アスクレピオース」の性質を併せ持つ神といえる。日本神話ではこれが須佐之男といえる。だから、須佐之男は疫神であり、酒(薬物)の神であり、医者神であるのである。そして、他の地域の神々と同じように軍神でもある。ローマ的なイエス・キリストとはアスクレピース的な医者神と息子神である点を強調しているけれども、それは古い神話の焼き直しに過ぎず、結局は「アポローン・ディオニューソス・マールース(軍神)」に対する信仰なのである。」と。・・・要は「医者の神」であるということは「軍神」であり、「酒(薬物)の神」であり、「疫病神」でもある、ってそういうことですよねえ? と思う。そして、よろしくない神であるので、怒らせると戦争を起こしたり、疫病を流行らせたりするわけだ。例えばエイズとかコロニャとかさあ? と思うわけで-;。・・・なんというか、戦国時代における善光寺平は信玄と謙信が争った地であって、南の方は信玄が優位であったけれども、どちらも善光寺は大事にしていた。なんでって思うわけですが、どちらも善光寺とその後にいるお偉いさんには手は出せない。相手は表向きはただの農民であったりするのに何故? と思う。だってさあ、信玄にとっても謙信にとっても、津島は遠く手を出せない地域である。津島ってのは要は、「生物兵器テロ実働集団」だったんじゃあないんかねえ? 彼らの「進雄君」ってそーゆー感じの神サマじゃん? と思う-;。お偉いさんに逆らったらさあ、遠い津島から山伏だか忍者だかが入り込んで領地が滅びるほどの疫病をばらまかれるとなればさあ? 相手がどんなに貧しい姿をしたお乞食サマみたいな人でも、どんなお殿様でも逆らえないじゃん? 人は見かけによらないって言うしさあ? と思うあたくしである。
でもって、家に帰ってきてテレビをつけたら「ミタゾノ」の新シリーズが始まっていて。深夜帯からゴールデンにお引っ越し、ということでテーマは「お引っ越し」・・・もあるのだけれども、それは半分だけである。メインゲストの松本まりか嬢は、タワマンの頂上に住む若奥様で旦那は大金持ちらしい。でも、束縛が激しくてモラハラ気味な旦那なので、若奥様は逃げだしてしまう。で、田舎に逃げ込んで古民家カフェをやろるとするけれども、ビジネス・パートナーには結婚してることは内緒である。しかも、田舎の自治会は縛りがきつくてあれこれ働かされるので、自分のやりたいことをやる時間がない。で、ビジネス・パートナーも嘘つきでうまくいかないカフェを若奥様に押しつけて逃げる気だったことが発覚するし、自治会長のじいさんも自治会費を着服して儲けるようなちゃっかりじいさんであることが発覚する。そこで、奥様はタワマンに逃げ帰り、そこでカフェを始めることにして、めでたしめでたし・・・というのが新生ミタゾノの第1回。・・・それってさあ、「かぐや姫」のことだよねえ? とすぐにピンとくるあたくしである。かぐや姫は何事かあって、月から地上に降りてくる。地上の男と結婚しそうになる? というか、なるけれども、結局タワマンの頂上じゃなくて月に帰ってしまう。かぐや姫に借金をおしつけようとした「代議士の息子」というのは「帝」かなんかのアレンジバージョンだと思う。だけど、かぐや姫がカフェで作って出す料理とは「不老不死の薬」のことなのだと思う。
・・・だけど、「天下のミタゾノ」だから、「かぐや姫」なのは6割だけどいえる-;。残りの3割はハイヌウェレ、更に残りの1割はオオゲツヒメと丹後半島のトヨウケヒメじゃん? で、そこに「コノハナサクヤヒメ」をスパイスで足している、ということで、少なくとも、かぐや姫とハイヌウェレとオオゲツヒメとトヨウケヒメが「同じもの」であることを知っている人が作った話だし、それ、と思う。しかも古民家カフェになにげに修験道の「八方輪」が飾ってあって「おいおい」って感じである-;。かぐや姫は、天上から逃げ出して田舎に来たのは良いけれども、かぐや姫が拾ってくれたじじばばに財貨をもたらしたように、拾ってくれた自治会のじじばばのために働いて、彼らに財貨をもたらしている。しかも、内容は都会から来た若奥様にはいじめといえるような内容である。束縛の激しいモラハラ旦那は、妻に暴行を振るう須佐之男そのものである。そして、若奥様をこきつかう田舎の人々は当然「農民」である。「コノハナサクヤヒメ」はその名の通り「木の花」であるので植物神である。要は、「農民は植物を育てて、殺して食べる。それによって財貨も得る。」ということで、タケノコの娘は、育てられ、利用され、食べられ、天から下されたものであるけれども、また天に帰る、というのが「かぐや姫」なのだ、ということが分かる。ハイヌウェレとの違いは、ハイヌウェレは里芋で、タケノコじゃないってことだけである。・・・要は「農業ってそういうものだろう。そうやって農業をやって何が悪いのか。」と農業を始めたといわれる炎帝の子孫はそのように言うと思う。・・・それは別に悪くないさー、だけど人間の若い娘を植物に見立てて利用して殺すのは犯罪なので。そこの見境をつけなーー、と思うあたくしである。
ということで、「かぐや姫」に「天上に戻ってきて、モラハラ旦那と不老不死の薬を作れ(要は「医者をやれ」)」というメッセージが込められたミタゾノである。あたくしは「かぐや姫」じゃなくて、太陽女神なんだけど? と思うあたくしであった。・・・天上に戻るならさあ? ストーカーなモラハラ旦那をまず地上に突き落として追放する? 天照大御神よろしくさあ?? と物騒なことをちらと思ってしまったりして-;。
後は何とかの性加害問題。もちろんよろしいことだとは思いませんが、厳密に「法的」な対処を求めるのであれば、会社に監督責任を求める、とかそんな感じになるのかなあ?? とか思います。民法は誰が誰に何によってどのように責任を取るのか、を明確に求めるので、当事者が死亡していたら、最大の責任者には責任を追及できなくなります。で、なんというか、あたくしのごく若い頃には「風となんとか」っていう、なんですかねえ、成年の男が、未成年の男に性的強姦をして人格を破綻させるのを素敵なことみたいにみんなが賛美する少女漫画があったような気がするのだけれども、あたくしの記憶違いだったっけ? と思うあたくしである-;。要はジャニー氏が生きていた頃、特に若い頃は、そーゆーことが「素敵なこと」とみなに肯定されるような時代であったので、ご当人も特に悪いことをしているという意識はなく、むしろ社会的に素晴らしいことをしている、と思ってたかもしれないけれども、死んだ途端にコンプライアンスが180度ひっくり返って鬼畜呼ばわりされるようになってないかい? と思う節がないわけでもない、というのがおばちゃんの正直な感想である。なんで、こういうことを書くかというと、相手が未成年であったらよりそういうことは「悪い」かもしれないけれども、成人してるから良いって問題でもない、と思うからです。だって、最近のこととしても、いわゆるBL(Boys Love)といって、男と男がいちゃいちゃするような漫画とかがもてはやされる傾向にあるし、その中には上司が仕事上の権利を振りかざして部下の男性を犯して自分のもののようにするものもある。しかも、マイナーな作品ではなくて、けっこうメジャーな出版社からそういう話が出てたりする。そういうことがフィクションであったら、みんなが喜んでもてはやすのに、現実にあると鬼畜犯罪者呼ばわりなんですかい? それって、世の中の方がなんか変なんじゃないの? と思う。でもあたくしは若い頃から「風となんとか」は内容も好きではなかったし、描写も露骨過ぎてどうなの? とは思っていましたが。