一昨日は愛知削栗神社、生田神社、日吉神社、町屋八幡宮、阿具摩神社、塩道神社、久多神社、川曲神社、二ノ宮明神、大神社x2、大神神社、爾波神社、前利神社、小口神社、大宮浅間神社を参拝しました。
昨日は外作業のみ。母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付けなど、姉は土の清掃、石片付けなど、私は土の清掃でした。昨日は昨日よりは暖かかったですが、寒かったです。
本日は買い物と健大岡神社参拝でした。
名古屋行きにはいくつか目的があって、一つ目は信濃国周囲の十州+尾張巡りで、各地の一の宮を一通り参拝したので、最後に残った尾張の大神神社を参拝してコンプリートすること。二つ目は信濃金刺氏でも信濃尾張氏でも「同じ事」ですが、先祖の神八井耳命を祀る神社の内、行動範囲にある神社を参拝すること。で、これがまた長野県と愛知県にしかないので。愛知県では一宮市から丹羽郡と割と北の方の木曽川の南側周辺に神八井耳命を祀る神社が集中していて。長野県では犀川の流域に2つと、上田に一つ(千曲川を意識したものか?)あります。信濃尾張氏は尾張国から長野県にやってきたのだし、同祖を祀っている地域が故地に決まってるじゃん? と思う。丹羽郡では「尾張丹羽氏の先祖だから祀っている」と前利神社にあったわけですが、他の地域ではなんで祀ってるのかも書いてないわけで。でも近くに一の宮である真清田と大神と惣社の国府宮があるわけだから加茂系皇族の多氏(別名尾張氏)の関係者が大神社も作ったし、真清田と大神と国府宮にも関係していると考えるのが妥当ではないかなー、と思うわけです。で、三つ目の目的は、阿具摩神社参拝・・・。これは昔は「あくまじんじゃ」と読んだらしいです。現在は「あぐまじんじゃ」と読む。で、地名が「天摩」という地域にあるので、まあ普通に「悪魔神社」で「天魔」という地名と現代的には考えるのが妥当かなあ、と思います。尾張の信長とか第六天(魔王)信仰があったようですし、第六天は時代が下っているので一応仏教系の神であるわけですが、「悪魔神社」って第六天の前進的神なのかなあ、と思う。だいたい、中国も日本も「星神」というのはよろしくない系の神なので、「天魔」というのは星神系の「天の悪魔」のことと思うわけです。西洋の民話なんかと異なって、東洋では悪魔は地獄に住んでいるのではなく、天から降ってくる存在なわけ。そうだよねえ? 津島信仰とかニギハヤヒとかねえ? と思うわけで。天から降ってきた須佐之男の子孫であるところの加茂系氏族はみんな「悪魔」なんでございますな。ということは、弥生系の日本人は全部「悪魔」なわけだ。で、方言とのかねあいで、悪魔の「あ」はあ行の言葉に、悪魔の「く」はか行の言葉に置き換わる可能性があるように思います。地域によって。というわけで、静岡市に、駿河四之宮伊河麻神社(伊賀麻明神)という古社があるわけですが、「いかま」というのは「あくま」の静岡なまりだよねえ? と阿具摩神社を見て思う。登呂遺跡では、富士山を神体とした「常世信仰」がすでに始まっていたように思うので、悪魔信仰ってのは「常世信仰」のことを差すよねえ? と思わざるを得ない。常世信仰って言ったら、下社金刺だし、下社金刺って言ったら「うち」じゃん? となるカモカモなので-;。ということで、登呂遺跡と伊河麻神社が「悪魔(天魔)信仰」と金刺氏の痕跡であるならば、その更に古い形態として、阿具摩神社があるのだと思うわけですよ。それを金刺氏が作ったものであれば、やっぱ遠い先祖はその辺りに住んでいたんだろうなあ、と思う。そしてともかく、昔私に対して「自分はアクマなんだ」って言った人がいるわけですが、そういえばそれは口で言っただけなので、漢字で「悪魔なんだ」と言ったわけではない。もしかしたら「阿具摩なんだ」って言いたかったのかもしれない。天から降ってきた悪魔といえば須佐之男のことじゃんねえ。いい年こいて自分のことを「アクマ」とか言っていきがってんじゃねえ、人間としてまっとうに生きろ、私達は結局は人間なんじゃないの! と思う。というか、そう断言できるまでに30年もかかったあたくしである。
ということで神八井耳命に戻るわけですが。神武天皇、綏靖天皇がそもそも実在性の乏しい天皇であるので、神八井耳命という人物も存在したかどうか定かではない、と私は思います。でも名前に「八」という字がついていたり、「井」と水を示す字がついていたりするので、だいたい神八井耳命というのは瓢箪小僧の伏羲の焼き直しかあるいは、八俣遠呂智の焼き直し(別名)ではないか、と思います。だいたい中国の神話からその傾向があるわけですが、「悪い蛇神」みたいな感じで「倒される神」(日本的には八俣遠呂智)と「倒す神」(日本的には須佐之男)は実のところ性質が似ていて、「表裏一体」の存在で「同じもの」である傾向が強いのです。日本的に「和魂」と「荒魂」と言ってしまった方がむしろ適切と思うわけで、この「神」は機嫌が良ければあれこれ恩恵も授けてくれるけれども、機嫌が悪いと祟ってろくなことはしないわけで、良いときは「神」だけれども、悪いときは「悪魔」である、と言った方が正しいように思います。で、この2つの相はスイッチを切り替えるように入れ替わるように思うわけで、その「入れ替わり」を「倒す」と言っているに過ぎないわけです。だから、神八井耳命は須佐之男でもあるし八俣遠呂智でもある、と解釈するのが一番妥当だと思うわけです。だいたい、神道集には綏靖天皇は文字通りの「人肉食い」だったってあるわけで、人食いの兄はどうせ人食いさー、と思うわけで。そして、西欧では特に神とは「罰を与える神」であり、「報復する神」であるので。そういうことをやり過ぎれば「悪魔の所業」であると思う。だから、「神と悪魔」とは、特にそれが男性である場合「同じ者」なわけです。というか、
「自分は唯一絶対の神である」
と名乗る男が一人いて、その男が「悪魔」とか「魔王」なわけだ。で、しかもこれがまた執念深くって、かつ「生まれ変わる人」であって記憶力もすこぶる良いので。自分が過去世で標的にして粛正すべし、と決めた相手のことは決して忘れない。過去世でしとめきれなければ、今生でも、来世でも、目的を果たすまで止めることはない、という性格らしくって。しかも、自分は悪者にならないような万全の準備をするタイプ、ということで。
ということで、一神教が良いのか、多神教が良いのか、とそういう問題ではなく、世界は
「自分は唯一絶対の神である」
と名乗る男の粛正と報復が恐ろしくて、一神教を放棄できない。いったん敵認定されたら、自分が「生まれ変わる人間」だったら未来永劫敵認定されて生まれ変わる度に付け狙われて粛正の憂き目にあう、「生まれ変わる人間」でなかったら殺されてしまってそれっきり。幽霊にでもなったらそれはそれで利用されるだけ、って相場が決まっているらしくて。
というわけでですねえ? 愛知に行くことは行ったわけですが。武蔵党の声が尾張まで届くようになって、何故か「裸にふんどし姿」の蛙さんが降臨してくるわけで。「なんで裸?」って思ったら「国府宮の祭りは裸祭りだし、人間は誰でも裸一貫で生まれてきて、そこから始まるんだから、父祖の地に戻って、初心を思い出すのは大事。」と言われる気がするわけで。国府宮も真清田も大懸も良く鎮まっていたように思う。大神神社では「三本の樹」の神紋を見る。天照大御神信仰を圧迫した三輪山とその関係者だよねえ? まさに「三樹」だし、と思う。大神社の一つでは「くそ女、真清田の後戸の神は誰だと思ってやがる。」と罵られる気がする@@。おいおいおーい、あたくしが参拝したからには真清田の「後戸」の神は天照大御神なんじゃん? 忘れてもらっては困るよーー、ってそんな感じであるー;。嫌な先祖がいると子孫はタイヘンであるー;。まして、それが生きていて話ができる相手とあっては、嫌さはさらに倍増である-;。そういう大変さを悟った愛知行きでありましたとさ-;。