22年12月30日

 本日は注文した介護用品があれこれ届いたので、組み立てたりしていました。後は部屋の整理も少しだけ-;。なんだか自分の膝もちょっと危ういので介護用品のうち一つは自分用です-;。

 外作業は相変わらず寒かったり、バタバタしたりでお休み中です。

 テレビは昨夜から「FNS歌謡祭」の録画を見ています。

22年12月29日

 本日は父親の退院日ということで市民病院に迎えに行ってきました。後は買い物。年末なので、お正月用品が多くて、あまり普通の魚が売っていません。退院のお祝いにちょっとだけおいしいものを買って家族で分けて食べました。おいしいものは食べられない人が多いので、久々でした。{{sfn|Dalley|1989|page=82}}{{sfn|Fontenrose|1980|pages=168–169}}

22年12月28日

 昨日は埼玉金鎮神社x2,金鎮不動尊、諏訪神社、群馬世良田東照宮、長楽寺、大國神社に参拝してきました。そして、群馬に行ったときのお楽しみのこんにゃくパークに寄ることもできました。なんというか、群馬の方は「牧」という地名が残っていたり、平安時代頃からの古い古代の文化がどことなく残っているけれども、埼玉に行くと、神社が武蔵七党児玉氏、塩平氏、本庄氏の氏神社という具合に、明確に土地の武家の氏神社であることが全面に出ていて、さすが「関東武士団の本拠地だー。」という印象を受けました。群馬にもちょいちょい諏訪神社はあるわけですが、利根川周辺にもけっこうあります。だいたい「幕府が変わり、頭が変わっても、武家の神は変わらず諏訪・鹿島のみ。」と言われる気がするわけで、「埼玉すげー。」と思う。静岡はどことなく感じる人身御供の気配と男尊女卑の強さにげんなりしてたわけですが、関東武士団の根本は相続における男女平等だから、やっぱり、どことなく空気で男尊女卑的なものをあまり感じないわけです。うまく言葉にできないわけですが、埼玉、東京に併せて10年近く住んでいたので、「そうだ、これが私の知ってる関東だー。」という気がするわけで。

 どうも、近世の当地の政治は良く分かっていないわけですが、徳川の部下の小笠原が領主であったところが多かったようで、寺社に武田菱とか三つ葉の葵が目立った気がして。武田の本家が滅びてしまったので、分家筋の小笠原は近世では武田菱を使ってたのか? とか思いました。それから新田庄もあれこれ面白くて。新田・足利って近くにあることは知っていたので、新田の本拠地も栃木にあるかと思っていたら、群馬側にあったのねー、というのがまず一つ目の発見。新田の子孫に「徳川」を名乗る人がいたので、征夷大将軍には「源氏の子孫」でないとなれなかった時代に、家康が新田の家系に、家系が続いている、と主張して徳川を名乗ったのねー、というのが二つ目の発見。そういう因縁で、徳川の子孫は新田の子孫を名乗ったから、新田庄を大事にして東照宮を作ったり、長楽寺を作って、天海僧正に管理させていた、というのが三つ目の発見。天海って言ったら家康の知恵袋というか軍師というか、もう幕府の超重要人物だった人じゃんー、と思う。その天海がわざわざ世良田東照宮を作って管理した理由は何だろう? と思ってしまう。御前崎から始まって、久能山東照宮、富士山を通って、富士を封じる家康の「レイライン」の真の「終着点」はどこなのだろう? もしかして、日光東照宮の「奥の院」を移築したという世良田東照宮が終着点? と思ったあたくしでした。それから大國神社は、大国主命が祭神だけれども、全体としては「丹後道主」関連の女神が祀られていて、由来を興味深く感じました。

 ともかく、新田庄では徳川の強い影響を感じつつ、資料館に新田義貞のことなんかもちょこちょことあって。義貞と匂当内侍のお墓の写真とかあったので、二人の悲恋なんかにも思いをはせたわけですが。太平記は平家物語に比べると知名度が今一なので、良く知っている人は少ないような気がします。で、義貞のことに思いを馳せると「あれもなかなか悪い男で。」と高師直のことを色々言われる気がするわけで。地元民は義貞の悲劇については、悪いのは尊氏ではなくて高師直だと思っていそーー、と思う-;。まあ、師直は尊氏の知恵袋ですから。ひいじいさんはひいじいさんで諏訪で「小坂」という地名を見かけるとあれこれ言ってくるし、動乱の時代のクレイジーな人間関係なんて、もうぐっちゃぐちゃですよう、と思う。まあ、それはともかく、新田義貞は「まだいる」気がしたわけですが、そんなにタチは悪くない、というか、怨霊というレベルでの悪い人ではなくて、割と普通に良い人、という感じを受けたのでした。諏訪の吉良殿と似たり寄ったりみたいな感じ? かと??

そして、上杉謙信という人は、新潟では当たり前に英雄、富山ではあからさまに迷惑者という感じだったわけですが、関東では明確に「源氏の嫡流・関東管領」という扱いなような気がするわけで。だいたい、諏訪氏のように勝頼が死んで、従兄弟の家系が家を再興した、というのはあんまり「嫡流」とは人は見ないわけですが、他家の人間でも正式に養子に入った人は「嫡流」とみなすのが本邦のようで。謙信は源氏の子孫ではないけれども、源氏(関東管領・上杉氏)に養子に入ったから源氏という扱いらしいです。

 で、全部回れるかどうかは分からないけれども、武蔵国の式内社をざっと見ると「小豆」とつく神社がちょっと目立つわけで。あたくしも昔「小豆沢」というところに住んでいましたし。これが何を意味するかというと、「アジスキタカヒコネ」という賀茂系の神のことと思います。出雲の神ともされている。で、この神への信仰は、「別雷神」と同じ神、と言われている程度で、現在ではあまり盛んではありません。何故か? それは、この「アジスキタカヒコネ」が諏訪神の前身であるからだと思う。要はだいたい、諏訪信仰に置き換わっているわけです。諏訪神の妻神も昔は下光比売命であった形跡が上社関連に濃いわけで。「アジスキタカヒコネ」の妻神も下光比売命です。で、この神がどういう神かというと、一つには「小豆の神」であると思う。小豆は邪気を払う豆とされており、昔は赤飯は神に捧げる神饌でもあって。で、もう一つは「スギの神」というか、「木を立てる神」なわけです。五十猛が下社系の「木工神」とするならば、「アジスキタカヒコネ」は上社系の「木工神」でもあり軍神ということでもあるのかと。どう違うのかといえば、五十猛は海の向こうからやってきた「疫病神」であって、「アジスキタカヒコネ」はこの国を守るための軍神という感じになっているのかと。おそらく西欧の神で言うところのエススとかヘーラークレースにちょっと近い神だと思うわけで。

 世良田東照宮では、最近お正月に「除厄神事」とかで、「目に見えない邪気を弓矢で射る」神事をやっているとかで。神事の由来は京都にある、と説明書きにありましたが、これは東国的には「オビシャ」の変形版であると思う。しかも、「木工の仕事始めの神事」をやるとかで、神事に使う木がもう用意してあって寝かせてあって。これを更に切るような神事をやるんだなあ、と思う。というか、この2つの神事は「同じもの」であって、日の光を遮る「天の木(邪気)」を切り倒して、役にたつものに加工する、特に「神の役にたつものに変える」というのは、おそらく河姆渡あたりまで何とか残ってた「母系のまともな思想」の伝統なのである。そして、上社的諏訪信仰の根幹の思想である。肝心の諏訪大社では似てるけれども、縄文系の人々の祭祀を前面に出していて、西洋式の「天の邪気を切り倒す」というあからさまに思想が分かる祭祀はやってないわけですが、東国の「諏訪」とは全然関係なさそうな神社で、露骨に「諏訪信仰」を前面に出した神事をやってるんだー、これが関東武士団の「諏訪信仰」だー、へーー、と思う。諏訪大社では、「オビシャ」は「蛙狩神事」、「木工の仕事始め」は「御柱」に変換されてしまうわけで。もっとも、諏訪でやっている方が古い形式の祭祀なわけですが。みな、お正月の太陽の力が弱っているときにこういう祭祀をやって、太陽の力を強めようとしているわけです。というわけで、世良田東照宮は天海と家康の思想がまだ生きている、と感じられた、実に東国らしい神社だと思ったのでした。東国の衆は東国の衆で、西から来たのではなく、東国生まれ東国育ちの諏訪・鹿島の神が欲しくて沸騰中らしいです。

22年12月25日

 昨日は山梨宇波刀神社x2,大瀧神社、身曾岐神社、茅野尖石考古館、諏訪大社前宮、本宮、法華禅寺、若宮八幡宮、東堀八幡宮を参拝してきました。長野県に近い宇波刀神社はいずれも諏訪神も勧請されていて「諏訪大明神」と呼ばれていたようでした。でも、元は女性に関する「女神の宮」だったらしい気配が少しだけ残っていました。これは元々伊邪那美命信仰の神社で、熊野信仰が整備されるにつれて廃れていったものと考えます。中部にはこの名前の神社がちょこちょことある気がします。「宇波刀」とは「伊邪那美刀売」のことでもあると思う。そもそも「伊邪」とか「宇」というのは兎のことだと思います。遼河文明由来の太陽女神だと思います。その子供の火之迦具土神が「火の神」ということで、この女神群は「焼き殺されて生贄にされる兎女神」と、その子供の「火の神」の組み合わせが各地で多いように思います。中国神話だと塗山氏女と啓(祝融)でよろしいかと。だいたい中部に固まってる点、「刀売」と常世信仰の神らしい名前であることからして、下社系の女神であると思う。だいたい、八上比売とか八坂刀売とか伊邪那美命の別名なんじゃん? と思う。まあ、だいたい作ったのは下・・・(以下、略-;)。

大瀧神社は瀬織津姫神、身曾岐神社は天照大御神・・・天照大御神?? と思うわけで-;。八芒星の矢羽が神紋ですが、八芒星というと「金星のイナンナ」を一番に思い出すわけで、矢は軍事に関連するものですし。なんだか、メソポタミア神話のイナンナのような「天の女神」であり軍神であるところの「太陽女神」という印章を受けます。イナンナは一般的には「金星」の女神とされていますが、本来は「天」そのものを指すもっと広い範囲の女神なわけで。金星に象徴されるのは単に彼女が「死んで生き返った」という故事に倣っているだけのことだと思う。「天の女神」で軍神で太陽女神っていうと諏訪梶の天御梶日女命しか思いつかないわけで、天照大御神といえば天照大御神なんだけどさーーー? 九天玄女でしょ、要は? という印象。八ヶ岳山麓には「この熊女神」に対する信仰に伝統があるわけで、尖石考古館にこそ「ご神体」の写しがある、という気がするわけで。八ヶ岳周辺には古くからの熊女神の信仰と、下系の常世信仰しかない気がします。ううむー;。

 で、尖石考古館。前に行った時に、撮りたかった写真がピンボケになっていたので、今回、あたくしが持っている中で一番お高いコンデジをわざわざ持って行ってきました。ちゃんと撮れてる・・・と思う。たぶん。まだ確認していませんが-;。

 諏訪大社・・・、上社しか参拝しない方針のあたくしですが、確か、諏訪大社は出雲系と言うことで二礼四拝一礼だったと記憶してたわけですが、わざわざ「二礼二拝一礼」って貼ってあって「いつからそうなった?@@」となって。なんか微妙な気分になったわけですが-;。

 法華禅寺。ともかく、諏訪に連れて行って欲しい、というご一行様がいる気がするので、今回の大きな目的はここだったわけですが。吉良義周公の墓もあるとのことでお参りさせて頂きました。で、結局「甲斐武田は最初と最後だけ残った。」と言われる気がするわけで。初代の新羅三郎義光公は武田八幡宮にいます。最後の勝頼殿は収めるところに収めることができた気がするわけで。まあまあ、良かったのかな、と思う。

 で、締めは東堀八幡宮。宗良親王に関連する神社ということで。他にも行きたいところはあったのですが、時間がなくて回れませんでした。

 裁縫もお休み。今日は病院に荷物を届けに行って来ました。

 昨夜は「SHOWチャンネル」、今日の昼は「ニノさん」の録画を見ました。

22年12月23日

 本日は外作業のみ。母親は土の埋め戻し、石片付け等、私は土の清掃、姉はお休みでした。

 裁縫もお休み。部屋の整頓もちょっとだけー;。膝を温存しながらちょこちょこと動き回っています。

 昨夜は「夜会」の録画など、今日の昼は日テレの音楽の特番など見ました。