22年11月7日

 本日は外作業と父親の病院でした。外作業は、母親は土の埋め戻し、土の清掃等、姉は土の清掃、石片付け等でした。私はお休みで。

 裁縫も休業中です。

 で、ともかくフランスの民話?に「美女と野獣」という物語があるわけです。ええと、若い娘が父親のために野獣の所へ行って、結婚を承知すると野獣が王子に変わる、という話です。割と有名だよねえ? と思う。これはけっこう「神話的」な話であって、ギリシア神話には「アモールとプシケー」という話があります。日本だと、「天若日子と下照媛」の話が、まあまあそれに近い、ということで。ともかく、この群の話の「解説」を書けるようにならないといけないらしい。「美女と野獣」の方は、「若い娘を野獣に生贄に捧げて、人間に再生させる」という話だと思う。もっと古い形式では、絶対的な死と再生を司る太母が野獣を人間に再生させる、という話だったのではないか、と思うわけですが、ともかく、「人身御供」というイメージがつきまとう話である。だから、だいたい大雑把なそういう解説はできるわけですが、「では、彼らの神だった時の名前は何か?」と聞かれる気がするわけで@@。これがメソポタミアの神話だったら簡単で、イナンナとドゥムジとゲシュティアンナであると思う。イナンナは何故か死ぬわけですが、冥界で(おそらく再生のために)地上で遊びほうけている夫のドゥムジの命を要求する。でも、ドゥムジがずっと冥界にいるのか可哀想なので、姉妹のゲシュティアンナが1年の半分は自分が冥界で暮らすことで、半年は弟を地上に戻してくれる、というような話である。野獣がドゥムジで、美女がゲシュティアンナに相当する。で、これは麦の生育と季節の循環に関する神話とされているわけです。ドゥムジというのは要は「麦の精霊」みたいなものである。でも、フランスっていうと?? と思う。ヨーロッパの古代の神話はそれこそローマ式キリスト教の影響で壊滅的な打撃を受けていて、ほとんど断片しか残っていない。ギリシア神話でアモールとプシケーで良くても、フランスでは何て言った? と思う。でもともかくフランスにかつてあったと思われる多神教の神話はローマとかケルトに近いはず? と思う。ローマ神話はギリシア神話と強力に習合してしまっていて、オリジナルの思想がなんなのか非常に分かりにくいのですが、ケルトでは? と思う。そうして、

オェングスとカー

という組み合わせをみつけたわけです。というか、カーってローマのコレー、すなわちギリシャのペルセポネーに相当する冥界の女王のことだよねえ? と思う@@。オェングスの方は、おそらく中国後の「白犬(バイゴウ)」が語源と思われ・・・。ギリシアのアモールに相当します。でもオェンという部分は「天」という中国後に相当すると思うので、本当の意味は「天犬」・・・・。袁珂大先生の辞典には、それは中国式の「天狗」(文字通りの「天の犬」のこと)のことだって書いてあるし?? と思う@@。雌雄同体のやばい夫婦だ、それ、と思う。というか、そういう変な「神」を作り出すうちの先祖の頭の中が「やばい奴」と思う-;。夫は若い女好き、妻は吸血鬼というありがたい組み合わせでござる。たぶん、うちの先祖はそういう手合いばっかりだったんじゃあ・・・・、と悲観的? になるあたくしである-;。

 それから話は変わるけど、「立山信仰」というのは「立山」の中に地獄がある、というものらしくて。で、なんだかお地蔵様がいて、地獄の業火の中に人々の身代わりに入って焼かれてくれる、というありがたい? 信仰らしい。え? だって、地蔵菩薩の本地は伊邪那美命なんじゃん? 伊邪那美命に黄泉の国で火に焼かれてろってこと?? と思う。でも、伊邪那美命の身代わりみたいな人がいたとしても、実際に火で焼くことなんて現代社会ではできないよねえ? それこそ殺人になっちゃうじゃん? と思う。そうしたら、「家計が苦しいことを「火の車」って言うでしょ?」と言われる気がするわけで@@。それは伊邪那美命に相当する人に「一生貧乏でいろ」とそういうことでございますかねえ? 大喜利かい! と思う-;。ということで、「立山」には2つの意味があって、一つは天之手力男神を地獄に閉じ込めておけ、という意味、もう一つは「女神を一生貧乏にしとけ」という意味であるらしいー;。・・・地獄のどん底にいた義仲も蹴ってきたし? と思うあたくしである。でも、富山は静岡よりもちょっと楽な気がします? なんで? と思ったら「富山は薬売りの県なので。薬売りの資格を持っていればちょっと楽。」と言われました@@。それは最近取ったばかりの資格・・・。もしかして、富山巡りをするための資格? と聞いたら「他に何の意味があるのか?」と言われる気がします。うーむ-;。

 で、ともかく、朝から病院で「美女と野獣」の「美女」を探せ。「コレー」に相当する女神を、と言われていた気がするわけで。なんで病院にいうとこういうことをはっきり言われる気がするのか? と思って、ふと近くに座っている人を見たら、膝にセブンイレブンのクリスマス商品のパンフを持っていて、表紙がキンプリでした@@。兄さん達も若いんだし、自分の将来のことも考えないとだめよ、となんだかそんな風に思うわけで-;。毎日、ともかく、ものすごく忙しいのです-;。

22年11月6日

 本日は外作業と買い物。外作業は、母親は土の埋め戻し、土の清掃等、姉は土の清掃、石片付け等、土掘り、土の清掃でした。

 裁縫は、少しだけ。

 やはり中国神話を勉強するには成書が必要ということで、頑張って袁珂大先生の中国神話・伝説大事典を買いました。これも読まずして大センセイにたてつくなんてとんでもないーー、ということで。富山の日置神社で面白い額を見つけたわけです。「日置」という字の「日」という字の外枠が「丸」で描かれていて、真ん中の横棒のところに「鳥」が描かれていました。まるで「太陽の中に鳥」が描かれているかのように。要するに「太陽と三足烏」を現したかったのかな、と思う。でも、この鳥には足がありませんでした。袁珂大先生の中国神話・伝説大事典を手にとってみたら、表紙に「太陽と烏」の図があった。でも、太陽は真っ黒で烏だけが赤っぽいわけです。「む、それは逆の図では」と思う。烏は黒いもので、太陽黒点とかを現す、とそういう説があるはず。しかも、中国神話・伝説大事典の烏は「二本足」だった・・・。普通烏が三本足なのは「奇数が陽数」ということで、「めでたいこと」の印なはず。二本足だと「陰数の烏になって、不吉な鳥になってしまうような??」と思う。

 というわけで、富山の片田舎の日置神社の「足なし烏」も袁珂大先生の「二本足烏」も、元にある思想は「同じもの」であって、「太陽を真っ黒くして殺してしまう烏」という思想の烏だと思うし、そういう思想が古代中国に始まって、今でも富山の片田舎にも、中国神話の大権威の中にも取り憑いてはびこってるんだなー、なー、なー、とエコーがかかっているかのように思う-;。でも、色々なことを理解するのにフィールドワークは必要である。成書も必須だー、ということで。「偽物の烏」の本を読んで「太白」の項を調べるあたくしである。勉強にはなります。でも、「偽物の烏」とあカモカモカモ強盗団のトップのことでもあると思うので-;。上の方は「嫌がらせだ-」と思いそうである。だって、「偽物の烏」とは「太白」のことであり、日本では「天白」と呼んでいるものだからである。なんで、「黒い烏」が「白」なのか。そこがミソなのです。(でも太陽鳥は赤烏とも呼ばれる。別に伝承上の鳥だから、現実の烏とあんまり似てなくても良いわけですが。)

 テレビは昨夜は「夜会」の録画他、今日の昼はかなり前の「夜会」の録画を見ました。