さて。馬王堆漢墓(ばおうたいかんぼ)帛画の王母娘娘がなんで「燭陰」に変更されてしまったのか、そろそろ説明できるだろう、と言われる気がします。できるんだけど、そもそも王母娘娘を燭陰に変更したのがうちの先祖の「啓」なんじゃん? みんななんだかんだ言って啓君が好きだから変えたがるんだよーー;。
ということで、なんだかんだ言って、これは城背渓文化の「太陽神石刻」と関係するわけです。「太陽を頭に頂いた巨人」の「部族的固有名詞」を明確に残しているのは、日本人だけだから、日本人ならこの名前がちょっと勉強すればすぐ分かるわけですが、本場の中国の人の方が分かりにくくなっているのですよ。
「太陽神石刻」を見て「うは、須佐之男と櫛名田比売」と言った人がいたら、どこの誰でも私は百点満点を上げます。櫛と阿加流比売神の赤珠が同じものである、って書いてくれれば更に20点追加して120点あげちゃう(笑)。これを「ウィルビウスとアルテミス」と言った人がいたら、そこまでたどり着いた努力賞で30点上げます。
燭陰というのは「原西王母」である龍蛇形の太陽女神を男性形に変更したものです。これを人型にしたものが盤古である。盤古とは、元は「太陽女神」の息子や兄弟とかもうちょっと時代が下ると「夫」で現され、太陽女神の財産や権利を代理で施行できるものとなります。これが「瓜」で現されると伏羲になります。太陽女神を頭に乗せて支える「巨人」として現されると盤古となり、「開拓」とか「世界の礎」の巨人となります。日本ではダイダラボッチなどど言います(ダイダラボッチも金刺カモカモの本拠地である長野県の神サマでして。個人的には饕餮坊と呼んであげて、と思うわけですが)。
この巨人は
樹木神
首長神
盤古型巨人
へと別れていき、別れた始めの方はそれぞれに性質が交錯しますが、分離すると独立した性質を持つようになります。樹木神としては、扶桑樹、蚩尤の象徴である楓(桂)、首長神としては炎帝、日本の須佐之男へと分化しました。伏羲は瓜から出発して、人型を得、太陽女神の配偶神にまで成長しました。同じ流れで、太陽女神と同じ「龍蛇形」を取るようになったのが燭陰ですし、人型が更に巨大化したのが盤古です。だから、盤古、燭陰、伏羲はかなり近い性格の神々なのです。ヒョウタン伏羲は金刺カモカモのトレードマークだよー、ということで-;。須佐之男盤古も祖神扱いだしー;。桂が「月」なのは、炎帝が黄帝に殺されて月になってしまったからです。台湾の射日神話なんかはそういう話が多い。でも、炎帝の後継者を自認する啓君が生きかえらせたことにしてしまったので、三星堆遺跡の「炎帝巨人」像には手足がついています。うちの須佐之男にも手足はついているのよー、ということで須佐之男と三星堆遺跡の「炎帝巨人」像は思想的に非常に近しい間柄のアルクマ君たちなのかと思うわけですが-;。
で、祝融との関連ですが、私は個人的には「神が火の雨を降らせた」とかそういう超常的な神話は「観念的な神」の仕業で良いと思うわけです。人間にはそんなことできませんので。でも「誰かが誰かを焼き殺した」というのは具体的であり、かつ「人間でも可能なこと」です。神と呼ばれるものが、「人間でも可能なこと」をわざわざやってる時には、それは「モデルとなる実在の人物がいたのだろう」と個人的には考えるようにしています。要は祝融は炎帝になぞらえられている「実在の人物」がモデルにいたと考えています。啓・祝融はおそらく同じ人物、あるいはものすごく近しく思想を一にしている人物と考えます。だから、本当は啓とか祝融を「神」と呼ぶにはあまり相応しくない、と思うわけですが。中国にも日とか火に関する神なんていくらでもいるでしょ。人を焼き殺すようなのをわざわざ取り上げて「神」なんて呼ぶのはセンスがどうなのでしょうか。古代の神を語るなら普通に「炎帝」で良いと思うわけですが-;、と個人的には思います。