22年8月13日

 今日は外作業のみ。外作業は母親が土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉が土の清掃、石片付け等、私が土の清掃、土掘りでした。

 お裁縫は、シャツは袖付け、父親のシャツはカフス作り、簡易シャツは肩の縫い合わせでした。

 テレビは、昨夜は「少年倶楽部」の録画、今日の昼は「夜会」の録画を見ました。

 三河行きは、中京方面は「三河走り」とか「名古屋走り」と言われるほど車がすごいスピードで走ることで有名なので、おっとり安全運転の私は内心ちょっとびくびくしていたのですが、1号線とか、東海道とか、万年混んでいる、という感じで、とても飛ばせるような雰囲気ではなく、助かりました。それから道中で立ち寄ったバローで、BGMにまーくんの「蛍」のオルゴール曲がかかっていてうれしかったです。割と全体には親切にして頂いた気がする三河の旅でした<(_ _)>。

22年8月12日

 今日は東三河巡り、砥鹿神社、豊川稲荷、豊川進雄神社、大師様の井戸、三河総社を参拝して来ました。もっと事前に調べておけば行けたところもあったかもしれませんが、何せ片道317kmで最速でも5時間かかるような遠方なので、最大のメインである豊川稲荷と、一宮と総社のみの参拝となりました。

 で、感想。地理が良く分かっていないので、浜名湖を中心として湖東(浜松市側)と湖西(豊川市側)という書き方をします。こう書くのが妥当かどうかは良く分からないのですが、私としてはこういうイメージなので。湖周辺は大国主が大きな神社に祀られていることが多くて湖東(遠江)も湖西8三河)も一宮の祭神は大国主です。だけど、どっちもちょっと変で、妃神が一緒に祀られていません。私はどこへ行っても、建御名方+八坂刀売がセットになってる諏訪神社ばっかりの長野県の者なので、「妃神がいない」ということにものすごく違和感を感じるわけです。で、その代わりに「因幡の白兎」がどこへ行ってもいる。砥鹿神社には白い馬ではなくて、白い鹿(作り物)がいて、文字通りの「馬鹿」だし-;。そもそも白い鹿は建御雷神の象徴であって、「白」は雷神の象徴である、とようやく気づく。だから、三河・遠江の大国主は「雷神」として扱われる傾向がものすごく強くて、表向きは出雲の神だけれども、祀ってるのは火雷神大好きなカモ(物部)様という感じである。もう白い「馬鹿」を見た瞬間から「うへえ」と思う。それは「家族円満の象徴で・・・」って言われても、雷公と雷女と別雷の家族円満じゃん? 湖東にもそういう雷の「三位一体」な神社があったっけね? というくらいしか思いつかない-;。というか「雷公推し」が激しすぎでしょ、と思う-;。

 で、白兎は八上姫と大国主の婚姻に関係のある動物である。要はそれは「ウサギ番」でしょ、と言われる@@。大国主ってオーディンなんですかね? ゲルマンの伝承で「ウサギ番」って言ったら、オーディンの崩れなんすけど、と思う-;。ということは、三河・遠江の大国主の妃神は八上姫であることが分かる。遠江の見付では矢上姫はハイヌウェレである。そういえば、ハイヌゥエレの子音は「KN」に近いから、これはフンババとかに近い名前で「熊」のことだとようやく気づく。静岡のあたりは山姥の子供が金太郎で熊と相撲をとる(要は金太郎=熊である)、という熊信仰があったはず、と思う。あれ? ということは八上姫って熊なの? と思う。ということは、大国主の妃神はどこにいるかというと、見付では見付天神にいる。名前もなんとか残ってる。湖西では

クマの女神 → 白兎 → 荼枳尼 → 須佐之男

と作り替えようとしていたんだと思う。豊川の女神と言えば燃える火の荼枳尼だけれども、これは「稲光」の象徴でもあるように思う。というか、大国主(伏羲)がウサギ(雷神、本来は鶏)を助けて矢上姫(女カ)と結婚した、ってそーゆーことね。女カ=荼枳尼まではなんとか繋がるのだけれども、それを仏教パワーで進君(とは須佐之男のことであるそうな)と習合させよう、というのが湖西である。要は湖西も湖東も八上姫(熊の女神)に対する暴虐が果てしないし、それを実行するための大国主だけの気がするわけで。

 でも、日本では熊信仰って古来から盛んじゃないですか? 熊野とか熊野とか熊野とか、と思う。要するに、八上姫が本来の「熊野の女神」であって、それを須佐之男に置き換えるために、本来の女神である八上姫を「食われる神」に変えてしまっているのである。ハイヌウェレの神話と同じともいえる。というわけで、熊とイモの区別がつかないイェンゼンとか、熊とウサギの区別がつかない吉田とかにさんざん振り回されながら、

八上姫=八坂刀売=熊

で、下社の熊女神以外は、潰して食ってしまえ、とかそーゆー感じ? である。しかも「八」というのは形容詞なので、「坂刀売」とは、「坂刀の女」という意味でしょ、とも言われる気がするわけで。八上姫というのは、檀君神話の檀君の母熊と起源は本来、かなり近い女神と思われる。でも「熊の女神」とはいずれ「食われる神」に書き換えるつもりで意図的に導入された、カモカモの中では下位の神なのだと思います。それとも、母神である八坂刀売も「食い物」ですか? 実家の「坂刀」が怒るんじゃないの? となるわけですが。で、「坂刀」というのは、ものすごくざっくりいって、ニギハヤヒ関連、物部カモあたり、と思うわけで。

 そして、興味深いことですが、見附では八上姫殺戮に対抗するために早太郎がいる。豊川では物部系の「大木喰命」がいる。木の神五・十猛(要は須佐之男)を喰ってしまう神ですか? というか、もう伝統的な神話のルールを強引に無視して、ともかく「須佐之男なんか倒してしまえ」という執念と恨みの神にしか見えなくて「うへえ」と思う。おそらく、物部氏の本家である石上の守屋を滅亡に追い込んだのは、物部の母神である「熊女神」を兎とか荼枳尼とかに作り替えるのに反対したから、とかってなりそうな気がする-;。金刺の熊女神は八坂村とかにこっそり温存しておいて? 元は「同じ者」なのに?? という上の方のわがまま勝手な話が絡んでくるわけで。ともかく、自分の一族郎党を見渡すに、「執念深さと恨みがましさ」では良くも悪くもよくよく定評のあるカモカモカモなので-;。「大木喰命」って? と越智の衆に尋ねたくなるわけで-;。

 で、見附は秋葉街道、豊川は諏訪街道と、どちらも飯田・諏訪との縁が非常に強い地域であることにも引く-;。300kmもあるのにーーー、と思う-;。飯田からは直線でいけばけっこう近いんだけど、そもそも現代ではそこは車で通ることこそが修行あろう、というようなすごい道しかないのである。八坂刀売以外の熊女神は認められないどっかの下社と、それに対抗して縄文古来からの「山の熊女神信仰」を支えるどっかの上社でもある。信濃国の外では見附とか豊川とか下社系がとても優位なように感じる。でも、信濃国の中では中世のみぎり、戦国時代のちょっと前に下社の直系を上社が滅ぼしているわけで。だいたい私はサトイモはそもそも食べ物なのだから、普通に食べて神になどしないように、という主義だけれども、上社では「ウサギはそもそも食べ物なのだから、普通に食べて神になどしないように」と言わんばかりに、どっかに串にウサギが刺してあったような?? と思うわけで-;。

 で、どっかの下社系は、結論をいうと「なんでも須佐之男に変換して支配してしまえ」というように見える。馬を鹿にしたり、鹿をウサギにしたり忙しいわけで。親からは「カモカモカモのトップが須佐之男でしょ?」と言われて「あれ?」と思う。どこからそういう話になった? と思う。そうじゃないでしょ、要はちょっと前の日本は

「親の言うことは何でもきくものだ。」

という思想があって、親が

「馬を鹿といえ。親が飢え死にしろっていったら飢え死にしろ。」

って当たり前だったでしょ。あなたが子供のころ貧しくて、引け目を感じもして、苦労したのも、あなたの父親の母親が、息子に対して

「田舎に戻って、結婚して惨めな暮らしをして、家族を飢え死に寸前させろ。」

て命令したからでしょ。「親の言うことは何でもきくものだ。」って洗脳されてなかったらなんであなたの父親は自分の母親のいいなりになったのですか?

とそうなる。シャーマンとは神の意を受けて政治をするものである。逆に言えば、神がシャーマンの思うことをそのまま言ってくれれば、シャーマンは思うがままの政治ができる。どうやって、「神がシャーマンの思うことをそのまま言う」ようにするのか? 「親の言うことは何でもきくものだ。」という世の中にして、シャーマンが神の「親」になればいいのである。それは実の親子でなくて、義理の親子でもいいし、上司と部下でもいいし、近所づきあいとかの親分と子分でも良い。子供が「親の言うことは何でもきくもの。」であって、シャーマンが社会的に神よりも「親」の立場であれば、それで神は「シャーマンの思うことをがそのまま言ってくれる」ようになる。だから、カモカモカモさんの一番のお偉いさんは神ではなくて「親」であるシャーマンである「八咫烏」なのである。だから「家長」の地位と「八咫烏(金鵄)」の身分証明が必要なんじゃん? となる-;。

 そして、アイヌには「熊送り」という信仰があって、クマの神を扱いやすい子供のうちは、人間の中においておくけど、大きくなって扱いにくくなったら殺してしまう、という習慣がある。熊の神とは「親が扱いやすい子供の神であれ」という象徴のようにも思う。現代ではこれはロボットのようなものともいえる。ロボットは主人の役に立つように動くことしか求められないし、動かなければ改良されるか壊される。だから、「みざる、いわざる、きかざる」の呪いは一般の人々の上にもふりかかるけど、何よりもまず「神」の上に降りかかるのであって、日本の古来の「修法」とかは、「神をどうやって鎮めるのか」「どうやって術者の都合の良いように神を動かすのか」とか、そんなことしか追求してないでしょ、となる。呪いがかかっている神ならいいけど、かからない神を「熊送り」よろしく排除しようとしてる。

 で、帰ってきて、一休みしてテレビをつけたら、ちょうど「ラピュタ」をやっていて、最後のシータとパズーがラピュタから脱出するところをやってた。ラピュタから抜け出して、遠ざかるラピュタの中に、庭番の巨大ロボットの姿があった。ラピュタの庭を美しく整えて、庭の小動物達の秩序を守るロボットである。ラピュタの巨大ロボットは人間の世界を滅ぼしかねない強力な兵器なので、人類とは共存できない。決別するしかないものである。でも、ラピュタの王女であるシータには親切にしてくれたから、別れの時にシータには複雑な思いがあったと思う。そうしたら「そのロボットに心を残してはいけない。親切にして貰ったように思えても、それはプログラムされているからそうしたもので、ロボットに心があるわけではない。シータを殺す、というプログラムが発動すれば、ロボットは当たり前のようにシータを殺す。」と言われる気がするわけで。この年になっても、ラピュタから教わることはあるんだなあ、と思ったのでした。