22年7月17日

 本日は外作業他。外作業は、母親が土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉が土の清掃、石片付け、私は土掘り、土の清掃でした。午後は雨が降ったので、作業は午前中のみでした。

 お裁縫は、シャツは衿の作成、父親のシャツは袖付け、簡易シャツは袖口の始末でした。

 テレビは昨夜は「音楽の日」を見て、今日の昼は「ニノさん」の録画を見ました。

22年7月16日

 本日は外作業他。外作業は、母親が土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉が土の清掃、石片付け、私は土掘り、土の清掃でした。午後は雨が降ったので、作業は午前中のみでした。

 テレビは今日の昼は昨夜の「MUSIC STATION」の録画を見ました。

22年7月15日

 ともかく、尾張名古屋の熱田神宮へ行って、草薙剣の神霊を取ってこい、そして木曽川の河口を鎮めて来い、というミッションが降ってきたので、行ってくる。ということで、熱田神宮、多度大社、津島神社へ行ってくる。熱田はいわずもがなで、尾張氏関連の神社である。要はけっこう近いカモカモさんの親戚の神社だよねえ? 名字が同じだったらねえ? と思う。

 多度大社は、「多度(たど)」って「たて」でも「たた」とでもできる。そこに「井」をつければ立派な「武井神社」だし。望月の駒とか黒姫伝説に連なる馬に関する伝承もあるので、状況証拠としては武井の親戚筋、要は金刺・下社に通じるカモカモさんの親戚の神社だよねえ? 武井ってうちの母方のひいじいさんの名字なんだあ。ということと、伝承がどう見ても殺牛、殺馬のメッカ(雨乞いのために馬や牛を殺した地域)であったとしか思えないので行く。多度の馬は空から舞い降りてきたそうだけれども、近くに「桑」という地名があるし、馬頭嬢を食べに降りてきたのですかね? それとも馬頭嬢を食って降りてきたのですかね? って心の中では毒づくけれども、神馬の錦山号は優しい目をしたかわいいお馬さんであったので、にんじんを3皿も献上してしまう(笑)。神社のご神体はどうみても、「滝(昔の言葉で「井」)」であるので、「どう見てもこれは多度ではなくて「井」のついた武井でしょ。」と思う。祭神の天津日子根命って、どうみてもアジスキタカヒコネの別名なのでは? と思う。

 で、多度を出ると分かりやすく津島への案内看板があるので、最大の目的地の津島に行く。津島は八坂とならんで牛頭信仰の中心地である。で、境内に入ると、「狂気」を一番に感じる気がする。何の理由もないのに、ただ怒りだけがわき上がってくるような感じがする。普通はどんな理由でも怒りを感じる時は人間だったら何か「理由」があるはずなのに、何も理由もなく怒ったらそれは「狂気」だよねえ? と思う。しかも手洗いの水に「青い花」がびっしり浮かべてあって、かつ真ん中に菊の花が浮いている。「青」は死の色だし、葬式の花ってどう見ても「黄泉の国」だよねえ? そりゃ須佐之男は黄泉の国の住人だけどさあ? その死んでる水を木曽川に流すんだよねえ? 木曽川って上流に義仲の怨霊がたまってるし、御岳は山に死霊を集める幽霊の水源地なんじゃん? って、なんかそういう突っ込みしか出てこないあたくしなわけですが-;。ということで、参拝してると、誰かが拝殿の奥で引き戸を大きな音を立ててビシバシと閉めているわけで。・・・そういう音を立てる嫌がらせって、ここはどっかの某中央総合病院なの? 同じ医療関係者なだけに。と突っ込んでしまう俗気が抜けないあたくしなわけですが。

 でもって、境内には「疫神を海に流す祭祀をやっていて、神籬は伊勢や遠州に流れ着くこともあった」って書いてあってドン引きする。伊勢には伊勢神宮があるのに、天照に疫病を押しつけていいんですかね? 失礼なんじゃないの? と思う。そして、見付天神の殺女神事件の犯人も見付ける。遠州では津島牛頭は海の向こうからやってくる「客神」である。しかも疫病の神だから怒らせると天然痘とかエイズとかコロニャとか子宮頸がんを流行らせ宇。祟りを鎮めるためにはお金という犠牲を払って必要でもない予防接種を受けて死神という名前の医療関係者と製薬会社を儲けさせなきゃー、とかそういうことではなくて、生贄を須佐之男に食わせて機嫌を取れ、ってそういうことである。裸祭りで男達は海に入って疫神と一体化する。淡海の大国主は医薬神としての性質が強調されていて、表向きは大国主だけど実態は須佐之男であり、祇園も盛んである。男達は黄泉の国で矢の女神を須佐之男の元に運んで、神と一体化して食べる。遠州の人食い猿神とは津島の牛頭のことであると思うし、伊勢の一宮の主神が猿の猿田彦である、ということは津島信仰と連動してることなのだと思う。

 というわけで、頭の痛い「狂気」に打ちのめされて家路につく。助けてくれた人達もいろいろいたけれども、疲れることは疲れる。ホームグラウンドに帰ってきたら、守達神が「今までにないほど変なものを連れてきてる」って言って緊張しているわけで-;。お参りしたら、その都度自分でもお祓いするように、と言われる気がするわけで。本殿にお参りしてお祓いしたら自分の体から黒いドクロがボロボロと落ちる気がする@@、次の神サマのところでは自分の体から太ったウジムシがボロボロと転げ落ちる気がする@@、3番目のところでは自分の体から腐った死体がボロボロ落ちる気がする-;。留守居役が「そういうの得意なのがいるからまかせて」と言ってくれて「鬼の鈴」を降ったらどこからともなく鬼がたくさん現れて死体を食べてくれる-;。(ちなみに「鬼の鈴」の霊は某木島平に行ったときに貰ってきたものなわけですが。)・・・という、要はそういう「神霊体験」をしたわけだ。津島って何をためこんでるところなんすかね? ってそういう感じである-;。

 親は、津島が「親」で多度が「子と孫(二人の童子)」で、これは「摩多羅神信仰でしょ」と言う。摩多羅神は星神しても表されて、北極星とか北斗七星で表されるわけで、そういえば津島の境内に星神を祀ってたしなー、親の言っていることは正しい、と感じる。

 というわけで、細かい発見はまだまだあったけれども、「神霊体験」も激しい旅でありました-;。長野県にいても摩多羅神と対決、名古屋まで行ってもまた摩多羅というわけで、ストーカーとの対決はまだまだ続くわけです-;。

22年7月14日

 本日は外作業のみ。外作業は、母親が土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉が土の清掃、石片付け、私は土の清掃でした。午後は雨が降ったので、作業は午前中のみでした。天気予報ではしばらく午後は雨になる、とのこと。

 お裁縫は、シャツは衿作り、父親のシャツは袖つけ、簡易シャツは襟ぐりの始末でした。

 最近、「アジスキタカヒコネ」の正体を探るべく、結局ハイヌウェレ周りを漁ることになっているわけですが。ハイヌウェレの日本への紹介の仕方が、ちょっと深く探ると、「ハイヌウェレを殺すのは男性形の太陽神で豚である。」という結論が出やすいように誘導されているように感じるわけです。要は空を飛ぶ「紅の豚」じゃん? となってしまう-;。というわけで、豚を探しに考古学方面を探しに行っていて、どこにいるのかは分かってはいるわけですが。纏める作業が大変である。豚さんは殺しもするが、キアンのように殺されもする。しかも、そもそも太陽神なの? という問題もある。なぜ、そうなるのかを語らねばならないわけです。あとはスサノオの正体も探るべく「異神」という本も買ってせっせと読んでいます。だいたい、「記紀神話にない神」とか「正統な仏教の神」でないものを「異神」と述べるのであれば、「八幡神」なんかは最大の「異神」なのではないか、と思うのですが、そこはうまく避けているわけで。民俗学とか神話学には「意図的に避けて通る深淵」がゴロゴロしているところが面白くもあるし、言外にそういうことを示そうとすることができる人こそが良い学者であると思うわけです。露骨な誘導家のイェンゼンとか吉田は資料は豊富だけれども、好きにはなれない・・・。

 あとは、某見付天神の「裸祭り」は要は「マヨ祭」でしょ、と言われる気がするわけで-;。まあ、その通りであると思う。ハイヌウェレとの比較を述べれば、「ハイヌウェエは殺される」けれども、「裸祭り」では「女神はすでに死んでいる」という「北斗の拳」方式になっていて、「女が男のところに渡る」ということが「黄泉の国」であることを示しています。でも「猿神」の伝承から述べれば、元は生きている娘を殺していたのを、変更したものといえる。
 矢の女神を誰が殺すのか、という点は明確ではないです。伝承から述べれば「猿神」ということになり、渡御の先達を「猿田彦」が務めることがその名残かと思う。黄泉の国の祭祀だから、女神がもし生きている、と仮定すれば死なねばならないわけだから、生きている女神を黄泉の国に導く猿が「猿田彦」といえます。これが第一の殺女神容疑者である。猿神は「日枝」の山王の如く、微妙ではあっても太陽の性質を持つ。
 第2容疑者は、あちこちにいるウサウサ達で、これは「月の神の化身」なので、日本書紀の通り「殺す神」といえます。この場合、ハイヌウェレとの比較から述べると、ハイヌウェレは「豚の太陽神」に殺されたけれども、矢の女神は「月の兎神」に殺されたことになるので、「殺す側の神の性質」が異なることになります。
 第3容疑者は、マヨ祭で若い女神を殺すのはその夫(たち)であって、彼らは「豚の太陽神」の化身であるかもしれませんが、この祭祀には「男女の結合」がその子供である芋を生み出させる、という思想があることが分かります。矢の女神の夫は、淡海の大国主命であるので、彼も矢の女神を殺す容疑者の内に入ります。ただし、大国主命は本来出雲の神であって、人身御供は求めない神であるので、「裸祭り」の趣旨からいえば、後から挿入された神である気がします。大国主命を太陽とか月とする思想はほとんどありませんし。
 第4容疑者は、「豚の太陽神が変化したもの」である。あんまり見付ではその存在が明確ではありませんが、淡海は大国主命が主祭神であるにもかかわらず、祇園も盛んじゃん? 祇園っていったら須佐之男じゃん? となる。「豚の太陽神」は古代中国で誕生したものです。豚は他にも「龍」の一部であって、初期の龍は「猪龍」と言って顔が豚(猪)でした。でも、中国東北部の紅山文化の遺跡からは、豚とも熊ともいえない顔のついた玉(龍)が発掘されます。そして、朝鮮で有名な檀君神話では熊が始祖の重要な動物です。だから、古代世界の紅山文化あたりで、「豚の太陽神」は「熊の太陽神」に置き換える操作が行われたのではないか、と思うのです。その理由は、朝鮮から日本にかけては豚が強力に家畜化されていなかったので、「豚が食べ物の神だよ」って言っても何のことなのか現地住民に理解してもらえなかったからかと。要するに淡海に居候してる祇園の熊の男が第4容疑者です。これも古事記では「殺す神」だから。でも彼は「午頭天皇」の名の如く牛の姿も取る。見付天神の境内にはいたよねー、牛もね、とそうなる。熊牛の須佐之男が殺した矢の女神を猿田彦が淡海へ連れて行く、とかなかなかシュールな図である。須佐之男に太陽神としての性質は乏しいけれども、熊野須佐之男の神使が八咫烏で、太陽鳥であるならば、その主人の須佐之男も「太陽鳥」である、ってあと一歩のところなので。こちらもイェンゼン+吉田のコンボのように、「よく考えたら須佐之男って太陽神なんじゃん」って結論を出すのにさして困らないようになっているのである。

 ということで、見付天神の矢の女神殺人事件の犯人は、太陽神である猿、太陽神である熊須佐之男、月神であるウサウサと候補が3種類あって、どれが犯人でもいいように「祭祀」が作られているわけです。太陽神である熊須佐之男が犯人の場合には、天照大神の地位の簒奪の祭祀、ということにもなる。「矢」というのは「太陽光線」を示すものともいえます。ウサウサの場合は、これが困るわけだが、「月読」は「太陽女神」の弟であって部下でもあるので、天体としての性質が競合しなければ、月読の力を増すのは、姉である太陽女神のためでもある、という解釈ができる点である。その場合、姉のために人々に豊穣をもたらすために矢の女神を殺す、とも言えなくもない。だから、太陽女神と対立する須佐之男が殺す神話は廃しても、月の神が姉のために狩りをする神話を廃してはならない。それをやると肉食獣である虎の太陽女神の生命そのものがたちいかなくなる、と原理主義なカモカモ様達には言われる気がするわけですがー;。太陽女神は太陽女神である限り、生贄の肉は食わねばならないものであるらしい。でなければ肉食獣はその本来の力を発揮できない。その結果、汚いことをやるかどうかは別として。

 で、犬は? となるけれども、「犬と狩人」は一体となっているものであり、かつ「媒介」でもある。丹生都比売の子神である高野御子と同じことである。ハイヌウェレのアメタは狩人であり、猪からココヤシを生じさせ、ハイヌウェレの死体から芋を発生させる「媒介」でもある。ただ殺しただけじゃ駄目なんだよー、となる。そして、ハイヌウェレにもある通りアメタは積極的に殺人祭祀を行う立場ではなく、むしろ批判的な存在である。「裸祭り」の場合、「死んでる矢の女神」は大国主命の所に運ばれる。すなわち、大国主と早太郎こそがハイヌウェレの「アメタ」に相当し、女神を別のものに化生せしめるシャーマンでもある、ということになる。里芋に化生させたら、それを「ハイヌウェレ型神話」と呼ぼう、というのがイェンゼン様のご高説だったと思うわけですが。「ジュビロ磐田をワールドカップで優勝させる権利」とかに変えちゃったら「大黒信仰」でよろしいですかね? と思うわけですが。意味としては何も違わない気がするわけですが。ともかく「犬と狩人」には、自分勝手な人達の欲望だけをかなえる媒介となるのではなく、生贄を多く立てすぎない義務、公平と平等を大切にする義務が「媒介」として、あると思うわけです。そういう「媒介」の再生と復活のために「貝の女神」は存在するわけだ。

 テレビは昨夜は「FNS歌謡祭」を見ました。今日の昼は昨夜の「FNS歌謡祭」の見ていなかった部分の録画を見ました。

22年7月13日

 本日は外出の日。買い物他でした。外作業は、母親が土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉が土の清掃、石片付け、私は土の清掃、土掘りでした。

 お裁縫は、シャツは衿作り、父親のシャツは袖のいせ込み、簡易シャツは襟ぐりの始末。

 テレビは昨夜は「それスノ」の録画等を見ました。今日の昼は昨夜の「ブンブブーン」の録画を見ました。