22年7月14日

 本日は外作業のみ。外作業は、母親が土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉が土の清掃、石片付け、私は土の清掃でした。午後は雨が降ったので、作業は午前中のみでした。天気予報ではしばらく午後は雨になる、とのこと。

 お裁縫は、シャツは衿作り、父親のシャツは袖つけ、簡易シャツは襟ぐりの始末でした。

 最近、「アジスキタカヒコネ」の正体を探るべく、結局ハイヌウェレ周りを漁ることになっているわけですが。ハイヌウェレの日本への紹介の仕方が、ちょっと深く探ると、「ハイヌウェレを殺すのは男性形の太陽神で豚である。」という結論が出やすいように誘導されているように感じるわけです。要は空を飛ぶ「紅の豚」じゃん? となってしまう-;。というわけで、豚を探しに考古学方面を探しに行っていて、どこにいるのかは分かってはいるわけですが。纏める作業が大変である。豚さんは殺しもするが、キアンのように殺されもする。しかも、そもそも太陽神なの? という問題もある。なぜ、そうなるのかを語らねばならないわけです。あとはスサノオの正体も探るべく「異神」という本も買ってせっせと読んでいます。だいたい、「記紀神話にない神」とか「正統な仏教の神」でないものを「異神」と述べるのであれば、「八幡神」なんかは最大の「異神」なのではないか、と思うのですが、そこはうまく避けているわけで。民俗学とか神話学には「意図的に避けて通る深淵」がゴロゴロしているところが面白くもあるし、言外にそういうことを示そうとすることができる人こそが良い学者であると思うわけです。露骨な誘導家のイェンゼンとか吉田は資料は豊富だけれども、好きにはなれない・・・。

 あとは、某見付天神の「裸祭り」は要は「マヨ祭」でしょ、と言われる気がするわけで-;。まあ、その通りであると思う。ハイヌウェレとの比較を述べれば、「ハイヌウェエは殺される」けれども、「裸祭り」では「女神はすでに死んでいる」という「北斗の拳」方式になっていて、「女が男のところに渡る」ということが「黄泉の国」であることを示しています。でも「猿神」の伝承から述べれば、元は生きている娘を殺していたのを、変更したものといえる。
 矢の女神を誰が殺すのか、という点は明確ではないです。伝承から述べれば「猿神」ということになり、渡御の先達を「猿田彦」が務めることがその名残かと思う。黄泉の国の祭祀だから、女神がもし生きている、と仮定すれば死なねばならないわけだから、生きている女神を黄泉の国に導く猿が「猿田彦」といえます。これが第一の殺女神容疑者である。猿神は「日枝」の山王の如く、微妙ではあっても太陽の性質を持つ。
 第2容疑者は、あちこちにいるウサウサ達で、これは「月の神の化身」なので、日本書紀の通り「殺す神」といえます。この場合、ハイヌウェレとの比較から述べると、ハイヌウェレは「豚の太陽神」に殺されたけれども、矢の女神は「月の兎神」に殺されたことになるので、「殺す側の神の性質」が異なることになります。
 第3容疑者は、マヨ祭で若い女神を殺すのはその夫(たち)であって、彼らは「豚の太陽神」の化身であるかもしれませんが、この祭祀には「男女の結合」がその子供である芋を生み出させる、という思想があることが分かります。矢の女神の夫は、淡海の大国主命であるので、彼も矢の女神を殺す容疑者の内に入ります。ただし、大国主命は本来出雲の神であって、人身御供は求めない神であるので、「裸祭り」の趣旨からいえば、後から挿入された神である気がします。大国主命を太陽とか月とする思想はほとんどありませんし。
 第4容疑者は、「豚の太陽神が変化したもの」である。あんまり見付ではその存在が明確ではありませんが、淡海は大国主命が主祭神であるにもかかわらず、祇園も盛んじゃん? 祇園っていったら須佐之男じゃん? となる。「豚の太陽神」は古代中国で誕生したものです。豚は他にも「龍」の一部であって、初期の龍は「猪龍」と言って顔が豚(猪)でした。でも、中国東北部の紅山文化の遺跡からは、豚とも熊ともいえない顔のついた玉(龍)が発掘されます。そして、朝鮮で有名な檀君神話では熊が始祖の重要な動物です。だから、古代世界の紅山文化あたりで、「豚の太陽神」は「熊の太陽神」に置き換える操作が行われたのではないか、と思うのです。その理由は、朝鮮から日本にかけては豚が強力に家畜化されていなかったので、「豚が食べ物の神だよ」って言っても何のことなのか現地住民に理解してもらえなかったからかと。要するに淡海に居候してる祇園の熊の男が第4容疑者です。これも古事記では「殺す神」だから。でも彼は「午頭天皇」の名の如く牛の姿も取る。見付天神の境内にはいたよねー、牛もね、とそうなる。熊牛の須佐之男が殺した矢の女神を猿田彦が淡海へ連れて行く、とかなかなかシュールな図である。須佐之男に太陽神としての性質は乏しいけれども、熊野須佐之男の神使が八咫烏で、太陽鳥であるならば、その主人の須佐之男も「太陽鳥」である、ってあと一歩のところなので。こちらもイェンゼン+吉田のコンボのように、「よく考えたら須佐之男って太陽神なんじゃん」って結論を出すのにさして困らないようになっているのである。

 ということで、見付天神の矢の女神殺人事件の犯人は、太陽神である猿、太陽神である熊須佐之男、月神であるウサウサと候補が3種類あって、どれが犯人でもいいように「祭祀」が作られているわけです。太陽神である熊須佐之男が犯人の場合には、天照大神の地位の簒奪の祭祀、ということにもなる。「矢」というのは「太陽光線」を示すものともいえます。ウサウサの場合は、これが困るわけだが、「月読」は「太陽女神」の弟であって部下でもあるので、天体としての性質が競合しなければ、月読の力を増すのは、姉である太陽女神のためでもある、という解釈ができる点である。その場合、姉のために人々に豊穣をもたらすために矢の女神を殺す、とも言えなくもない。だから、太陽女神と対立する須佐之男が殺す神話は廃しても、月の神が姉のために狩りをする神話を廃してはならない。それをやると肉食獣である虎の太陽女神の生命そのものがたちいかなくなる、と原理主義なカモカモ様達には言われる気がするわけですがー;。太陽女神は太陽女神である限り、生贄の肉は食わねばならないものであるらしい。でなければ肉食獣はその本来の力を発揮できない。その結果、汚いことをやるかどうかは別として。

 で、犬は? となるけれども、「犬と狩人」は一体となっているものであり、かつ「媒介」でもある。丹生都比売の子神である高野御子と同じことである。ハイヌウェレのアメタは狩人であり、猪からココヤシを生じさせ、ハイヌウェレの死体から芋を発生させる「媒介」でもある。ただ殺しただけじゃ駄目なんだよー、となる。そして、ハイヌウェレにもある通りアメタは積極的に殺人祭祀を行う立場ではなく、むしろ批判的な存在である。「裸祭り」の場合、「死んでる矢の女神」は大国主命の所に運ばれる。すなわち、大国主と早太郎こそがハイヌウェレの「アメタ」に相当し、女神を別のものに化生せしめるシャーマンでもある、ということになる。里芋に化生させたら、それを「ハイヌウェレ型神話」と呼ぼう、というのがイェンゼン様のご高説だったと思うわけですが。「ジュビロ磐田をワールドカップで優勝させる権利」とかに変えちゃったら「大黒信仰」でよろしいですかね? と思うわけですが。意味としては何も違わない気がするわけですが。ともかく「犬と狩人」には、自分勝手な人達の欲望だけをかなえる媒介となるのではなく、生贄を多く立てすぎない義務、公平と平等を大切にする義務が「媒介」として、あると思うわけです。そういう「媒介」の再生と復活のために「貝の女神」は存在するわけだ。

 テレビは昨夜は「FNS歌謡祭」を見ました。今日の昼は昨夜の「FNS歌謡祭」の見ていなかった部分の録画を見ました。