22年2月10日

 今日は雪が降ったので外作業はお休みでした。2月の恒例、一太郎の新作が届いたので、早速バージョンアップしています。今年も元を取るためにせっせとワープロソフトを使うぞー、と思います。

 お裁縫は、セーターのつくろい、ジャケットの袖つけ、ケープコートは裏地の裾の始末、ロックミシンカバーはポケットの作成でした。

 テレビは、昨夜は「ブンブブーン」の録画の続きと「いただきハイジャンプ」の録画を見ました。今日の昼は「いただきハイジャンプ」の録画を見ました。

 そして、暇な時は、色々な神社の動画を見ているのですが、粟島神の社とか見ていると、「粟島神とは、他人を人形のように使い捨てにする神」と言われる気がします。

 それから、民話の資料がたまっているので、最近分類も兼ねてデータベースを作成しているのですが、カトリックというのは古い時代の神話を書き換えて布教に励んだだけでなく、オーディンとか、エンリルとか「暴風雨の神」を「神」として利用する傾向が強いように思います。インドでいうところのシヴァ、ローマで言うところのサートゥルヌスだと思う。サートゥルヌスの分身といえるからユーピテル、ネプトゥーヌス、プルートーは現世でのサートゥルヌスの部下、みたいな、そんな感じなのか? と思う。サートゥルヌスとはエジプトではセトのことでも良いのか、と思う。豊穣のために生贄を求める神、再生のために人身御供を求める神、といえる。で、タンムーズは穀物の再生のための神だけれども、サートゥルヌスのように、人が黄泉の国から生きかえるためにも人身御供を求める性質の神もいる。壊された「縄文のヴィーナス」なんかは人身御供の身代わりといえる。で、特に西欧(南欧)では、当人が死ぬ前から予備的に人身御供を捧げる習慣が活発になりました。いわゆる、「幼児供犠」とか、「初子(人間含む)を神に捧げる」というものです。これは一族郎党の反映を求める祭祀でもありますが、子孫が繁栄して自分もその中に生まれ変わってきたい、でなければ繁栄した子孫達にちゃんとあの世で生まれ変われるように供養して貰いたい、とかそういう意味があります。でも、時代が下ると人身御供は非難されるようになります。そこで、ローマではクリスマスの前身のサートゥルヌスの祭りではろうそくと人形を互いに交換するようになりました。これがクリスマス・プレゼントの起源と言われています。火は「魂」の象徴、人形は「人」の象徴だから、お互いに相手を父なるサートゥルヌスに見たてて、身代わりの人身御供(人形)を捧げることで自身の再生、一族の繁栄、ローマの繁栄を願ったわけです。ローマの神々の結局はサートゥルヌスの子供達だから、人々はその子孫で、サートゥルヌスの孫も同然です。そして「捧げられた人形」とは、ローマ的には「異民族」とか「異教徒」を指すことになるわけです。ローマの宗教は国家宗教だから、個人だけでなく国家の繁栄も必ず願うものなのです。で、これがキリストがどうの、という話になると、特に改宗させた異教徒に対しては、「生まれ変わるために神の代理人にあらかじめ予備的に代償を支払いなさい。でも、人身御供はだめだから。」となります。となると、捧げるのはお金とか奴隷的労働力ということになります。それがローマの繁栄につながるのです。・・・だから、クリスマスがなんでよろしくないかというと、それは「シヴァを繁栄させるため(再生させるため)にサティーを殺す(人身御供を捧げる)」のと全く同じ思想の祭りだからです。信者に宝くじを当てさせるために、八幡とかその他の神々の上がりを取り上げて食い散らかす恵比寿・大黒と同じ思想です。ローマの3神は「父なるサートゥルヌス」に上がりを捧げるための「取り立て屋」に過ぎないのです。彼らはイエス・キリストの命を取り立てて、人々にイエスを見習って犠牲になれ、と言った。それが「ローマ式」なんじゃないの、と言われる気がするわけで-;。「ローマ式」はさらなる上位の「父なる神」に仕えるために存在する。サートゥルヌスを殺して、自分だけが「天にいる父」となった者のために。と言われる気がするわけで。・・・というわけで、ともかく、生きているうちに分割払いで「自分が生まれ変わる(天国に行く)代金」を人身御供に変わって支払わなければならなくなったのがローマ式っぽい、ということで。結局、好きなのはエンリルとかオーディンとかシヴァとか、人身御供を求める精神の神であるらしいです。