昨日は飯田・木曽方面へ出かけて。飯田・姫宮神社、八王子神社、清内路上下諏訪神社、南木曾・五宮神社、中津川・山口諏訪神社・粟島神社、坂下・出雲招福神社・中山稲荷・坂下神社を参拝してきました。
最近はまっている、動画の神社巡りでは、風がないのに複数の御幣のうち一つだけが揺れていたりすると、「神様が歓迎してくれているサイン」だとよく出てくるのですが、神社に参拝してあられが降ってきたり、雷が鳴ったりしたら、それも歓迎のサイン・・・じゃない気がする、と思うような一日だったわけで-;。むしろ「祟られてるのでは」と思ったのですが、膝まである雪に埋もれて歩いたりとか、気づかずに凍った池に歩いて降りてしまっていたりとか、「遭難しなくて良かった」という趣の旅になってしまいましたー;。もうこれ以上の修行は春まで無理かと思います。
で、良かった点・・・。ともかく、県境まで出たい、ということで、山口諏訪神社・粟島神社に参拝したのですが、山口は元は長野県の村だったのが中津川に合併したのだそうで、神社も諏訪神社だし、社殿も木曽の宮ノ越の宮大工が建てたもの、ということで木曽の文化が感じられる神社だったので、行って良かったな、と思う。で、山口諏訪神社まで行く予定しか立てていなかったのですが、坂下の道の駅でお昼を食べたら、観光地図の掲示板があって、近くに「坂下神社」という神社があって、木曽義仲が戦勝祈願をした、とあったので、義仲縁の神社巡りをしている私なので、行ってみることにして。
で、今までにない奇妙な体験をいくつかした日であって。
坂下・出雲招福神社・中山稲荷・坂下神社。坂下神社に行ってみたら、入り口の横に「出雲招福神社」という新しい感じの神社があって、大きな恵比寿・大黒の石像があって。社殿は何故か、恵比寿・大黒・秋葉神社が並んでいて。立て看板には出雲大社から勧請した、とあるので、恵比寿・大黒はまだ分かるわけですが、「秋葉は出雲大社ではないよね?? 何故ここにあるの?」とまず思う。それから、何と言うか、小綺麗で手入れも良くされている神社なのだけれども、ぴかぴかの恵比寿・大黒像がこれみよがしにあるところとか、いかにも「現世利益」をもたらす神社ですよ、みたいな、ものすごくあからさまに「俗っぽい」感じを受けたわけです。・・・別に神社に参拝したら、誰もが世界平和とか、公共の福祉を願わなければいけない、とは思いませんけれども、いかにも「自分だけがお金がもうかりたい」みたいな、「自分に宝くじを当ててもうけさせて欲しい」みたいな、そういう「参拝者にだけ特別な利益かつ現実的な利益を与えるための大黒様の打ち出の小槌だし、参拝者にだけ大漁(一攫千金)を与えるための恵比寿の釣り竿」が、ものすごく前面に出ている気がするわけで、長野県の神社にも恵比寿・大黒を祀っている神社はあるけれども、なんだかこんなに「現世利益に露骨な感じじゃない」と思うわけで。「文化が違うな-」と思ったわけです。しかし、なんで秋葉? と思う。そうしたら、「もっと単純に見ましょう。大黒とはインドのシヴァのことで、米俵(植物は地面から生える)や金物類(鉄鉱石や金鉱石は地面の下から掘り出されるもの)だから、植物神であり、鉱物の神であって、地下世界の神ということだから、「黄泉の国」の神、ということです。米や金物類は冥界神である大黒の分身でもあります。恵比寿は釣り竿を持っているのだから、海の神・漁師の神です。漁は当たり外れが大きくて一攫千金的な仕事でもあるので、恵比寿(海の神)の分身である魚(=お金)を大きく当てて下さい、ということです。秋葉は明らかに火雷神ですので、そこにいるのは、プルートー(ローマの冥界神)、ネプトゥーヌス(ローマの海神)、ユーピテル(ローマの雷神)の三神でしょ。」と言われる気がするわけで@@。
・・・大黒や恵比寿が「商売繁盛」の神サマである、というのは、彼らが冥界神であり、海神であるからこそ、ということなのですねえ? と思う。もたらされる「福」とは、大黒や恵比寿の化身とか分身(=金)そのものである。というか、ローマの神々って、こうも露骨に「ローマ人だけに現世利益をもたらす神」なんだ? と思う。で、普段神社巡りではあんまり人に会わないわけですが、私が参拝している間、出雲招福神社には次から次へと途絶えることなく参拝客が来ていて。多くは「黒い服」を来ていて、で、なぜか出雲招福神社だけ参拝して、坂下神社には寄らない人が多くて。・・・なんで? と思う。
で、坂下神社の方も立派な神社であって、義仲に信仰されただけあって、主祭神は八幡で、天満、御鍬(豊受)、稲荷、熊野、高峰と多彩で立派な神社で。なんで、こっちには人は来ないの? と思う。そうしたら、「ローマ外の神々のためにも、立派な神殿はいくつもあっても、結局は張り子の虎で、中身は空っぽってことでしょ」と言われる気がするわけで@@。しかも、八幡、天満、熊野と「御霊」系の神々が多いし、そこはいくら立派でも「幽界」でしょ、と言われる気がするわけで@@。で、高峰神社は地元の偉人の曽我五郎十郎さんを祀っているわけですが、きちんと祀られているのですけれども、他の神々に比べれば祠は小さい。「なんで?」と思ったら「曽我五郎十郎は資材を投じて村のために尽くした人で、自己犠牲の人です。だからその姿がイエス・キリストになぞらえられている。イエスはローマでは大切に敬われているように見えるけれども、実際はその程度の小さな神としてしか扱われていない、ってそうい意味なんじゃないの?」と言われる気がするわけで@@。ということで、「小さな俗界=出雲招福神社」と「大きくて空虚な冥界=坂下神社」という構図でよろしい? 人々に福を与えるのは、冥界に封印された(主に)異国の神々から取り立てた物品をばらまいている、ということで。・・・ということで、こういうことを考えていたら「あられ」に祟られたわけですが-;。
「あられ」をもたらす「暴風」の神がシヴァであり、オーディンであり、エンリルであり、スサノオであるのだと思う。彼らが荒ぶると、洪水とか嵐とかよからぬことが起きるわけですが、彼らが穏やかな時は慈雨をもたらし、春の優しい風をもたらしたりする。その性質は多岐にわたり、植物の生育に関わる時には、植物の化身となる。それがタンムーズとかアッティスである。また、乾期(あるいは冬)に植物が枯死する時には神は死んで、冥界神となる。それが、オシリスとか、プルートーとかヤマ(閻魔)である。だから、ヒッタイト神話でいうと、天候神のときはテシュブ、植物神の時はテリピヌという名前になるけれども、それは元々「同じ神」なのである。メソポタミアのエンリルとドゥムジも同じこと、と言われる気がするわけで。
で、古代イスラエルのバビロニア虜囚時代に「エゼキエル」という預言者がいたわけです。彼はバビロニアに連れてこられて、バビロニアの文化に染まっていくイスラエルの若者達を憂えていたし、イスラエルの伝統である一神教を体系づけて維持したい、と考えていたと思います。バビロニア式多神教の最たるものは、いわゆる「タンムーズの葬式」であって、乾期に枯死した植物神の死を女性達が嘆く、という祭祀です。エゼキエルはこの祭祀を「忌まわしいもの」とみなしていました。そして、神は死ぬものではないただ一つの永遠のものである、としようとした。なんでなのでしょうか? と言われる気がするわけで。
エンリルは「死ぬ神」であるし、「タンムーズ」も植物神で死ぬ神です。彼らが死んだら、葬式で嘆き悲しむだけでは済まない。世界のために彼らを再生させなければならなくなります。要するに、彼らを生きかえらせるためにその妻を人身御供として殺す、というのが「タンムーズの葬式」の本当の姿です。時代が下ると「密議」といって、人々は葬式の方は盛大にやるけど、人身御供を捧げる方はコソコソと秘密裏にやるようになった。でも、タンムーズといえば「人身御供」というくらい有名な話だから、「タンムーズの葬式」をやるところは、人身御供を捧げたり、寡婦に殉死を要求するような人でなしなところ、だとみな知っているので、エゼキエルは「タンムーズの葬式」を「忌まわしいもの」とみなしたし、「神が死ぬものであれば、生きかえらせるために人身御供が必要とされる」のだから、「神は死ぬものではない」とすれば、「人身御供は必要とされない」ということが、古代世界の一神教の出発点ですよ、と言われる気がするわけで@@。妻が人身御供とされなければ、そのしわ寄せは社会的弱者とか、子供とか赤ん坊が代わりに殺されるようになる。
世界は恐ろしい人食いの虎の女神に人身御供を捧げることを止めさせるために、神々を殺したのに、今度は殺された神々を再生させるために人身御供が必要とされるようになったのです。だから、それを何とかせねば、というのが「一神教」の発生のはじまりなわけだ。だから、「神は死ぬものではない」もの、すなわち「生まれ変わる(若返る)」才能のあるもの、そして何度生まれ変わっても「神」としての能力を備えて生まれてくるであろうものを、理不尽な人身御供から逃れるために、人々は求める、ということで。
で、神職(神官)というものは、神サマと組んで、その力を強めたり弱めたりすることのできるもの、と言われる気がするわけです。鼓舞したり、鎮めたりする、ということで。だから、神サマと神職がウマがあって仲が良いと、どちらもうまく力を発揮できる。仲が悪いと、お互いに押さえつけ合ったりしてうまくいかない、ということらしくて。スサノオ(プルートー)と火雷神(ユーピテル)の神官であるもの、かつ稲荷神と契約を結んでいるものが、妙なローマ式に乗り込んだらどうなるかなー? ということで。たぶん、バランスが崩れて稲荷神が一番強くなるのではないか、と思います。次席が火雷神ですな。伏見さんは金満な気を食べ過ぎて、黄金色の尻尾が生えてきたような気がするわけですが-;。(まあ、こういうことを考えているから祟りであられが・・・?-;)
で、帰り道は国道19号線を中津川からのんびりじっくり運転しながら長野まで帰ってきたわけで。松本・長野間に変な車がいて。国道にはところどころに道路脇に車を停められるスペースがあるわけで。で、そういうのがあるにもかかわらず、国道に車を停めている車があるわけです。当然、対向車が少ないときに追い越す。そうすると、後からついてくる。しかも、1台だけでなくて必ず2,3台一緒についてくる。私はスピードを出すのが嫌いなので、煽られる感じになると、すぐに車を停められるスペースに車を止めて、後続の車を先に行かせてしまうわけです。だから、いったんは追い越した車がついてくるので、よけて先にやる。そうしてしばらく行ったら、またその車が国道に停まってる。仕方がないので、また追い越す。そうすると、また着いてくる、ということで、そういうやりとりが3回くらいあって。松本・長野間は通る車が少ないので、そういうことも人にあまり迷惑をかけずにやれるわけです。・・・道案内の猿田彦ではなくて、ストーカーの猿田彦かも、と思ったわけですが-;。猿神退治の神社に寄りましたのでね。押さえつける力が少しでも強くなっていればいいなあ、と思うのですが。
そして、家に帰ってきた調べてみたら、出雲招福神社は、本当に「宝くじが当たる神社」として有名らしくて。お礼の手紙とかが良く届くようです。どうりで、そんな雰囲気だったなーー、と思う-;。私は宝くじは買わないので当たりようがないので、その代わりに素敵なお婿さんを30人ほど引き当てられればいいなあ、と思いました。
夜は「SHOWチャンネル」と昨夜の「A Studio+」の録画を見ました。