22年1月25日

 昨日は立科町・望月町に出かけて。両羽神社、大伴神社、豊川稲荷・西宮神社、諏訪神社(茂田井、塩沢、山部、宇山)、功徳社、冠者社、蓼科神社里宮、望月城の稲荷神社、光徳寺の稲荷神社を参拝しました。立科町の神社は割と御嶽(おんたけ)が境内にあることが多くて、しかも御嶽、八海山、刀利天狗とかの三位一体が多かった気がします。

 それから、豊川稲荷とは荼枳尼天が主祭神だということを始めて知りました。荼枳尼天とは、元々仏教の女神で人肉を食べる魔女だったそうで、だいたい豊川稲荷の総本山である「豊川稲荷」は仏教寺院であるそうです。でも、古くに分社したものは、明治以後、神社になったものが多いらしい。で、荼枳尼天は日本では、弁財天と同一視されることが多いらしくて。望月町では豊川稲荷と弁財天が同じ場所に祀られているらしいです。鹿曲川は蓼科連邦から発して千曲川に流れ込む川なので。川の呪いを解いて良かったな、と思います。

 また、立科町の諏訪神社は、塩沢に八坂刀売、山辺に建御名方富命が祀られていて、この2つは本来一対のものであったのでは、と思うのですが、その点は由来からははっきりさせることができなくて。その間に、義仲ゆかりの冠者社があって、割って入っているのか、と思いました。立科町の神社は、どこそこの何代目の領主、とか、割と個人を神として祀る傾向があるように思います。そして功徳社のおじいちゃんは、まだ自分のことを覚えていて、いい人だった気がします。立科町全体も感じの良い町でした。

 昨夜はなんだか夢を見て。まだ自分が学生で、卒業する、ということで学校のロッカーの荷物とかを纏めて、家に持ち帰ろうとしていて。「春から新しい生活だ-」とかって思っていて。で、同級生で私に嫌がらせを繰り返していた人達に会って。思い切って「今後はあんたたちとは付き合わないから。」と言ったら、相手が嫌な顔をした、という夢で。早く正夢になればいいな、と思います。

 本日は買い物にも出かけましたが、割と暖かくて外作業もできて。母親は土の埋め戻し、姉は土の清掃、石片付け等、私は土掘りでした。

 お裁縫は、セーターのつくろい、ジャケットは前身頃と後見頃の縫い合わせ、ケープコーとは前身頃の製作です。小物は、ロックミシンのカバーを作ろうと思っていて、布の裁断をしました。

 テレビは昼は「それスノ」の録画の続きと「CDTV」の録画を見ました。夜は「CDTV」の録画の続きを見ました。

22年1月25日

 昨夜はなんだか夢を見て。私が光ちゃんと結婚していて、光ちゃんはうちの親ともうまくいっていて、みんなでご飯を仲良く食べたりしていて。そこに翔ちゃんがお客に来て、みんなで食事をして。翔ちゃんにお土産を持たせる、という話になって、光ちゃんがニコニコしながら「黄色い米と白い米とどちらがいい? うちは両方とも作っているけど。」と言って。翔ちゃんが私に「黄色い米と白い米のどちらが好き?」と聞くので、「どっちでも」と答えたら翔ちゃんが微妙な顔をする、という夢で。

 目が覚めて、どういう意味だろう? と、あれこれ考えた結果、「黄色い米」とは「母方(蛙の目の人達)」、「白い米」とは「父方(ゲイ神話のゲイの方=印欧語族=白人)」のことだと思うわけで。・・・この期に及んでそれ? 大岡裁判ですか? と思うわけで-;。だいたい、その内に、あらゆる場面で、現実に「その2つのうち、どちらを選ぶのか」を直談判で突きつけられそう、と思う-;。そうしたら、最近23になったばっかりの私の若い軍師から、

「だから親政をとるべきなんですよ。どちらかに何もかも任せてしまうのではなく、案件ごとにそれぞれの言い分をしっかり聞いて、良いと思う方を自分で選んで行くしかないでしょう。それを支えるために、自分達はいるのです。」

と言われる気がするわけで。でも、その他大勢の人達からは若い軍師については、「いくらしっかりしている、といってもまだ好きな人に恋焦がれる、車の免許も持ってない23歳の若者なんだから、そこのところは分かってあげないと可哀想。」と言われる気がします。・・・その若さで、40過ぎた、当代一の頭脳を持つおじさん二人の間に、きちんと割って入ろう、という姿勢はよくよく立派だと思うし、頼りにしています。私の方が「半分に切って2つに分ける?」って言ってしまいそうである-;。

 後は、詐欺市役所の方から、またまた恥ずかしげもない開き直った「これからも詐欺を続けます」という趣旨のメールが来たので、「お話することは何もありません」と返しておきました。青池保子センセイの描く「エロイカより愛を込めて」という漫画のロレンスみたいな斜め上の異次元思考回路だと思う。・・・たぶん、「公図を修正して欲しかったら、詐欺に引っかかれ」って言いたいのだと思う。・・・まあ、だまされるのも自己責任ってそういうこと? 公務員鴨が何を言ってるのやら、と思う。これを止められない市長かー、「脳筋」という言葉が似合うタイプか? と正直思う-;。今のところ、私はそこまで脳筋とはいえないレベルのようですー;。まあ、夢でちゃんと警告が出てましたからね。

 そして、昨日は翔ちゃんのお誕生日でした。おめでとうございます<(_ _)>。・・・誕生日に送ってくる夢がそれ? と思う;。

22年1月24日

 本日も家にいる日でしたが、寒かったので外作業はしませんでした。その代わり買い物に出かけました。

 で、暇な時はあちこちの神社の動画を見て、各地の神サマとの結縁に余念がないわけですが。伊勢の椿大神社の動画を見ました。主祭神は猿田彦です。猿田彦は日本書紀のみに出てくる神で、ニニギが天から降りてきた時に道案内した神、と言われています。だから、「道案内の神」とされています。天狗の面を被った大男の神であるらしい。伊勢が故郷で、海岸で貝に手を挟まれて海に引っ張り込まれ、溺れ死んだ、と言われています。だから、椿大神社には猿田彦の墓があります。で、結局、猿田彦ってどういう神なのだろう? と思う。あまり他に性質の似た神が思いつかないので。そうしたら、なんだか昔良く見ていたサイトを見てみたくなって。検索して見てみたら、蛇王ザッハークとニンギジッタの記事が載っていて。蛇王ザッハークは古代ペルシャ(現在のイラン)の悪い王で、肩から2本の蛇が生えていて人身御供の若者を食べた王である。ニンギジッタはメソポタミア(現在のイラク)の冥界神の一柱らしい。こちらも肩から蛇が生えているので、ニンギジッタがザッハークの原型であるらしい。ありそうなことは、人食いの蛇の神は悪い神であるので、誰か英雄に倒されて、死んだ後、冥界の神になった、という話が共通にあって、そこからイランの伝承と、メソポタミアの神話に枝分かれしたのだと思う。でも、ニンギジッタはメソポタミアの神々としてはさほどメジャーではない気がする(冥界神といえばエレシュキガルとネルガルなので)し、神が誰かに殺される、というのは神話としては世界を変えるような重要な話のはずなので、ニンギジッタの地位が低下するにつれて、殺される神話が欠落してしまった(あるいは意図的に削除されたか?)のではないか、と思うわけですが。メソポタミアで重要な「神の死」の神話といえば、イナンナあるいはタンムーズの黄泉下り、か、神々のティアマト殺しである。「悪い蛇神退治」はむしろ、ティアマト殺しに集約されていく気がする。で、「蛇王ザッハークと猿田彦は同じものだから」と言われる気がするわけで@@。猿と蛇がなんで同じ? となる。そうしたら、「ラーマヤーナを調べるように」、と言われる気がするわけで。

 「ラーマヤーナ」は古代インドの叙事詩です。インドの神話には、これとは別に「悪蛇退治の神話」があって、インドラという雷神が、ヴリトラという「干ばつをもたらす」蛇を退治します。一方、「ラーマヤーナ」の主人公ラーマ王子はラーヴァナという頭を10個持っていた羅刹(悪魔のようなもの)を倒します。ラーヴァナは神に等しい力を得るために、自分の首を一つずつ切り落として燃やす、という修行をします。そして、最後に1個だけ頭が残って、強力な力を得る。「頭を燃やす」というのは太陽神を連想させます。そして、最後に1個だけ残る、というのは中国のゲイ神話を連想させます。弓の名手であるゲイが干ばつをもたらす10の太陽を射落として、太陽は1個だけになる、という神話です。ラーヴァナもラーマ王子に倒されます。

 神の頭が複数あって、しかも蛇神とすると、それは分かりやすく川の神格化といえます。川は頭(あるいは尾という名の支流)がたくさんあって、蛇のように長いからです。でも、それは世界的には「干ばつをもたらす神」とみなされていることが分かります。干ばつをもたらすのは、どちらかといえば「強い日差し」ですので、頭が多数ある「川の神」と頭が一つしかない「太陽神」は同じもので、それを倒す神話や伝承がゲイ神話であり、ラーマヤーナである、ということが分かります。で、雷神とは、普通雨ももたらすものですから、雨が多すぎると水害が起きます。「ノアの箱舟」のような「大洪水」の神話も世界各地にあります。ということは、雷神・太陽神・川の蛇神は一体のものであって、人々から見れば、彼らのバランスの良い時に豊穣がもたらされるわけです。バランスが悪いと水害か干ばつが起きます。古代のシャーマンの役割とは、神々と交流して自然のバランスが丁度良いように御願いするものだったともいえます。例えば、古代中国の伏羲は「雷神の子供」のようにも言われますし、雷神の命を助けたことで大洪水を免れた、とも言われています。伏羲が雷神と交流できるシャーマンだったから、大洪水を逃れることができたし、人々は伏羲の子孫のシャーマンにお願いすれば雷神の怒りを静めてバランスが取れる、と考えました。この場合の雷神とは、太陽神でもあり、川の蛇神(竜神)でもあるのです。普段は穏やかな太陽の相でも、太陽のまま祟って干ばつを起こしたり、雷の相になったり、水神の相になったりします。

 だから、インドラとヴリトラの戦いのように、本当は元は「同じ物」が戦うということは奇妙な神話であって、本来は荒れる神々の相のいずれかがあったのなら、「正しい祭祀」をして荒ぶる相を鎮めれば良い、という話だったのだと思います。でも、特に農耕が始まって人口が爆発的に増えるようになったからかもしれませんが(とはいえ、人は狩猟採取時代から共食いをする猿だったのですけれども)、人身御供を求めるようになって、川の蛇神に人身御供を捧げるようになりました。元から当たり前のように他人を狩って食べていたから、その延長上の思想で、神に人の餌を食べさせて鎮めようとしたのかもしれません。元々神は虎の神だから。狩る方はそれで良くても、狩られる方はたまったものではないので、戦いが起きて、人の餌を求めて川に食べさせる神の代理人(言い換えれば現人神)は殺されました。殺されるはずのない太陽神が殺されてしまって、世界は2度と元に戻らず、5000年以上の間、悲しみの喪に服している、と原理主義者は言うわけだ@@。殺されたのは、人食いの虎の太陽女神と、それを支えて人身御供を次々と殺していた夫であるシャーマンだと思われます。「神を殺した者」は新たに、「人身御供を求めない女神」を立てて、自らが新たな神兼シャーマンに立とうとした、そうして、人身御供の求められない平等な社会を求めようとしたけれども、元は中国の母系社会の「婿大嫌い」の文化が災いして、失敗したわけです。でも、下手に「男性が神として主導を取る政治」を作り上げてしまったので、子孫は男性が神兼シャーマンとして「死んだ先祖の神」の権威を縦にとって人身御供を要求するようになり、男系の文化を打ち立てるようになった、とそういうことで。子孫は母方の先祖の人食いの思想と、父方の先祖の「男が神になる」という成り上がりの思想の「悪いところばっかりとって」世界を征服するに至る、と-;。なので、各地に英雄が神を倒したり、神々が戦ったり、殺されるのが女神であったり、父なる神であったり、人身御供も若い娘だったり、若者だったり、という混沌とした神話や民話が乱立するようになりました。でも、その話の内容で、その土地の人々が母系の思想を大事にするのか、父系の思想を大事にするのかは分かるわけです。「ラーマヤーナ」のように、最後に結局妻のシータを殺してしまうのは、男系のよろしくない思想、女神と男神と力を合わせて悪い竜の悪い部分だけを倒すヒッタイトの神話は中庸のよろしい思想、とそうなります。変形的ですが、女神が女神を殺す話も男系のよろしくない思想です。これはどちらかといえば、テセウス神話の変形版といえます。男が絡む話が多いからです。

 で、「男神が殺される神話」は、一つはオシリスとかアッティスのように神が植物の生育に関して殺されるものがあって、これは「人身御供」としての死、といえます。一方ヴリトラやザッハークの死は、彼らは人身御供を求める悪神であったから殺されたのであって、「悪いシャーマンの死」から発生したものといえます。では、「猿田彦の死」はどっちなのか、ということになります。猿田彦は太陽神のようにも考えられる神ですので、明確にいずれかの英雄に殺された、との神話はありませんが、「悪いシャーマンの死」といえます。というか、泣いたり騒いだりする祟り神の「スサノオの死(高天原追放)」も「悪いシャーマンの死」です。ということは、「猿田彦」というのは、「スサノオ」の別名、地上に降りたスサノオの「天狗相」に過ぎないのではないのか、ということになります。そして、「道」を定める神でもあるので、占いの達人・伏羲の別の姿でもあるのです。要は伏羲と饕餮は「男系の悪いシャーマン」で「同じもの」といえます。雷神の子と言われ、雷神を操る力を持つ、と考えられ、自ら雷神のようにもふるまいます。そして、彼らが死したる「悪しき雷神」「悪しき太陽神」「悪しき川の蛇神」である、というのであれば猿田彦はザッハークでもあり、ニンギジッタでもある、といえるわけだ。

 というわけで、どのような神が殺されようが、現人神であって人である限り、殺されることだってあるのは事故でも故意でも仕方のないことで、5000年も喪に服するのは長すぎる。せいぜい5日も服せばそれで良い。「太陽女神」は太陽は1個しかないものだから一柱で良いのは別として、有能な人はあらゆる分野で世界中に大勢いるのだから、神がただ一柱である必要性は全くなく、多くの神々がいて、助け合うことこそが正しいと私は思う。そして、他人の「前世の行状」でいちいち苦情を申し立てるのをやめるように、と思う-;。人は何回生まれ変わっても変わらないものだとしても、行状について責任が問われるのは「今生」のことだけで十分でしょ、とも思う-;。

 で、潤ちゃんの新しいドラマも、ようやく時間を見つけてちょっと見る。全部まだ見ていないわけですが、隣の家の親父が娘を水風呂につけて虐待する親父らしい? というところまで見て-;。怪しい隣人を演じる小澤征悦氏の叔父の小澤俊夫という人は「世界の民話」という本を編集したドイツ語学者で、「世界の民話」の最初の12巻、あたくしがまだ中学生の頃に読んだこの12巻があたくしの民俗学の出発点であり、原点である。で、「父なる神である者が、若い娘を冷たい水に放り込んで人身御供として虐待するのが饕餮でありスサノオでしょ。」と言われる気がするわけで@@。どーゆードラマなの、それ? と思う。・・・というか、優柔不断なチカラ君は、なんか首は突っ込んでみるけど、どうして良いのか分からない感じというか・・・。それって誰かを馬鹿にしてたりとかしないよね? 例えば、我が家のひいじいさんとか、ひいじいさんとか、ひいじいさんとか? 首を突っ込んでみたものの、結局世界はこんな感じ、ということで-;、と思わず3連呼してしまうわけで-;。・・・言っとくけど、ひいじいさんの不名誉は子孫であるあたくしの不名誉でもある、ということくらいはリベラルなあたくしでもそのくらいのことは言う-;。

 で、話は「もののけ姫」に戻るわけですが、結局、古き神々であるモロと乙事主一族の死は、狩猟民であった人々の「太陽女神とそのシャーマンの死」を現しているのだと思う。でも、乙事近辺の人々に「私のことをどう見ますか? 烏帽子ですか? それともサンですか?」と聞いたら、「あんたはモロでしょ。今ではあんたが山犬(狼)の家の家長でしょ?」と言われる気がするわけで。・・・そんな話もありましたっけねえ? と思う-;。むやみと他人を食べる人食い虎になりたいとは思わないけれども、私にも餌は必要である。孔子の言葉にあまり頼りたくはありませんが「中庸の徳」といって、バランスを大切にするのは、あらゆる点で大切なことかと思います<(_ _)>。

 お裁縫はセーターのつくろい、ジャケットは袖作りが完了して前身頃と後身頃を縫い合わせています。ケープコートは前身頃作り、小物は針刺しを追加で1個作りました。親も使いやすい針刺しで良い、と言ってくれます。針の錆びにくいシリコン入りの綿、という針刺し専用の綿を買って詰めてみたわけですが、なんだか針が抵抗なく刺さって気持ち良いです。

 テレビは、昼は「食宝ゲットゥーン」の録画を見ました。昨夜は「ニノさん」の録画の続きと、相葉君の動物番組の録画をちょこっと見ました。亀ちゃんがコロナに感染したそうです。どうか、お大事に<(_ _)>。オミクロン株? とか、感染力が高いというだけあって、あちこちで患者さんが出ていそうです。長野県も蔓延防止措置の対象になるそうですし。私もそんな中、けっこう外出はしているわけですが、あんまり人のいなさそうなところばかりうろついているので-;。今のところは元気です。

 昨夜もなんだか夢を見て。家に翔ちゃんがいて、そこに母方の従姉妹が遊びに来て。従姉妹はインコの雛を連れてきたのですが、それが雛であどけない顔をしているのに、鶏くらい大きくて。で、3人で話をしていたら、翔ちゃんに「敵のうまい話に気をつけるように」と言われる、という夢で。「何かあるのかなー?」と思っていたら、何故か郵便受けによその回覧板が入っていて。うちは自治会に入っていないので、関係ないので、親が関係ありそうな家の郵便ポストに入れたのですが。なんだか「自分から自治会に入りたい、と言え」みたな圧力みたいなものを感じます。猿田彦が悪い方の道へ引っ張ろうとしている、というかそんな印象を受けます。そんな気は全くないのですが。

22年1月23日

 本日は家にいる日でしたが、寒かったので外作業はしませんでした。

 お裁縫はセーターのつくろい、ジャケットは袖作り、ケープコートは前身頃作り、小物は針刺しを2個作りました。1個は親にあげました。

 テレビは、昼は「ニノさん」の録画を見ました。

 昨夜はなんだか夢を見て。何人かで出かけて、私が車を運転していて、どこかの公園みたいなところに止めて出かけて。で、車のところに戻ろうとしたら公園の場所が分からなくなってしまって。困っていたら、Snow Manの岩本君に会って、交番まで連れていって貰って、お巡りさんに道を教えて貰う、という夢で。歩いている時に、「好きなだけ、泣いていいよ」って歌があったよね? と聞かれて、「どこかでそんな歌詞の歌があったなー」と思ったけれども、誰の曲か思い出せなくて。で、目が覚めたらウォークマンから「守ってあげたい~」と聴こえてきて、「そうだ、ゆずの「守ってあげたい」だ-」と気がついて。私が道に迷っても、道案内してあげるよ、という夢なのかなあ、と思いました。「中庸の徳」と書いたことへのお礼もあるのかも、と思う。

 そして、本日は廉君のお誕生日です。おめでとうございます<(_ _)>。

21年1月22日

 昨日は、再び茅野方面へお出掛けする。ともかく、富士見町の神社を回って、長野県側の神社を回れるだけ回ったら、県境を越えて山梨側の神社を1つ参拝して欲しい、というのが今回のミッションである。昨年の紅白以来の宿題だから。アラジンに呼び出されたランプの精のように、召喚がかかったら行ってくるのが神サマである・・・という気がする-;。

 で、メインテーマはいくつもあるわけですが、富士見町というのは宮崎駿監督の別荘があったとこと、ということで特に「もののけ姫」という映画の中の登場人物に富士見町の地名がついていることで有名なんである。乙事主様の「乙事」とか、烏帽子とかみな地名である。ジコボウというのはキノコの名前だけど。・・・で、ついでに言えば「アシタカヒコ」とは長髄彦(建御名方富命)、「サン」とは下照姫に引っかけてると、今なら思う。上社の匂いがプンプンするし、というかそもそも富士見町も領分としては上社の領域だよねえ? と思う。

 で、古代の宗教論とか長江とか稲作とか書き出すとキリがないので、ざっくり書きますが、まずは

乙事諏訪神社・・・乙事主様の名前の由来と思われる乙事の諏訪神社である。「宮崎監督にはさんざんお世話になってるんだから、行ってきなさい。」と言われた気がするから行く。ちょっと珍しい感じで、重要文化財とかで、本殿がなくて中世の様式がそのまま残っている神社で。本殿がない、ということが「山岳信仰」で山をご神体にしているんだろうなー、と思わせる。で、鳥居の横に「蚕玉大神」という大きな石碑があって。「もののけ姫」の「木霊」って「蚕玉」からとったんだろうか、繭玉みたいな形だし、と思う。で、「もののけ姫」の「乙事主」というのは、巨大な猪の「祟り神」であるので、「何かありそう」と思って境内の中を回る。そうしたら「八ヶ嶽坐王社」というのがある。・・・出たー、坐王だ、弥勒だー、絶対山に何か取り憑いてると思った、ということで-;。因縁というものを感じる。

柏尾社・・・大山祇を祀る土地の神社

信濃境神社・・・信濃境駅の裏手にある神社。諏訪梶がついていたから諏訪系の神社。県境を守る神社でしょうか?

井戸尻考古館・歴史民俗資料館・・・だいたい、朝出かける前から「井戸尻の方では「今日は目利きが来る」って行って待ってる」と言われる気がするわけで。尖石で数ある土器の中から1個だけ明確に「饕餮紋」とみられるものがあることを見つけ出したらそれで「目利き」認定らしくて。でも「目」の意匠は良渚よりも古くからあるものだから、ちゃんと勉強しておくように、と言われる気がするわけで。

 考古館の方は、「ここでは縄文時代のものしか扱わないから」みたいな但し書きが書いてあって、「ん?」と思う。なんで、それにこだわるの? みたいな。で、尖石の目玉が「縄文のヴィーナス」であるなら、井戸尻の目玉は「半人半蛙」である。井戸尻では「二つの目」は「神の目」扱いで、ちゃんと説明板に書いてある。・・・尖石ではそんなこと一言も書いてなかったじゃんーー、と思う。で、この「二つの目」が何かというと、一番普遍的な考え方では「男の目」なのである。でも、これを「男神の目」とするか、単に「男(巨人)の目」とするか、ということになると、もうそこから世間の評価は2つに分かれる、ということになる。大雑把にいえば、母系の文化の人は「男の目」とするであろうが、父系の文化の人は「男神の目」とするであろう、と思う。この「目」が何かと言うこと、河姆渡文化に「猪紋黒陶鉢」というものがありますので、猪なんだと思います。人々が狩猟民であった時代は、太陽女神は虎ですので、餌である猪が女神の命を支える、文字通りの「餌」あったわけです。母系の「男」の価値はそんなものー、ということで。

 結論から述べれば、この「二つの目」の起源は、古代中国の長江中流域の新石器時代の城背渓文化(BC7000-6000)の太陽神石刻にまで遡ると思う。これはなにがしかの神人の像が頭の上に太陽を頂いて、腰の辺りに月か星を置いている図像のことである。頭の上に太陽があるから「太陽神の像だろう」と中国の人は言っているらしい。私は違うと思います。何故なら、城背渓文化の時代は母系社会で、かつ稲作が始まっているので、稲の生育に重要な太陽は「女神」でないといけないからです。しかも、この神人の像は腰の辺りに月か星があるので、一種の「宇宙図」であり、むしろ世界と宇宙の土台となった「盤古」の原型であると私は思う。

 だから、太陽女神が一番高い位置にいて、その下に「大黒柱」である「男」がいる、という尖石の人面把手付土器は、太陽神石刻の思想を引き継ぐ土器なのである。図像の構造が同じだから。で、尖石の人面把手付土器には胴体に「蛙の手」のような文様がついているので、太陽女神のトーテムが蛙であったことが示唆されます。ともかく、「女神=蛙」という構図は、仰韶の影響かもしれませんが、長江流域の大渓文化(時代は仰韶とほぼ同じ)にも「蛙の足」を模したと思われる土器の文様があって、仰韶・馬家窯との関連をうかがわせるので、元は「太陽女神=蛙=母系の象徴」だったのだと思います。ただし、縄文文化では月=蛇、であり石棒サマ=男=蛇という思想が入ってきていますので、「月の男神=蛇」という扱いの文様が多いのかなあ、と思います。

 で、おそらく井戸尻の方が、尖石よりも数百年遅いモノなのではないか、と思うわけですが。「目を抱く蛙」が登場します。「蛙」というのは、特に水稲耕作で「死と再生の象徴」になります。なぜなら、冬の間姿を消して、春になるとよみがえる蛙は「生き返り」の象徴だからです。で、蛙は女神の象徴でもあります。北杜の出産土器も、尖石より時代は遅れると思います。要は、「出産土器」が出現し、「目を抱く蛙」が出現すると、蛙は「月の女神=蛙=子供を産む道具」となります。太陽神の地位を「男神」がとってしまうことになる。で、以後、中国でも「蛙の女神=月の女神」扱いとなって、文化は母系から父系へと移ります。

 というわけで、尖石の人面把手付土器が「蛙の太陽女神」を表していたので、数百年後には「蛙の月の女神」が井戸尻に登場して、食料であった猪(豚)が男の太陽神として君臨するようになりました、というか、その「構図」にドン引きする-;。豚はなんでもガツガツ食べますので、まさに「饕餮」では、と思う。祟り神の「乙事主」、そのまんまでは、と思う。

 ということは、「もののけ姫」でいうと、あるがままの狩りの女神の姿で定まった夫を持たず、子供だけがいる狼の母モロが「狩猟民の太陽女神」であり、片腕を失った烏帽子が「3本足の蛙の月の女神」の象徴なんだなあ、と思う。烏帽子は、人の村の長であって、賢く、知恵があって、世間のお偉いさん達とも渡り合うことができる。だけど、男装の女性で、名前からいっても、賢く強く優しくなる前には、売春をやったり、人をだましたり、生きていくために、そういうことをせねばならなかった女性であっただろう、とも想像される。そういう経験があったからこそ、賢く強く優しくなれた、ともいう。だから烏帽子は、彼女が悪いわけではないけれども「陰」の存在である。つまり、「もののけ姫」というのは、人の文明の発展と共に、狩猟民の太陽女神から、女神が蛙の月の女神に変わってしまうことの「象徴」としての物語だし、烏帽子の悲しさは、彼女が自ら賢く強く優しくなろうと努力しなければ、彼女は単なる娼婦、単なる窃盗女で終わってしまうくらい、結局その社会的立場が弱い、ということなのだと思う。モロの方はあるがままの姿で強く賢いのであって、別に彼女がそうなろうと努力してなったわけではない。でも、モロと烏帽子には共通項もある。自らの生活と子供達を守るために、祟り神と化した乙事主とその一族を排除せねばならない。それは結局モロとシシ神の死をも招いて、世界は2度と元には戻らない。モロの娘のサンと呪いの解けたアシタカは、どんな新しい「人間の世界」を作っていくのか、というところで物語は終わる。どんなもこんなも? と思う-;。さっきも「坐王」という名前の乙事主とか弥勒とかを見てきたばっかだし、ってそんな感じがする-;。

 で、歴史民俗資料館。富士見町の民俗資料館かと思ったら、古代中国の鏡とか銅戈とかが、何の説明もなく置いてあって、「どこの地域の資料館?」と思う-;。で、しっかり「良渚の玉」があって、饕餮の目が5連で縦に並んでるものとかがなにげに置いてあって、「これはどうみても意図的でしょ?」と思うー;。尖石の「月の目」が、井戸尻で「太陽の目」に成り上がって、良渚を経て「一神教の絶対的な神の目」にまで上り詰めていく「歴史」がそこにある。だから、尖石では、女神が蛙で太陽だったのに、現代では男神が八ヶ嶽坐王として高いところに君臨し、女神は橋の下に人柱、ということで。資料館には八ヶ岳の修験道の図面もあって、乙事神社に保管してあったものだとあって。木曽の御嶽(おんたけ)ほど有名であからさまではないけれども、八ヶ岳にも坐王と修験道が取り憑いていて、その中心となるのが乙事諏訪神社だったのだ、と資料館を見て悟る。これを理解するための「もののけ姫」だったのですかね、悟るまでに25年もかかって申し訳ない、とむしろそんな感じである。というか、尖石にも饕餮、井戸尻にも本場の饕餮、って絶対に確信犯でしょ? と思う-;。

 で、最後。ともかく、豚(弥勒)ではなく鶏(雷神)を取れ、ってそういうことね、と思う。それ以外は何をか言わんや、である。ともかく大祝・有員の御霊を持って来いと言われたから持っていった、お前の御霊も持って来い、と言われたから持っていった、ってそういうことである。世界には「太陽女神ただ一柱があればそれで良い」と言われても、上山文化ですか? いつの時代の話だ、よくよく原理主義では、ってそんな気しかしない-;。サンとアシタカがどんな世界を作っていくのか、ではなくて、アシタカを神から排除せよ、ってそういう思想では? というわけで、そこから先に思考を進める気になれない-;。世界はもっと「中庸の徳」という言葉を学ぶべき。特にどっかのマザコンの原理主義者は、と正直そう思います-;。そりゃ、私にだって餌は必要だけれどもさあ-;;。

 で、本日の外作業は寒かったので、石片付けのみでした。