本日はお出掛けする日だったので、買い物に出ました。そして、新年定例の大黒天、妻科神社を参拝した他、若月神社、陣屋稲荷、富建千引神社を参拝してきました。興味深かったのは若月神社であって。元は諏訪社であったものが、江戸時代に「郷名を神社名にせよ」とのことで、若月神社になったとのこと。境内に、平安時代の庚申塔(田舎では最古の部類のもの)があったり、近くに馬形帯鉤(うまがたたいこう)が出土した浅川端遺跡があって、歴史の古さを感じさせます。遺跡は、縄文時代から平安時代のムラの跡で、帯鉤とは、中国や朝鮮半島で使われたベルトを留めるための金具(バックル)で、住居跡から発見され、馬を飼育する渡来人の有力者が定住していたのかも、とのことです(http://weekly-nagano.main.jp/2019/10/227.html)。平安時代に至るまで、都(中央)との交流があったことが窺えること、もっと古い時代には朝鮮半島、中国とのつながりがあったことが窺えます。そういう「有力者」はごく限られますし、どうせ水内郡の金刺氏(信濃国造家)の関係者かと-;。・・・金刺って言うんじゃなくて、本当は「終わり」って言うんだっけ?)。平安時代に至るまで、都(中央)との交流があったことが窺えること、もっと古い時代には朝鮮半島、中国とのつながりがあったことが窺えます。そういう「有力者」はごく限られますし、どうせ水内郡の金刺氏(信濃国造家)の関係者かと-;。・・・金刺って言うんじゃなくて、本当は「終わり」って言うんだっけ? とか微妙なことを思うわけですが-;。境内に九頭竜と金比羅(大物主)の名前が並んでいる石碑があって、なんでその2つが並んでいるのか? とも不思議に思う。三輪山でもそんなようなことをやっていて、しまいには太陽女神を大和から追い出した? と、むしろそんな風に思ったわけですが。敵意は、今までの中ではかなり最大級に強かった気がするわけですが-;。でも、九頭竜の碑があったし、元々は浅川の竜女(九頭竜)を祀っていた聖地だったのではないのか、と思ったのですが。
稲荷というのは色々雑多な神々が一括りにされている気がするわけで。多くは、古くからの小さな土地神が屋敷神に変化して稲荷として祀られている感じですが、たまにけっこうな怨霊とかも混じってる、ということで-;。陣屋さんは割と良い神サマでした。元は陣屋があって、そこの屋敷神だったのかも、と思う。あまり力が強くないので、自力では外に出ることができず、私に憑いて外に出て「やっと外に出られた」とお喜びになられていたような。なんだか、羽を伸ばしにお出掛けになった感じでした。
あとは、YouTubeなんかを色々と見て。疲れるから1日に1個か2個しか神社の動画は見ないわけですが。昨日は京都の貴船神社の動画を見て。貴船さんも良い神サマであられた気がするわけで。「久米路橋を建てた時に人柱を立てた、と言うけれども、橋に関する人柱というのは、工事の安寧を求めるものではなくて、本当は橋を通る人々を見張るためのもので、宇治の橋姫と同じものだから、だまされて間違えないように。あなたは、今の地理から、太田川と犀川の合流地点を昔の修験道の「合流点」のように考えているけれども、昔は久米路橋しかなかったし、そちらが道路の「合流点」だから。すぐ近くに水内大社がある意味はまさにそこが「合流点」だったということだし、橋に死霊を配しているということは、古代の中国の人が捕虜の首を道路や境界の鎮め(見張り)に使ったのと同じ呪法だから。久米路橋の死霊が結界となって、選ばれた人々しかそこを通れないようになってたんですよ。」と教えて貰えた気がするわけで@@。さすが、橋姫の本場、京都の神サマだー、と思う。要は、古代の信州新町は、修験道の合流点で、行者で賑わっていたけれども、その一方であちこちの境界に「死霊」が配されて、一般の人々の出入りは制限されていたところだったんだなー、と思う。特に荻野池は周辺の集落は「義仲組」で纏められていて、色んな神社に取り囲まれて封印されていた気がするわけです。封印が解けたのは、封印に使われていたカグツチの呪いが解けて、私が半分その名前を貰って、私に対して結界の効果が薄れたことが原因かと。(後は乗鞍の竜脈の力が波及したから。)
お裁縫は、セーターのつくろい、ジャケットはポケット付けが完了、ケープコートは後ろ身頃の端の始末をしました。
テレビは、昨夜と今日の昼は「キンプる。」の録画を見ました。昼は大晦日から新年にかけてのCDTVの録画を見ました。